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1 『恋愛』が必修科目になった世界

 放課後の音楽室から、ピアノの音色が聞こえている。


 甘美なクラシックのメロディはとても美しく、夕陽に染まり始めた校舎にとても似合っており、同時にどこか切ない。まるで、にぎやかに下校する生徒たちの青春が永遠ではなく、一瞬に過ぎないことを教えてくれているかのようである。


 そんな音楽室に今、ひとりの男子生徒が入ってきた。サラサラとした髪が特徴的な、上品な雰囲気の男子で、心なしか少しばかり緊張しているようにも見える。彼の姿を確認すると、ピアノを弾いていた女子生徒は、


「あ、春日くん……」


 そう言って、手を止める。真っ直ぐ伸びた美しい黒髪を、優雅に耳にかける。あどけなさの中に大人っぽさを秘めているような、そんな印象だ。


「千代田さん、まだ帰ってなかったんだ」

「うん……」

「ピアノの音聞こえたから今日もかなって思ったけど」

「ごめんね、いつも」

「謝ることなんかないよ……ピアノ上手だよね」

「そ、そんなことない、けど……」


 そこまで述べると、彼女は一呼吸置いたのち。


「……ありがと」


 恥ずかしそうにうつむきながら、しかし視線だけはしっかりと彼を捉えて、小さく返事した。


 なにげない会話だが、彼女はなぜか少し恥ずかしそうであり、よく見ると頬はほんのり赤く染まっている。ピアノの音色がなくなったことで、音楽室は妙に静かに感じられた。むずがゆい空気が、ふたりを包んでいく。


「あの……なにか用?」

「用っていうか……先生に鍵閉めて帰るように言われて」

「あっ! ごめん、わたしついっ!!」


 彼が放った言葉に、彼女はハッとして慌てて立ち上がった。


「いや気にしないで。さっきまで自習してたから」

「そうなんだ……ふふっ」


 彼女は笑みを絶やさなかった。理由は簡単。なんてことのない言葉でも、今の彼女にとっては嬉しいものだからだ。ぎこちない空気感は、ふたりが互いに相手のことをよく思っていることを表しているかのようである。


「もう出られるかな?」

「うん」

「急かしてごめんね」

「ううん、いいの……あの、いっこ質問していい?」

「なんだい」


 呼びかけられ、彼は振り返る。その表情は少し、こわばっているようにも見える。


「春日くん、電車組だよね。良かったら駅まで一緒に帰っていい?」

「なんだそんなことか……えっと、うん」


 もっと違うことを想像したのか、彼は力の抜けた笑みを浮かべた。この音楽室に入ってきてから、初めての笑みだった。


 その表情に、彼女は嬉しくなって、先程より少し大きな声で呼びかける。


「あ、あとひとつ」


 ふたたび、彼が振り返る。


「今度はなに?」


 そして彼女は、上目遣いになりながら、甘酸っぱい声でこう言った。


「春日くんってさ……好きな人とかいるの……?」

「……」

「……」

「はい、カット。そこまで」


 と、彼が肝心の言葉を返す前に、別の男の声が割り込んだ。


 その瞬間、ふたりは任務が終了したように表情をやわらげ、声の方向を見る。彼らの視線の先にいるのは、一部始終を真面目な表情で見守っていた2年1組(国公立大進学クラス)の生徒たち約40名と、後方で腕組みしていたメガネの男こと、担任の加賀太郎だ。 


 加賀は教卓の横に戻ると、無数にある壁のスイッチのポチポチと押していく。その瞬間、教室を照らしていた夕陽色のライトが普通の蛍光灯の光へと戻り、スピーカーから流れていた放課後の喧騒の音も消える。よく見ると、黒板の右上にある掛け時計は現在、昼の13時を指している。


 そう、今は放課後ではなく、授業中なのであった。


 しかも、音楽の授業ですらない。それを示すかのように、プロジェクターには、



   ===


シチュエーションNo125『放課後の音楽室にて、偶然意中の相手と遭遇。告白せずに、自分の好意を伝える』


   ===



 との文字が並んでいる。


 そう。


 今、行なわれているのは『恋愛』の授業なのだ。


 いつの間にか、春日くんと呼ばれた男子と、千代田さんと呼ばれた女子は、教壇の横に移動している。ふたりの間にはもう、まだ付き合っていない両思いのカップル特有の空気感はなく、ただ柔和な、よそ行きの笑顔を周囲に振りまいている。


「じゃあ今のシチュエーションだけど、意見ある人」

「はい」

「扶桑」


 加賀が生徒たちに向かって声をかけると、メガネ姿の、いかにも真面目そうな雰囲気の女子がすっと手を挙げた。


「千代田さん、さすがだと思いました。最初から最後までずっと自然体で、距離感も遠からず近からずで」

「そうだな」


 加賀がうなずきながら、壇上に立つ女子生徒を見る。つい先程まで柔和で甘い雰囲気を振りまいていた彼女だが、今はそれに少し照れているかのようだ。


「それにずっと笑顔なのがいいなと。好意があるって伝わると思います……もし今のエチュードで、わたしが女の子ポジやってても、あそこまで自然には笑えなかったかなって」

「どうしてそう思う?」

「あー、んっと……」


 尋ねられると、少し言葉に詰まったのち。


「春日くんが面白いこと全然言わないから?」

「ちょっと待ってよ~扶桑さん! 面白くないとか酷いよ~っ!」


 大げさなジェスチャーでツッコミを入れた男子生徒に、クラス中が小さく笑う。もともと悪くなかった教室内の雰囲気がさらに緩み、それを見て加賀も微笑む。


「こらこらみんな笑うことじゃないぞ」

「そうだそうだっ! 先生もっと言ってやってくださいよっ!」

「今のエチュードは女子主体だっただろ? だからまあ春日が面白くなくても仕方ない」

「その通り! 俺が面白くなくても仕方な……って面白くないって言っちゃってるじゃないですかーっ」

「冗談だよ冗談。とりま、今は千代田について話そう」


 そう述べると、生徒たちは笑うのをやめ、姿勢を正した。それを確認し、加賀は教壇に置いてあったタブレットを手に取る。2画面型のタブレットであり、教科書とノートを兼ねているようで、生徒たちも机のうえに同じものを置いている。


 教壇に手をつき、加賀が生徒たちに語りかける。


「通常、我々は告白というプロセスを経て恋人関係に至る。だからこそ、人は告白に対してあれこれ考えがちだ。どんな言葉を言おうとか、どういうシチュエーションで言おうとか。そうやって、少しでも告白の成功率をあげたいと思うんだな。でも、92ページ中段に書いてあるように……はい野間」

「本当の恋愛巧者は、告白をする前に相手の好意を確かめる」

「はい音読あざっす」


 感謝しつつ、加賀はプロジェクターのスライドを切り替えて、



   ===


『本当の恋愛巧者は、告白をする前に相手の好意を確かめる』


   ===



 との文字を表示させる。横には、何やら細かな調査データがグラフで表示されている。


「文部科学省が2035年に、13歳から29歳までの男女2万2000人を対象に『告白の成功率』について調べたことがある。この調査では調査対象者を『他者の好意を感じ取るのが得意』なAグループと『好意を感じ取るのが苦手』なBグループに分けたんだが、結論、AグループはBグループよりも20ポイントも告白成功体験が多かった。そりゃそうだよな。相手が自分を好きかどうかわかれば、失敗するとわかってる告白をしなくて済むからな。あ、ここのグラフ、そっくりそのままテスト出るぞ~」


 加賀の言葉に、生徒たちが一気にタブレットにペンを走らせる。


「だからこそだ。大事なのは告白の前に脈アリか脈ナシかを見分けること。自分と接したときの相手の表情、声色、雰囲気、そういう言外のコミュニケーションによって確かめるのが大事だ」


 加賀の言葉を、生徒たちは至極真面目な表情で書き記していく。


「てなわけで、そうやって告白前に相手の気持ちを確かめるのが重要だってわかったところで、もう一度、千代田の行動を分析したい」


 ふたたび、生徒たちの視線が前方を向く。すると、千代田と呼ばれた女子生徒はニコリと微笑みを強める。


「千代田はいっこ質問があると伝えて、一緒に帰っていいか尋ねた。あれ、どういう意図があった?」

「えっと、意図と言うほど大げさなものはないんですけど、なんとなく空気が緩むかなって」

「予想外の質問をすることで空気を緩めようとした。そういうわけか?」

「あ、はい」

「なるほどな。春日はどうだった?」

「そうですね……予想外でしたし、会話の主導権握られた感はありましたよね。悔しいですけど」

「そかそか、今回は千代田の完勝って感じだな。んじゃ、最後のセリフだけど千代田、もう一回言ってもらえるか?」

「……春日くんってさ……好きな人とかいるの……?」


 スイッチが入ったかのように彼女は甘い声で、ふたたび甘い声を出した。結果、男子だけでなく女子も含めて、クラス中がゴクリとツバを飲み込む。


「はい、ありがとう。今のセリフ、先生は色んな意味で絶妙だと思ったぞ。流れ的にどう考えても『え、この子、俺のこと好きなの?』って思える。けど、そうじゃないかもしれない、勘違いかもしれないって線も残る。結果、彼女のことが気になり始めるし、『告白せずに、自分の好意を伝える』というお題も完全にクリアしてる……さすがの一言だ」

「ありがとうございます」


 大きく手を叩いて拍手する加賀に、彼女は少し照れつつ返す。


「じゃあ次の例題な。シチュエーションNo126『音楽室の掃除で憧れの女子と一緒に。しかし、彼女は彼氏持ち。印象良く好意を伝える』だな。男子だけ入れ替えてやってみようか。大丈夫か、千代田」

「はい、わかりました」


 加賀がクラス中を見回すと、多くの生徒と目があった。積極的に授業に参加する者が多いことが伝わってくるかのよう……だが、ひとりの生徒だけ下を向いていた。最後列にいる男子が、わかりやすく机に顔を向けていたのだ。


「赤城」


 名前を呼ばれ、男子生徒が顔をあげた。青白く、緊張感と悲壮感に満ちている。


「どうした下向いて。体調悪いか? それとも机が好きで仕方ないのか?」

「いえ……どっちでもないです」

「ならエチュードできるな? 男子役で」

「……はい、わかりました」


 小さな声が口からこぼれ、ゆっくりと勢いで席を立つ。教室前方に向かう足取りは極めて遅いが、それでもそう広くない教室なのですぐに到達した。振り返ると、クラス中の視線が集まっていた。


「じゃあ千代田、音楽室に入ってくるとこから始めてくれ……」


 時は2050年。


 日本では、『恋愛』が必修科目となっていた。

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