Ⅲ.
澄んでいるけれど、凍えるような怒気を孕んでいることがわかる声音。一瞬ビクリとして、そっと声の方へ振り返る。そこにはやはり芭月がいて、見たことがないくらい怒っていることがわかった。そしてその怒りの対象がまっすぐ優亮に向けられていることは、さすがの私でも察することができた。流れた涙が顎から落ちる。
「芭月……」
「はづ、き……」
後ろから乾いた声で芭月を呼ぶ声が聞こえた。そちらに向き直そうと思ったけれど、芭月から目を離すことができなかった。
「どうして、答えられないの? 優亮」
芭月は無意識なのか目を見開いて優亮の顔を見つめていた。光の加減か、まるでその目は空洞になっているようにも見えて怖かった。
「お、俺が悪いんだ……」
「そんなことはわかってる。私は、琥晴に何したのかをきいてるの」
淡々と静かな怒りを込めながら喋る芭月に声をかけようとした。けれど、何かが喉に引っかかって息が漏れるだけだった。さっきまであんなに流れていた涙は、いつの間にか止まっていた。
「なんで、あんたはさ、与えられたチャンスをうまく活かせないんだよ……!」
「っ……」
声を荒げた芭月に優亮はますます顔を青ざめさせた。
「どうして、いつも、いつも、いつも与えられたチャンスを活かせない!」
芭月の顔が見たことのないくらい怒りで歪んでいた。
私には、芭月が怒っている理由をわかることはできなかった。最初は私を想ってくれていたのはわかったが、段々と違うような気がしてきた。その違和感は、私の中でどんどんと膨らんだ。そしてあっという間に、目を背けることのできないほどの大きなものになった。
芭月は、どうしてここまで怒っているのだろう……?
「いい加減に成長しろよ。いつまでわがままが許されるガキのつもりでいる気だ」
優亮が何かを言う前に、芭月は苛立ちを隠すこともなく屋上から出ていこうとした。
私はそれをただ黙ってみることしかできなかった。すると、芭月が無言で私の腕を取り、らしくもなく力強く引っ張ってきた。
「っ」
「行こう、琥晴」
先程まではあれだけ激情を込めた声を発していたのに、今は感情のない声だった。魂が抜けたみたいなのに、依然掴まれた腕は痛かった。半ば引きずられるように、連れて行かれる。
「芭月……?」
「芭月……、琥晴ちゃ……」
弱々しい声が聞こえたが、芭月はそれを気にせず屋上の扉を閉めてしまった。
「芭月、芭月ってば。ねぇ……!」
もう屋上からはだいぶ歩いたというのに、どこまで行こうとしているのだろう。腕を掴まれながら、前をずんずんと進んでいく芭月にさっきから声をかけてはいるが、何一つ反応はない。どうしたらいいのだろう。だんだんと掴まれたところが冷えてきている気がする。
「芭月、腕、痛い……」
どうせ聞こえないだろうと思ったが、小さな声で呟くと、慌てた様子で手を離した。
「ご、ごめん!」
「いや、全然……だいじょう、ぶ」
慌てて振り返った様子の芭月は、さっきまでの優亮と同じような顔をしていた。違うのは、大粒の涙を流していることだろうか。
芭月の様子に面食らって、反射的にどうでもいいことを考える。そんなことを思いながらも腕を伸ばして、できるだけ優しく涙を拭う。さっきも涙を流しているところを見たけれど、それとは全く違う痛々しさを感じさせる泣き方で、掛ける言葉が思いつかなかった。怯えたように「ごめん」を繰り返す芭月を見て、私は大丈夫だと言い背中をさすることしかできなかった。
「私……」
「うん」
「私、最低だ……」
ポツリと漏らされた言葉に私の顔が引きつるのがわかる。
「ど、どうして? そんなことないよ」
ボロボロと涙をこぼし続ける芭月が痛々しくて、的外れな言葉をかける。
「違う、最低なんだ。私は」
私の言葉を否定するように、力なく首を振ると力が抜けたようにその場に座り込んだ。驚いて声も出なかった私を気にせず、少しずつ自身を責めるように話し始めた。
「琥晴を守るふりして、自分のために優亮に怒って……、これが最低じゃないならなんなの。変わらない、どうして変われないの……?」
芭月の言葉に引っかかりを覚える。だけど、それを口には出せずにただただ黙って背中をさすった。
「やっぱりだめだ……、やっぱり私は、みんなが言うように私は嘘つきなんだ!」
「芭月!」
思わず、芭月の名前を呼ぶ。続ける言葉なんてのにもなかったのに、苦しい彼女の言葉を聞きたくなくて遮ってしまった。
突然力が抜けたようにふらついて、縋るように芭月が私の胸へ倒れてきた。なんとか支えたが、その体にはほとんど力が入っていないように思える。
「芭月……?」
そっとその場に座らせ、顔色をうかがう。
「琥晴、琥晴……」
「うん、なあに?」
芭月をこれ以上怯えさせないように、言葉を選んで優しく聞こえるように。
「あの、あのね」
「うん」
「信じてくれる……?」
もちろん、当たり前だよ。そんな肯定の言葉をすぐに口にできるはずだったのに、怯えきった、何かを心から恐れている彼女の瞳に呑み込まれるような錯覚を覚えた。
ただ、声に出せなかっただけで無意識に頷いていた。私を見た芭月は表情を緩めることはしなかったが、瞳が僅かに潤んだ。
「大丈夫、信じるよ。私は、芭月を信じてるから」
声に出すことができた。彼女の不安を、恐怖を取り除くには足りない言葉だろうけど。すると芭月は私の目をまっすぐに見つめながら、口をはくと動かした。動いた口から言葉が出てくることはなく、何かを恐れるように躊躇ったように顔を歪めた。
急かすのは逆効果になると悟り、優しく背中を撫でる。何度も繰り返していると、落ち着いたのか小さく切り出した。
「あのね、私……。あのね」
「うん」
「子供の頃から、ね。あの」
「……」
焦らせてしまわないように、小さく頷くだけにする。
何度も口を開いては閉じてを繰り返して、視線を泳がせた。私の服の袖をぎゅっと握ったあと、口の端を吊り上げただけの不格好な笑顔を浮かべた。
「や、やっぱりなんでもない。大丈夫」
苦しくなった。ナイフか何かの刃物で、心臓を刺されたんじゃないかっていうくらい痛くて苦しくて仕方がなかった。
「……んでっ、なんで大丈夫って。なんで大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言うの!」
芭月が顔を歪めたのに気づいたけれど、さっきのように湧き上がる感情を自分でも止める事ができなかった。
「私はっ……。芭月が大丈夫って言えば、言うほどっ……大丈夫じゃないっ!」
「琥晴……」
「私、そんなに信用できない……? 私は、芭月を信じてるよ。それだけじゃだめ? 私、どうしたらいい?」
胸が苦しくて、痛くて吐き出そうにもうまく吐けなくて、代わりに涙が溢れて息ができなくなった。呼吸が詰まって、嗚咽が漏れる。どうしてここまで苦しいのか、痛いのかが自分でもわからない。胸のあたりでなにかがぐるぐる渦巻いて吐き気がする。芭月が戸惑っている気配がするけれど、涙も吐き気も収まらなかった。私自身どうすればいいのか、何をされたいのかがわからなくて、どうにも動くことができずに、ただ嗚咽を漏らした。
遠慮がちに背中に手が添えられて、ようやく息を吸えた。優しく撫でられて、ゆっくり息を吸い込む。まだ涙の波が押し寄せてきそうでなんとかこらえる。
「ねぇ、私信用できない……?」
「……違う。琥晴が信用できないわけじゃないの……」
「……」
「私が、私を信用できてないの。琥晴のことは信用してる……! 信用してるんだよ!」
らしくない大きな声に思わず体が反応する。添えられた手が離れたと思うと、首に腕が回された。
震えてる……?
「芭月……?」
「私は、琥晴のこと、心から信用してるよ。でも、でもね。怖いの。今までみんなに言われたことが、怖いの。琥晴は違うって思っても、そうじゃなかったらって……、思ったら」
痛かった。芭月の言葉が、声が芭月の心の傷を抉っているようで、私まで痛かった。何を言ったら彼女の痛みを減らせるのか、何を言ったら――。
「私は、何を言われても芭月と一緒にいるよ。何を言われても受け入れるよ。芭月のこと、大好きだから」
ぼやけた視界で、そっと芭月の顔を覗き込むと、ほんの少しだけ安心したように微笑んだ。




