伝えられない永遠、伝えられる一瞬。
《エリス視点》
私の名前は、エリス。
かつてアコール王国に名を馳せた、有力商家の一人娘として生まれた。
“かつて”と言ったように、私が生まれた頃には既に、私の家は没落寸前の弱小商家だった。
この国では常識的な話だが、名家であればあるほど、この国の最高位とされる魔法使いから縁談が持ち込まれる。
商家にとっても、自身の家を存続させるチャンスになるわけだ。
だけど当然、没落寸前の商家に魔法使いからご指名が下るはずもない。
家の存続が絶望的なのは、火を見るよりも明らかだった。
その状況をなんとかしようと、私の両親は躍起になった。
ありとあらゆる手段を使って、魔法使いから縁談が持ち込まれるよう根回しをして、私が丁度十三歳になった頃、ついに縁談が持ち込まれた。
少なからず結婚に憧れを抱いていた私は、飛び上がるほどに喜んだのを覚えている。
しかし、その縁談のお相手は四十代の中年男性だった。
自分より三十も年上の相手が、結婚相手だと知らされて、年頃の女の子がショックを受けないはずもない。
「こんなの、私望んでないよっ! なんで結婚相手がオジサンなわけっ!?」
両親に反発したことのなかった私も、このときだけは強く反発した。
これが、人生最初で最後の親への反抗になるとは、このときはまだ思ってもいなかったけれど。
とにかく、俗に言う政略結婚というやつだ。
自身の家を存続させるために、親が配偶者を選ぶ。そして私は、両親の家を存続させるための駒に過ぎない。私が口を挟む余地などなかった。
けれど、私だって好きな人と共に歩むことに憧れる、一人の女の子だ。
そう簡単に引き下がれるわけがなかった。
思い人と契りを結んで、自分の人生を歩みたい私。
どんな手を使ってでも、商家を存続させたい両親。
その対立は白熱し、三日三晩口論が続いた。
結果、親の圧力に敗北し、私はいいように丸め込まれた。
それでも、思い人と暮らしたいという願望を捨てきれず、私は暴挙に出た。
親の目を盗んで、縁談の破棄を、直接魔法使いの家に訴えたのだ。
縁談は両家の主君同士で結ばれるもの。
私の付けいる隙はないと思っていたから、ダメ元で行ったのだが、相手は驚くほどあっさり引き下がってくれた。
これはこっそり窺った話だが、どうやらこの縁談は両親が半ば無理矢理押しつけたものらしく、相手方も乗り気ではなかったようだ。
よくよく考えれば、没落寸前の商家など普通選ぶわけがないから、当然である。
けれど――この結果、私にとっての地獄が始まった。
「あんた、なんてことしてくれたの!」
「崩壊寸前の家を立て直す最後の手段を棒に振りやがって! 一族の恥さらしが!!」
パンツ!
激情のままに振るわれた手が、私の頬を叩く。
その衝撃で冷たい床に倒れ込んだ私は、涙で霞む両親の顔を見上げた。
だが、その顔はとっくに両親のものではなかった。
見知らぬ他人。あるいは敵。私を見下ろす彼等の瞳に、昔の優しげな色はない。
「この家はもう終わりよ。あんたのくだらない結婚願望のせいで!」
「なあ、おい。どうしてくれんだよ。あぁ!?」
どんっ!
父親の足が、私の腹部にめり込んだ。
「っ! げほぉっ!」
激痛に耐えられず、胃の中のものを全てひっくり返す。
ドロドロに濁った吐瀉物にまみれた私は、お腹を押さえて蹲った。
その後も、容赦ない拷問は数時間続いた。
我を忘れたように怒り狂う両親を、掠れた視界でただただ見つめることしか出来なかった。
「あんたは家の最後の希望を、くだらない感傷で打ち砕いた。あんたには、それ相応の責任をとってもらうよ」
「せき……にん?」
「これ以上お前を、家に置いてはおかん。とっとと出て行け。それから一生、好意を抱いた人間に思いを伝えられない身体にしてやる」
何やら不穏なことを呟いて、父親は手を伸ばしてくる。
分厚い掌に、紫色の光が集まって――私の視界を埋め尽くした。
同時に、意識が急速に薄れてゆく。
ああ、そういえば。父親は、昔魔法を習ってたんだっけ。
薄れ行く意識の中、私は物思う。
確か、習得していた魔法は――呪いの魔法だった……はず。
――。
ノイズのような音が聞こえてきて、目を覚ます。
「雨が……降ってる」
真っ黒な空からは、大粒の雨が絶え間なく落ちてきて、地面を幾度となく穿つ。
私は、知らない場所に横たわっていた。
起き上がってあたりを見まわす。
通行人の見当たらない、細い路地だった。
全身は雨でずぶ濡れ。いやが上にも、私は自分が置かれた現状を理解する。
「私、捨てられたんだ」
呟きが、途方もなく暗い夜の空へ吸い込まれていく。
雨は一層勢いを増し、視界を覆い尽くす。
不思議と涙は出てこなかった。
身も凍るような寒さと虚無感で、何も考えられなかったから。
そのとき、遠くからガラガラと車輪の回る音が聞こえてきた。
降りしきる雨をかいくぐり、荷車を引く男の子が通りかかる。
たぶん、私より三、四歳上の男の子だ。
彼は、路端で蹲っている傷だらけの私を見ると、足を止めた。
雨の夜で視界は悪いけれど、暗闇に慣れた目は彼の姿をはっきりと捉えた。
うなじ辺りで括った黒いしっぽ髪に、黒瞳の、爽やか系イケメンだ。
その整った容姿とは裏腹に、着ている作業着のような服はボロボロ。オシャレすれば化けるだろうけど、本人にその気があってもオシャレはできないのだろう。
私とほとんど変わらない若さで、雨の夜に荷車を引いているという状況だけでわかる。少なくとも、裕福な暮らしはしていない。
そんな彼が、まるで見ることを強制されているかのように私の方を凝視している。
やがて、彼は荷車を置くと、私の方にゆっくりと歩いてきた。
なんだろう。私に何か用があるのかな?
ぼんやりとした頭でそんなことを考えていた私に、彼は手を差し伸べてきた。
「……え?」
予想だにしなかった事態で、私は戸惑う。
一瞥しただけでわかる。彼の生活は苦しい。私なんかを拾って養うだけの経済力はないはずだ。
捨て猫とはワケが違う。
「……あの」
差し伸べてくれた手を掴みたくて、でも掴めなくて。
中途半端に伸ばしたまま止めていた手を、彼の方から掴んだ。がっりとした厚い手が、私の小さな手を包み込む。
「風邪……ひくだろ」
彼は、真摯な目を私に向けてくる。
これが、私とお兄ちゃん――ソランさんの一回目の出会いだった。
△▼△▼△▼
ソランさんは、私の出自も捨てられていた理由も何一つ詮索せず、快く義妹として迎え入れてくれた。
そんな彼の優しさに胸を打たれた私は、彼を「お兄ちゃん」と呼び、彼の行く場所先々でいつもくっついて回っていた。
あるときは、「これ、お前に似合うんじゃないか?」と言って小さなアクセサリを狩ってくれたり、またあるときは、私にだけ真新しい寝間着を買ってくれたりもした。自分のは、古着なのに。
頼んだわけじゃないし、ねだったわけでもない。
そもそも、彼が一人で掘っ立て小屋のような小さな家に住んでいる時点で、貧しいことは察しが付いていた。
なのに、稼いだ僅かなお金は、ほとんど私に費やしてくれた。
自分だって、欲しいものの一つくらいあるはずなのに。
だから私は、お兄ちゃんに対して申し訳ない気持ちになると同時に、いつしか惚れ込んでいた。
そんなある日、私は思いきってお兄ちゃんに告白をした。
そのときのことは、今も鮮明に覚えている。
△▼△▼△▼
「ねぇ、お兄ちゃん」
畑での一仕事を終え、リビングで休んでいた私は、テーブルを挟んで向かいに座っているお兄ちゃんに声をかけた。
「ん? どうした」
コップに入っている水をがぶ飲みしていたお兄ちゃんは、コップを置いて私の方を見る。
とたん、頬が熱を帯びたようにホカホカしてくる。恥ずかしくて、彼の顔を直視できない。
「あのさ……どうしても伝えたいことがあって」
「伝えたいこと?」
ちらちらと横目でお兄ちゃんを盗み見ながら、話を切り出す。
「私……ずっと前から、お兄ちゃんのこと好きなの!」
「っ!」
突然の告白に、お兄ちゃんは目を見開く。
とうとう言っちゃった!
もう後戻りはできない。元々するつもりもないけど!
真っ赤になっているだろう頬を叩いて鼓舞し、私は言葉を続ける。
「だから! もしよかったら、私のこと……妹としてじゃなく、一人の女の子として見てくれたら嬉しいなって……思って」
なんだか自信がなくなって、最後の方は独り言みたいになってしまった。
おそるおそる、彼の顔を窺う。
彼は少しの間驚いたような顔をしていたけれど、すぐに優しい笑みを浮かべて言った。
「……俺も好きだよ。お前のこと」
「っ!!」
嬉しさのあまり、声も出なかった。
私は、感情のままお兄ちゃんに抱きつこうと、テーブルを迂回して彼の元へ走る。
だがそのとき、信じられないことが起きた。
「うっ……!」
突然、お兄ちゃんが胸元を押さえて呻き声を上げた。
「ど、どうしたの!?」
「わ、わからない。急に、胸が……苦しく」
見れば、お兄ちゃんの額には大量の脂汗が浮いている。顔も、まるで冗談のように蒼白だ。
わけがわからず、その場に立ち尽くす私。
示し合わせたかのように彼を襲う死に神の鎌。
苦悶の声を上げ、お兄ちゃんは床に倒れ込む。
「お、お兄ちゃん!」
たまらず彼の元へ駆けつける。
どうして? なんで急に、お兄ちゃんが苦しみ出したの?
わけがわからない!
そのとき。
取り乱しかけた私の脳内に、聞いたことのある声が響いた。
『呪縛魔法、恋愛禁忌。思いを寄せる者に気持ちを伝えられない呪いを、お前にかけてある。一度愛を囁けば、お前の思い人に死が訪れる呪いだ』
「……え。その声は、お父さん……?」
震える声で問いかける。
間違い無く、父親の声だ。
いや、今はそんなことどうでもいい。
「呪い? 愛を囁いたらその人が死ぬ? どういうこと? 意味がわかんないよっ!」
『言葉通りの意味だ。《愛を囁いたら思い人は死ぬ・なおかつ、一日のうち一時間でも思い人から離れれば死ぬ・いずれかの条件が満たされた場合、強制的に振り出しに戻る》。その三つの呪言を組み込んだ呪いだ。いくら足掻こうが、逃れる術はない』
「そ、そんな……」
悶え苦しむお兄ちゃんの前で、私はガクリと膝を折る。
好きな人に、好きと言えない呪い。
あまりにも無慈悲な仕打ちに、震えが止まらない。
そんな私へ、父親は淡々と告げる。
『これは報復だ。我が商家が息を吹き返す最後のチャンスを棒に振ったお前へのな。せいぜい絶望し、泣きわめくがいい』
そう一方的に言い捨てて、それっきり父親の声は聞こえなくなった。
「え、エリス……」
お兄ちゃんに呼ばれて、我に返る。
力なく横たわる彼の瞳からは、既に光が失われかけていた。
「い、嫌だよお兄ちゃん! 死なないで!」
お兄ちゃんの手を握り、無我夢中で語りかける。
お願い神様。どうか、お兄ちゃんを救って……!
そんな必死の懇願も空しく、お兄ちゃんの身体は徐々に冷たくなっていく。
「ごめん、エリス。それから……俺のこと、好きと言ってくれて……ありがとうな」
お兄ちゃんは微かに微笑みを浮かべ、もう片方の手を伸ばして、私の頬に触れた。
大粒の涙が頬を滑り落ち、彼の指先を伝う。
そして――糸が切れたように、お兄ちゃんの手は私の頬から離れて床に倒れ込んだ。
「お、お兄ちゃんっ!!」
悲痛な叫びが、室内に残響する。
流れる涙は留まるところを知らず、とめどなく溢れては私の視界を歪めた。
その日――ソランさんは死んだ。
私にかけられた呪いによって、誰よりも深く愛していた人が、天国に旅立った。
私はとにかく泣いた。
泣いて泣いて、涙が枯れるまで泣き続けた。
だから、気付かなかったんだ。この呪いの、本当の恐ろしさに。
そして、リビングの端に置かれているふりこ時計の針が、猛スピードで巻き戻っていることに。
△▼△▼△▼
――。
ノイズのような音が聞こえてきて、目を覚ます。
「雨が……降ってる」
真っ黒な空からは、大粒の雨が絶え間なく落ちてきて、地面を幾度となく穿つ。
私は、知らない場所に横たわっていて――
「……ううん、知ってる」
私は、ぼそりと呟いた。その呟きも、降りしきる雨の音に掻き消されてしまう。
悪い夢を見ているような気分だった。
私はこの場所を知っている。
忘れもしない。私が心から愛した人と、初めて出会ったあの路端だ。
私、どうしてここにいるの?
確か、お兄ちゃんが死んで、泣きわめいて……それからどうしたっけ?
わからない。
悲しさがずっと心を満たしていたから、お兄ちゃんの身体が冷たくなってから、記憶が曖昧だ。
知らず知らずのうちに、初めてであった場所まで来ていたのだろうか?
真っ暗な空から絶え間なく落ちてくる雨を浴びながら、身体を丸める。
この寒さと寂しさは……まるであの日の夜のようだ。
そのとき、にわかに遠くからガラガラと車輪の回る音が聞こえてきた。
「え……この音って……」
記憶の片隅を刺激する、懐かしい音。
暗い道の向こうに目を向ける。
やがて、一人の男の子が荷車を引いて、私の前を通りかかった。
私に気付いた男の子は、荷車を止め、私の方を流し見る。
「……え?」
私は思わず、呆けたような声を上げた。
私の目は、その男の子に釘付けだった。
うなじ辺りで括った黒髪に、黒い瞳を持つ少年。
見間違うはずもない。彼は……ソランさんだ。
「ど、どうして……?」
「……?」
「どうしてお兄ちゃんが……ソランさんが生きてるの?」
信じられない。だってお兄ちゃんは、あのとき確かに息を引き取ったはずなのに。
「お兄ちゃん? ……よくわからんけど、なんで君が俺の名前を知ってるんだ?」
目の前で生きているソランさんは、訝しむように眉をひそめる。
「え? だって、私はソランさんの義妹なんだよ?」
「……そうなのか? 君と出会うのは、これが初めてだけど」
「!?」
これが初めて? どういうこと?
もしかして、別人? ただのドッペルゲンガーかな……
一瞬そう考えたが、すぐにそうでないことを察した。
だって、今彼は言ったのだ。「なんで、君が俺の名前を知ってるんだ?」って。
だから、彼は正真正銘のお兄ちゃんだ。
それが疑いようのない事実と決定付けるかのごとく、彼は手を差し出してきた。
「お前のことは知らないけど……家に来るか? ここにいたら、風邪ひくだろうし」
ああ、やっぱりソランさんだ。
それを受け入れたとき、不意に頭の中に父親の言葉が蘇った。
――《愛を囁いたら思い人は死ぬ・なおかつ、一日のうち一時間でも思い人から離れれば死ぬ・いずれかの条件が満たされた場合、強制的に振り出しに戻る》。その三つの呪言を組み込んだ呪いだ。――
ああ、そうか。
そういうことなのか。
私は、歯を食いしばった。
お兄ちゃんが死んだ悲しみで、呪いの話など聞き流していたから気付かなかった。
つまりこの報復は、お兄ちゃんが死んだ時点で強制的に振り出しに戻る――つまり、彼と初めてであった日の夜に、タイムリープさせられるのだ。
しかも、お兄ちゃんが死ぬ条件は、私が愛を示したときか、彼の側から長時間離れたとき。一度も愛を伝えられず、なおかつその相手の前から姿を消すことも出来ない、究極の拷問。
人の愛情と人生を弄んだ父親に、とめどない怒りが湧いてくる。
「大丈夫か……?」
ソランさん声で我に返る。
見上げると、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「う、うん……大丈夫」
ううん。大丈夫なんかじゃないよ。
つい出そうになった本音を、胸の奥に隠す。
この様子じゃ、ソランさんは記憶を引き継いでいない。
私だけが、絶望を引き継いでいる。
けど、ソランさんはそんなこと知るよしもない。ある意味、私の身勝手で呪いに巻き込んだ被害者だから。
何も言えず、何も伝えられず、私はただソランさんの手をとることしか選択肢がない。
「……ごめんなさい」
差し伸べられた手を、力なく掴む。
「いいっていいって、気にするな。こんな雨の夜、一人で震えてる女の子を放ってはおけないから」
ソランさんは眩しいほどの笑顔を、私に向けてくる。
ああ、違うんだよお兄ちゃん。
私が謝ったのは、もっと根が深い問題に、優しいあなたを巻き込んじゃったからなの。
目尻から流れ落ちる涙は、雨と混ざって地面に落ちた。
幸か不幸か、泣いていることは彼に気付かれない。
これが、私とお兄ちゃんの二度目の出会い。そして……幾度となく繰り返す、全ての始まりだ。
△▼△▼△▼
――どれくらい、私はこの絶望を繰り返しただろう。
あるときは、彼から一時間以上離れたことで、気付いたら息を引き取っていた。
またあるときは、私の心が耐えきれず、思いが口を突いて出てしまったことで、死なせてしまった。
そのたびに、私は雨の降りしきる夜の路端で目を覚ます。
そして、通りかかったソランさんと出会うのだ。
雨の夜を十回経験した辺りから、私は繰り返す回数を数えるのをやめた。
いつしか、愛を口にするのが怖くなり、彼に自分から話しかけることはなくなっていた。
心が躍ってしまうのが辛くなり、まともに会話をすることができなくなってしまった。
ソランさんを「兄」と慕うことに耐えられなくなり、「お兄ちゃん」と呼べなくなった。
そうして、繰り返す日々に摩耗し、色のない毎日を送る。
気付けば、最後に雨の夜を経験したときから、一年以上が経過していた。
何十回と繰り返した日々の中で、一番長く続いたと思う。
けれど……私の心は、とっくに壊れて限界を迎えていた。
△▼△▼△▼
「おはようエリス。今日は早いな」
朝起きてリビングに赴いた私を、食事中のソランさんが迎える。
「……」
いつも通り、私は何も答えない。
「美味しいか?」
「……うん」
私は、コーンスープを啜りながら頷く。
「他に食べたいのないか? 何かあるなら言って――」
「別にいらない」
「……あ、そう」
素っ気ない私の反応に対し、ソランさんは「ウゥ~~」と頭を悩ませている。
ごめんなさい、ソランさん。
もう何度そう思ったかわからないけれど、心の中で謝る。
カチャカチャと、食器が擦れる音だけが、しばらくの間リビングに響き渡った。
「ごちそうさま」
「……お、おう」
朝食を食べ終えた私は、ぼんやりと外を眺める。
いつもの光景。幾度となく見た景色。
今日もいつも通り、進展の許されない思い人との一日が始まる。
思い人と過ごせる時間が、一日一時間以内だって構わない。
だからせめて……彼に思いっきり「好き」と伝えたい。大好きで大好きで仕方ない彼を、力一杯抱きしめたい。
でも、それを叶えてくれるほど、世界は優しくないんだろう。
ふと視線を戻すと、ソランさんは私の方を見ていた。
「なに見てるの?」
そう問うと、ソランさんは急に慌てふためいて、「べ、別に。なんでもない」と答える。
それから、顔が赤くなっているのを誤魔化すかのように早口で言った。
「そ、そろそろ仕事の時間だね。行こうか」
「うん」
私は頷いて、イスから立ち上がる。
これから、畑仕事に向かうのだ。
△▼△▼△▼
その日の夜、私は畑のすぐ脇にある崖に来ていた。
「行きたい」と思ったとか、そういうわけではなかったと思う。
どうしてかわからないけれど、気付いたらそこにいたのだ。
下を覗くと、遙か下に小川が流れていて、強い風がビュウビュウと逆巻いている。
どうしてここに来たのかは、考えずともわかっていた。
風で暴れる髪を為すがままにし、崖の先端に立つ。
不思議と、恐怖はなかった。強いて言えば、残されたソランさんがどういう顔をするのか、少し胸に引っかかったくらい。
でも、それもすぐに吹っ切れた。
きっとソランさんは、私がいない方が幸せだろう。
だって、元はと言えば私にかけられた呪いが、何度も彼を殺してきたのだから。
私は薄く微笑んで、一歩足を踏み出した。
その一瞬、身体が鳥のように軽くなり、空に浮かぶ月が真下に映る。
ああ、今日は月が綺麗だ。
そう思ったのを最後に、私の意識はプツリと途切れた。
――。
サラサラと水の流れる音がして、目を覚ます。
真上に浮かんでいたはずの月は、西の空に傾いていて、東の空は白みかけていた。
「……あれ?」
起き上がり、周りを見る。
切り立った崖がすぐ側にあり、私は小川の中央に居座っていた。
「どうして私……生きてるの?」
自分の身体を舐めるように見まわす。
冷静に考えて、あの高さから落ちたのだ。助かるはずがない。まして、命を取り留めたとしても大怪我を負っているはずだ。
なのに、私の身体にはかすり傷一つ無い。
「どういうこと?」
そう呟いた私の頭に、聞き馴染みのない機械音のような声が流れ込んできた。
『呪い発動条件に、対象者の死亡は含まれていません。よって、独断で呪い付与対象者の生命維持を優先します。魔力回路の一番と三番を破棄。魔力回路の強制断裂により、呪いの効果に齟齬が生じました。再度呪いを適用するため、効果の逆転を提案……承認されました』
え? は? なに?
突然、わけのわからないことが起きて、私は戸惑う。
こんなこと、今まで一度も無かった。
ひょっとして、私が死のうとしたから、呪いがバグってしまったんじゃ……
戸惑う私をよそに、機械音は頭の中で再生され続ける。
『呪い条件の逆転を適用しました。現在時刻、午前五時四十三分三十八秒より、プログラムを再起動。呪いの発動条件は《愛を囁いても思い人は死なない・一日のうち二十三時間以上思い人から離れていなければならない・以上の条件を満たした場合、対象者は死亡する》に変更されました』
それっきり、妙な機械音は聞こえてこなかった。
「……え?」
私は、思わず呆けてしまった。
奇跡ではないだろうか? 十中八九、今のは呪いの話だ。
聞いていた限り、私が死亡するというイレギュラーが発生したことで、呪い側が私を活かすことを最優先した。その結果、呪いの効果が狂ってしまい、呪いの効果を自動変更することでバグを直したのだろう。
そして、その変更した効果内容は……一日一時間以内に限られるけど、愛を伝えられるということ。つまり。
「告白してもいいんだ!」
私は嬉々として叫んだ。
この一生の内で、好きな人に想いを伝えることができないと諦めていた。
確かに、一日一時間しかソランさんと過ごせないという制約はあるけれど、想いを伝えられるなら安いものだ。
大切な人に想いを伝えられない毎日が、どれほど辛かったことか。
私は胸一杯に朝の空気を吸い、勢いよく水面を蹴って駆けだした。
△▼△▼△▼
「おはよう、お兄ちゃん!」
勢いよく扉を開け、ソランさん――いや、お兄ちゃんのいるリビングへ飛び込んだ。
「ブフォッ!」
私の方を見たとたん、お兄ちゃんは口に含んでいたトマトスープを吹き出した。
どうやら、朝ご飯を食べている最中だったみたい。
「えぇっ!?」と勝手に驚いて、イスから勢いよく立ち上がるお兄ちゃん。
その反動で、イスはガタリと音を立てて倒れる。
驚くのも無理はないよね、と心の中で苦笑する。
だって、このターンのお兄ちゃんには、今まで一度も「お兄ちゃん」と呼んでいないんだから。
愛しい人の久しく見ない表情を見て、私の目から自然と涙が溢れてくる。
ああ、だめだ。この気持ちを曝け出すには、涙だけじゃ到底足りない。
「はぁっ!? ちょっ……お前、なんで泣いて――」
狼狽えるお兄ちゃんに向かって、泣きわめきながら突進する。
愛情も、苦悩も、絶望も。今までの気持ちを全て吐き出すように、私はお兄ちゃんの胸に飛び込んだ。
腰の後ろに手を回し、身体をぎゅむっと押しつけ、力一杯抱きしめる。
ずっと感じたかった暖かな体温が、ダイレクトに伝わってくる。彼の心臓の鼓動が、しっかりと伝わってくる。
生きてるんだ……!
当たり前のことに涙しながら、私は「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」と何度も叫ぶ。
「お、落ち着け! 一体どうしたんだよ!」
私の急なキャラ変に戸惑っているんだろう。
複雑に変化する彼の表情が、ありありと物語っている。
「あっ。えっと……君、誰?」
遂に別人に思えてしまったのか、とち狂った質問をぶつけてきた。
私はクスッと笑って、答える。
「もう、何言ってるの? あなたのエリスだよ」
「いや、お前のものになった覚えはないけど……マジ? “ドッキリ大成功!”の看板はどこに隠されてんだ?」
「そんなのないって。私が嘘をついてるように見える?」
「いや……見えない。全然」
「でしょ?」
まだ戸惑っているお兄ちゃんが、可笑しくて、愛しくて、私は笑った。
不意に、ある思いがぶくりと音を立てて、泡のように浮かんでくる。
それは、抑圧されてきた生活の中で、好きという次元をとうに越えていた想い。
心の奥底で願いつつも、浮上させることを許されなかった気持ちが、今はっきりと頭の中に浮かんでくる。
だから私は、今度こそ迷いなく彼へ伝えるのだ。
「あのさ、お兄ちゃん」
「どうした?」
「私と、結婚して」
「……は?」
お兄ちゃんは、ぽかんと口を開けてしまう。
それから、泡を食ったようにあたふたと慌て始めた。
「ちょ、ちょちょ……ちょっと一旦落ち着こう? いきなりどうした? 結婚? 何か悪いもんでも食べたか? それとも体調が悪いのか?」
一気にまくし立てた後、お兄ちゃんは私の額に手を置く。
ああ、これ完全に頭の病気だと思われてるよ。
「もう、ふざけないでよお兄ちゃん!」
ちょっとだけイラッとして、声が大きくなってしまう。
至極当然の反応なんだろうけど、私は至って正常だ。ただ、今まで溜め込んでた想いが全部一気に爆発したってだけで。
「ご、ごめん」
「言っとくけど、お兄ちゃんを困らせようとして言ってるわけじゃないんだよ。私は、お兄ちゃんと本気で結婚したいんだから」
本気の本気だ。
もう、この気持ちは、好きとかいう低レベルの感情では説明しきれない。
「いや……結婚つったって、俺達はその……兄弟だし。いろいろとマズいんじゃ……」
「義兄弟だから大丈夫だよ。合法だって」
「確かに血は繋がってないから、法的には全然アリだが……いきなりすぎて、ちょっと目眩がしてるんだ。今までがアレだったし、素直に首を縦に振れない。俺と結婚したいって思ってくれてることを疑う気はないけど……ちょっと気持ちの整理をさせてくれないか?」
なるほど、そう来たか。
本当は今すぐにでも首を縦に振って欲しいけど、結婚というのはお付き合いとは重みが違う。相手の人生を一生分左右する、大きな選択だ。
ただでさえ、呪いで迷惑をかけ続けてきたのに、これ以上我が儘を通すわけにはいかない。
ただ。どうしても一つだけ、聞いておきたいことがあった。
「じゃあ、一つだけ確認させて。お兄ちゃんは、私のこと好き?」
これだけは絶対、知っておきたかったから。
「そりゃ当然好きだよ。いも――」
「妹としてっていうのは無しでお願いね」
「うぐっ」
付け足した途端に、お兄ちゃんは渋い顔をする。
ゴクリと唾を飲み込んで、彼の口から答えが紡がれるのを待った。やがて、お兄ちゃんは気恥ずかしそうにそっぽを向きながら、しどろもどろに答えた。
「改まって言うのは恥ずかしいけど……好き、かな」
そっか。
私はお兄ちゃんに勘づかれないよう、そっと安堵の息を吐く。
それから、満面の笑みで答えた。今まで伝えられなかった分、私の気持ちが届くように精一杯。
「うん。私もだよ」
「っ!」
お兄ちゃんは、さっと視線を逸らす。頬が、ゆでダコのように赤くなっていた。
あ、タコと言えば。
「そういえば、朝ご飯まだ食べてなかったね」
私は、お腹を押さえてそう切り出す。
「え? ……ああ。俺は食べてる途中だったけど」
「何食べたい?」
「……話聞いてた?」
ジト目でツッコミを入れてくるお兄ちゃん。
いつぶりだろうか? こうしてお兄ちゃんと馬鹿げた会話をするのは。
馬鹿げた話ついでに、おふざけも入れておこう。
私はぐっと顔を近づけ、唇が触れそうな距離で囁いた。
「パンにする? スープにする? それとも……わ た し?」
誘惑するように、人差し指をお兄ちゃんの顎に這わせるのも忘れない。
「前者二つでお願いします!!」
お兄ちゃんは、早口で叫んだ。
あーあ、顔真っ赤にしちゃって。可愛いなぁ。
私は、自分の心に深く刻まれた傷が徐々に塞がっていくのを感じた。
△▼△▼△▼
一日はあっという間に過ぎて、夜になる。
私に許された時間は、一日あたり一時間。それだけしか、お兄ちゃんとイチャイチャすることは許されない。
気の遠くなるほど長い時間を耐え続けてきた私にとって、彼に愛を告げられる一時間はまるで流れ星のように一瞬だ。
でも――はっきりと思う。
「幸せだ」
床を踏む度にミシミシと音を立てる廊下を歩きながら、私は誰へともなく呟いた。
廊下の突き当たりまで歩いてきた私は、向かって左手にある扉を開けた。
今までずっとお兄ちゃんと一緒に寝ていた、二人の寝室だ。
一日一時間ということは、今日から一緒に寝ることはできない。
お兄ちゃんはさっき「疲れたからもう寝る」と言って、先に寝室へ行ってしまった。
私も寝る前に、お兄ちゃんの顔を見ておこうかな。
そう思い、寝室の扉に手を掛ける。
でも、もう寝ちゃってるかな? 僅か一時間弱とはいえ、それはもうメチャクチャに愛情表現フルアタックしちゃったし。
起こさないように、静かに開けよう。
私は、音を立てないようにゆっくり扉を押した。
「セーフだ……」
……起きてるし。ていうか、なんか独り言言ってるし。
「何がセーフなの?」
声をかけた瞬間、ベッドの上で俯せに寝転がっていたお兄ちゃんは、肩をびくりと振るわせた。
「ビックリした。いたのか」
「うん、今来たとこ」
私の方を振り向いたお兄ちゃんの顔が、不意に青白くなる。
冷や汗が額から吹き出して、まるで何かを恐れ入るみたいだ。
はは~ん、さては。
「お兄ちゃん今、「まさかエリスと一緒に寝るわけじゃないよな?」って思ったでしょ」
「ふぇっ! そ、そんなことないぞ!」
「んも~、恥ずかしがらなくてもいいのに」
私は声を押し殺して笑う。
図星だったみたいだ。反応が一々わかりやすいよ、お兄ちゃん。
なんだかたまらなく愛しくなって、ただ「おやすみ」を言いに来ただけだということを忘れていた。
私はベッドの側まで歩いて行き、お兄ちゃんのベッドに腰掛ける。
お尻にお兄ちゃんの吐息が架かって、すごくくすぐったかった。
「でも、心配しなくていいよ。私、今日からお兄ちゃんとは別の部屋で寝るから」
「……え?」
お兄ちゃんは、拍子抜けしたように掠れた声を出す。
「どうしたの? そんな度肝を抜かれたような顔になっちゃって」
「そりゃ驚くよ。てっきり、問答無用で俺のベッドに潜り込んでくるかと……」
「あっはは! そんなことしないよ、お兄ちゃん」
夜だというのに、はしたなく笑い飛ばしてしまった。
そりゃまあ、あんな呪いさえなければ、毎日でもお兄ちゃんのベッドに潜り込んで夜の営みを……ゲフンゲフン。
まあ、とにかく。
「今日から私、お兄ちゃん離れすることに決めたんだから」
「いや……昼間あんなにベタベタくっついて来たのはどこの誰だよ。説得力が皆無なんだが」
「え? お兄ちゃん離れするっていうのは、義妹を卒業して、お兄ちゃんの伴侶になるって意味だよ」
「しれっと関係を進展させるな!」
くわっと目を見開くお兄ちゃん。
お兄ちゃんを口説き落とすには、まだまだ時間がかかりそう。
「じゃあ、花嫁修業の一貫として寝る部屋を変えると。そういうことでいいんだな?」
「そういうこと。できる妻は、夫の気遣いもできるのです!」
私は、歳の割にちょっと自信のある胸を張る。
「おい、まだお前の夫になった覚えはないよ」
「わかってる。でも、いずれちゃんと返事ちょうだいね」
「っ!」
お兄ちゃんは、一瞬目を見開く。
それから、やはりまだ気恥ずかしいらしく、そっぽを向いて小声で答えた。
「わかった」
うん。確かに聞いたからね。
私は口元が緩むのを感じた。
だめ、我慢できそうにない。
私はそっと彼の頬に顔を近づける。
「待ってるからね、あなた」
きっと、世の中の夫婦はこういう風に愛する者を呼ぶのだろう。随分時間がかかってしまったし、まだ呪いが解けたわけじゃない。
けど、今の私に許された最大限の愛情表現は――
「……えっ」
お兄ちゃんは、驚いたような声を上げる。
初めてだ。こうして、誰にかにキスをするのは。
お兄ちゃんの頬から顔を遠ざけながら、私は物思う。
顔が熱い。私を見つめるお兄ちゃんの瞳には、真っ赤な顔の私が映ってるんだろう。
「おやすみ、また明日」
慣れないことをした気恥ずかしさを隠したくて、そう告げた。
今のを愛と捉えるか、おやすみのキスと捉えるかは、お兄ちゃんに任せよう。
くるりと踵を返し、私は寝室の外へと向かう。
「ああ……おやすみ」
背中に投げかけられた夜の挨拶を胸にしまって、私は寝室から出た。
――。
「……嵐みたいな一日だったな」
私は、自分の胸元に手を添えて心臓の鼓動を感じた。
一日、たったの一時間。
これから先呪いが解けない限り、私はそれだけしか彼の側にいられない。
でも――それでもいい。
いつか呪いが解けるまで、私は精一杯彼に思いを伝え続ける。
そして――時間が許す限り、私は彼の側から離れない。
思いを伝えられない一年なんかよりも、思いを伝えられる数分の方が、はるかに大切だから。
「はやく、明日が来ないかな」
恋い焦がれる気持ちに胸を躍らし、私は軽い足取りで新たな寝室に向かった。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました!
呪いが完全に解けたわけでは無いと言うことで、少し胸に痛みの残る愛のストーリーです。
でも……大切な気持ちを伝えられる一瞬の輝きを、忘れられない思い出にできるよう奮闘する女の子を書きたかったので、ちょっぴり心苦しいけど呪いは残しました。
もし面白いと思っていただけましたら、感想、評価等入れていっていただけますと嬉しいです。