Ⅰ.
ためらうように口をはくはくと動かして、結局やめてしまった。何度もそれを繰り返して、どのくらい時間がったのだろう。
「……私、虐待? されてるの」
芭月が口を開いたとき、あまりの衝撃に私は言葉を失った。まるで実感を伴っていないような口調に、胸がぎゅっと締め付けられた。なんと反応するのが正解かわからなくて、ただ芭月の背中へ回した腕に力を込めた。
「殴ったり蹴られたり、罵倒されるなんてもう、日常茶飯事」
何も感じていないかのようにさらりと告げられた事実に、ただただ目を見開いた。口からは音にならない吐息が出る。芭月は私から少し離れると、困ったように笑ってみせた。
「そうは言ってもね、よくわからないんだ」
「え?」
口調から芭月がそう思っているのはなんとなく感じていたけれど、いざ言葉に出されると戸惑うものがあった。
「私は、『虚言癖』らしいから」
なんてことのないように言われた言葉が理解できなかった。らしいって、どういうこと……?
困惑する私を憐れんでか、優しく頭を撫でられた。そうされるべきは、本来芭月であるはずなのに。そう思うとどうしても苦しくて涙が溢れてきた。泣き顔を見せて心配させないように、より強く芭月を抱きしめた。
「みんなね、私の言うことを信じてくれなかったんだ」
頭が、その言葉を理解するのを拒絶して、何を言ったのか分からなかった。
「え……?」
「どっから話そうかな。うーんと……、最初から話してもいいかな?」
どこか物語でも語るかのような口調で、深刻さを微塵も感じさせなかった。ただ、彼女の言葉には私は頷くことしかできなかった。
***
最初は、それが普通で、当たり前のことなんだと思ってた。
物心がついたときから、私は殴られてた。だから、きっと、他のみんなもそうなんだって思ってたの。
でも、違った。
両親は共働きで、私は保育園に預けられた。そのときに、だーれも、体に痣なんてつけてなかった。血が出た痕なんてなかった。先生に、なんでみんな怪我してないの? って訊いたらすごーく変な顔された。
怪我はいつもするものじゃないんだよって。困った顔して笑われたのは、今でも覚えてる。そこでやっと分かったの。
おかしいのはみんなじゃなくて、私なんだ、って。そう思ったらすごく苦しくなった。今思えば頭がおかしくなったんだと思う。先生にそう言われた瞬間、幼いながら現実に吐き気がして、泣き叫んだの。
みんなお父さんに殴られてないの? みんなお母さんに叩かれてないの? って。
流石におかしいと思った先生たちが、私の両親に話を聞いたの。そしたらね、私は自分で自分を傷つける自傷癖があるんだ。構ってほしいから嘘を付く、虚言癖がある。そう、両親は先生に説明したの。
信じらんないよね。自分たちでつけたくせに、全部私のせいにして、責任転嫁しようなんて。物心ついたばかりの子供と、ある程度世間じゃいい顔してる大人。どっちを信じるかなんて言ったら、後者に決まっているでしょう?
それから、私への暴力は余計に酷くなった。誰も、私の言葉を信じてくれなくなった。大人がそう言うんだから間違いないって、誰もが信じ込んだ。誰もが、私を嘘つきだと信じて疑わなくなった。体に痣をつけていようが、いつものこと、と流されるようになった。
私は、それのせいか、物事を俯瞰して眺められるようになったの。幼いながらにね。保育園のときは、大人がみんな本当を信じているから、どうにもできないんだ。じゃあ、小学校に行けば、なにか変わるんじゃないかって考えるようになったの。私の嘘を信じてくれる人がいるんじゃないか。そう、信じたの。
でも、結局、なんにも変わらなかった。環境が少し変わっただけで、大人も、子供も、みーんな。
私の嘘を信じてくれなかった。あの人達の本当を信じるばっかりで。気づいたら私は嘘のことしか言っていないのに、周りに誰もいなくなっていた。
いつも傷だらけで、それは全部自分でつけたもの。その自分でつけたものを親のせいにする異常者。
それがみんなからの私の認識だった。そりゃそうだよね。誰も、自傷癖と虚言癖持ちのやつなんかと一緒にいたくないよ。
でも、やっぱりさ、しんどかったんだ。苦しかったの。誰も信じてくれなくて、その間もずっと暴力は振るわれ続けて、心がどんどんすり減った。
何度も先生に相談しても、迷惑だと言わんばかりに眉をひそめられた。何度も警察に行っても、結局両親の言うことを信じて、子供の遊びに巻き込むなって怒鳴られた。どんなに助けてくれって、何度も、何度も叫んでも見捨てられ続けた。むしろ悪者になっていった。それでもね、優亮は唯一私の敵にならないで、ずっとそばにいてくれたの。それが幼馴染っていうちっぽけな使命感だったとしても。
その存在が私の中では大きくて、本当のことを話したの。
「お前、嘘つきなんだろ!」
結局私の嘘は本当になれなかった。味方だったはずの人を、敵にしてしまうほど私の嘘は醜いらしい。
そう気づいてから、私は人と関わることを諦めた。頼ったところで結果は全部一緒。誰も助けてくれない。それはもうどうしようもない。吐き気すら込み上げなかった。ただ、生きているだけで与えられる罰に心を壊され続けた。
もう、体の痛み以外に何も感じないの。心の傷なんて、感覚が麻痺して苦しくもならない。辛くなんてないの。何も感じないから。
でもね、気づいたんだよ。何も感じない。生きていることに喜びも悲しみすらも感じなくなった私は、このまま生き続けて何になるんだろうって。
どうせなら、透明になって消えたかった。
***
「だから、私は死のうと思ったの」
話を聞いてる間、息が詰まって、苦しくて仕方がなかった。だけど、それ以上に芭月のほうが苦しいのは痛いほどに分かって、必死に気づかれたくなくて飲み込んだ。
「ねえ」
そっと、先ほどとは違った震えた声だった。肩の乗せられた頭がどことなく重く感じる。
「あの、ね」
「うん」
「な、なーんてね。い、今のはね、全部ね、全部……嘘なん」
「嘘じゃないでしょ……! 本当のことなんでしょ? ずっと、ずっとそうやって誤魔化してきたんだよね……」
壊れてしまうんじゃないかと思うほど震えた肩が。涙をぼろぼろこぼした、ひび割れた笑顔が。私の心に突き刺さるほど痛くていたくてしょうがなくて。芭月の肩に手を添えて、まっすぐ、瞳の奥を見つめた。
さっきまで無理しておどけた顔が、目を見開いた後、仮面が壊れたかのようにくしゃりと歪んだ。
「全部、信じてくれるの……? っ…………。私の、嘘を、琥晴は……信じて」
「当たり前だよ! 信じるに決まってる!」
私は自分でもびっくりするくらいの大声がでた。芭月の首にしがみつくくらいに抱きついた。めいいっぱい力を込めた。
「私は、芭月に救われたんだよ……! 芭月が私を見つけてくれたの! 他でもない、芭月の言葉一つ一つ。芭月の言葉の全部が私を助けて、救ってくれたの!」
心に浮かんできた言葉を、全部全部、届けたくて自然と声が大きくなった。
「芭月は、嘘つきなんかじゃないよ! 誰よりも言葉を大事にして、届けようとしてる。私は、私が信じるままに、芭月を信頼してるよ」
「琥晴……。琥晴……!」
涙の絡んだ声で、名前を呼ばれた。
「だれ、誰も……! 信じてくれなかった……! ずっと、ずっと苦しくて!」
そのあと言葉は紡がれなくて、嗚咽が廊下に響いた。そんな芭月の背中を、私は黙って撫でた。
芭月がこんなに苦しんでいたなんて。気づけなかった自分に嫌気が差す。いや、気づく機会は今まであったじゃないか。気づかないふりをして、深く考えることをやめたのは誰だ。私が、芭月にしっかりと向き合わなかったんじゃないか。芭月に守られることだけに身を任せて。
私自身も、芭月を苦しめた一人になってたのならどうしよう。どう償えばいい……?
でも、でも、……。本当はすごく、すごく、羨ましかった。
――殴られてるなんて、痛そう。でも、見てもらえるんだ。空気じゃない、確かに存在しているものとして扱ってもらえる。
そう考えてしまったとき、芭月の体に醜く咲いた青黒い花が羨ましく思えた。それさえ手に入れば、みんなが、みんなが、私を見てくれるんじゃないかと。私が、こんなにも醜いだなんて思いもしなかった。
きっとこれは、傷の舐め合いだ。互いが互いの欲しいものを持っていて、持っている自身はいらないと拒絶している。あまりにも皮肉が過ぎる。
口が避けても、言ってはいけない。それが分かっても、どうしても、欲しくてたまらない。
言葉が口から出てきそうになって、奥歯を噛み締めた。喉から血の味がする。
芭月の頭を自分の胸に寄せた。私は、そうやって自分の心を誤魔化した。
きっと、心から泣くことができなかったのかもしれない。苦しいと叫んだところで、助けてくれる人はいなかったらしいから。これからは、私が手を差し伸べよう。助けに行こう。
たった、ひと夏の間でも。




