Ⅰ
七月の、夏休みが明日から始まるという日。私はくそったれなこの世界にサヨナラすることにした。
終業式が終わったばかりの学校の屋上で、胸ぐらいの高さしかないフェンスを乗り越える。本来屋上には鍵がかかっているが、いつからかその鍵は壊れている。そしてその事実はあまり知られていないので、誰かが入ってくることはほぼない。
―誰かに邪魔されることはない。
軽く見積もっても十五メートルくらいだろう。
これなら、死ねる。
「さようなら、ありがとう。…こんな世界に、感謝することなんてないけど」
私を見下す入道雲に向かって吐き捨てる。死に際ですら一人ぼっちで、バカバカしくて、もう嘲笑いが漏れるしかない。矛盾した感情がぐるぐると胸に渦巻いて少し、吐き気がした。
口を動かすと、噛んで切れた唇から滲んだ血が、存在を主張してくる。
身を前に傾けて、存在しない足場に向けて一歩、踏み出そうとした。
「琥晴」
名前を呼ばれた。それは不思議と耳に飛び込んできた。決して、語気を荒げたような強い声ではなかったのに、だ。
驚いて背中をフェンスにぶつけ、とっさにそれを両手で握りしめて、ギリギリ飛び降りることができなかった。
後ろを慌てて振り向くと、驚きと嬉しさと、そう感じたことに対する虚しさで、なんでか鼻の奥がツンとした。
「芭月。どうして」
―なんで、よりによって、ここのことを教えてくれた人が来ちゃうの…。
もう死ぬことを決めていたのにもかかわらず、彼女の顔を見ただけで静かに涙が頬を伝う感覚があった。それだけで、空っぽに近かった心に何かが少し溜まる。
それでも唇がまた痛んだ。よくわからない感情にまた吐き気がする。
「今日はいい天気だね。昨日は雨だったのにさ」
なんてことないように話しかけられる。それが不思議で思わず体もそちらに向ける。落ちないように、慎重に。
「なんで」
涙がさらに頬を伝う。涙声で、ほとんど聞き取れなかったかもしれない。けれど、気にした様子を見せず、芭月は続けた。
「私も一緒にいいかな。きっと今日は死ぬには良い日だ。琥晴もそう思うでしょ?」
「っ、」
私が何をしようとしていたのかを分かったうえで、話しかけていることに驚いた。それと、私も一緒にいいかな。という言葉にも驚く。けれど、きっとその場しのぎの言葉だ。いくら芭月の言葉でも耳を傾けられない。傾けるつもりもない。
頬を雑に拭って、芭月を睨む。わざと嫌味になるように、唇を弧に歪めた。
「そうだね、死ぬには良い日なのかもしれない。…私と一緒に死んでくれるの?」
私の返答に驚いたのか、芭月は少し目を丸くした。ほら、やっぱりその場しのぎなんじゃん。ズキズキと唇が痛みを主張する。心にまで伝染するように。
けれど、芭月はすぐに丸くした目を細めて、唇で弧を描いた。
「もちろん。私も死ぬつもりだったから、ちょうどいいでしょ?」
そうだね。と小さく芭月に賛同し、静かに彼女に向けて手を伸ばす。こっちにおいでという意味を込めて。
それに対して芭月は一歩ずつ近づいてくる。けれど目の前まで来たのに、私の手を握ることはなかった。
どうして。
すっかり冷めきった心でそんな風に思う。やはり所詮はその場しのぎの言葉だったのだろうと、伸ばした手をフェンスの上に置く。
「結局、芭月までそうなんだね…。そうやって、私に同情した振りして、突き放してくるんだ…!」
感情が高ぶったのは一瞬だけ。
もう、どうでも良くなって後ろに一歩後退しようとする。そうすれば、そのまま落ちて死ぬだろうから。
「じゃあね…」
じゃあねと言ったのに、私の足は動かなかった。何かがたまらなく怖くなった。だからきっと動けない。情けないほど足が震えて、フェンスに置いた手はいつの間にかそれを握りしめて、離せなかった。
なんで、どうして動けないの? みんな、私を見てくれないのに、生きている意味なんてあるわけもないのに。だからさっさとこんな世界から、消えてしまいたいのに…!!
「どうして…。どうして動かないの………?!」
焦れば焦るほど、足の震えは大きくなった。なのに、うっかり踏み外すこともなければ、手をフェンスから離すこともなかった。
焦燥感にかられて、顔を上げると、静かに私を見つめている芭月と目があった。
「っ、………………」
―怖いんだ。
このまま芭月の前から消えてしまうのが、怖い…。
それこそ本当に一人になってしまう気がする。
いつまでたっても動かない私になにを思ったのか、芭月はさっきまで遠かった一歩を踏み出して、両腕を伸ばして優しく私を抱きしめてきた。
「離してよ」
「やーだ。一回私の話聞いてよ、ね?」
なんで、なんで今さら。一回掴まなかった手を、なんで今さら、掴もうとするのさ。
いたずらっ子のように話しかけてくる芭月にどこか腹が立って、睨みつける。けれど、一人じゃないと思えるから、出てくるのは口先だけの言葉だった。
「嫌だ。やめて、離してよ」
「夏休み最終日に。私と一緒にここから飛び降りよう」
「は?」
思わず低い声が出た。なにを、今さら…。
「悪いけどそんな提案、」
「一人で死ぬよりいいでしょ?」
っ…。
思わず息を呑んでしまう。
知ってるんだ。私は本当は死にたくないって。一人が嫌だって。
そう分かると、無性に腹がたった。
けれど、一人で死にたくないって、自分が思ってることぐらい私も最初から分かってる。どうせ死ぬなら、孤独を感じずに済むのなら、ちょっとくらい耐えてみたっていいだろう。
そんな風に甘く考えて、抵抗して身じろぐのをやめた。だって、私だって好きで一人になったわけじゃない。最後くらい、誰かと一緒にいたい。
それが一瞬じゃなくて、ずっと一緒にいてくれるならいいかもしれない、なんて思ってしまう。
いつの間にか、唇は痛みを主張することがなくなっていた。
「いいよ、って言ったら夏休みの間、ずっと一緒にいてくれるの?」
幼子の要求のようにつぶやくと、芭月は嬉しそうに笑った。
「もちろん…!ずっと、ずっと一緒にいるよ」
だったら…。もう少しだけこの何も無い世界で生きてみてもいいのかもしれない。本当に孤独なんて、感じずに済むのかもしれない。
明るく笑いかけてくれる芭月に、そんなことを考える。
「じゃあ…もうちょっとだけ、生きてみるよ」
私達の間に挟まるフェンスが少しだけ、熱を持った気がした。
「うん、私たちずっと一緒だよ」
一緒に死ぬ約束をしたとは思えないほど、私達は笑い合っていた。
隔週で更新していく予定です。