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私がいきなり応接間にゲリラ訪問した「フラウ家」には20年に一度くらいの頻度で私のような異世界トリッパーが現れるらしい。
彼であったり彼女であったり、時には動物であったり無機物であったりもする。
なぜ異世界からの客人がフラウ家に現れるのかは誰も知らず、意図して呼んでいるわけでもない。
ただ、何故かこの屋敷に突然現れるらしい。フラウ家の人々は先祖代々のしきたりによって、異世界からの客人を家族の一員として迎え、受け入れることになっているらしく、私も私さえ望むのならばフラウの姓を与えられるらしい。
そんなわけで、おきまりの何やつだ!どこから来た!どうやって入った!みたいな一悶着が起こることもなく、私はすんなり居場所を与えられた。
不幸中の幸いである。
今でこそこうして冷静にあの時のことを振り返ることができるけれど、ここに来てからひと月くらいの間の私の状態はひどかった。
突然、よくわからない場所にやってきてしまった恐怖。そして二度と帰れず、ここで暮らして行かねばならないという理不尽さを誰にもぶつけられず、やり場のない怒りに、与えられた部屋に引きこもって泣いてばかりいた。
だって考えてみて欲しい。
新卒で入社した会社で嫌味に耐えて地道にコツコツ頑張ってようやく仕事が面白くなっていた。
友人との週末のランチや家族といく夏の旅行、楽しみにしていた予定がたくさんあった。
新刊を楽しみにしていた小説だって、続きがきになるドラマだって、前売り券を買った映画だって、そのために買った新しいワンピースや靴だってあったのだ。
それを全て捨てて、見知らぬ世界で生きろと言われているのだ。
すんなり受け入れられる人がいるなら代わってほしい。
けれども昔から聞き分けの良い子だった私は、ひと月かけてもとの世界に自分が残してきたものたちを心の中で供養した。
未練はあり過ぎるが、どんなに思っても帰れないのだ。帰れないなら駄々をこねても仕方がない。それならここでどうにかやっていくしかないのだ。
まだこの世界に魔法があったなら、きっと私は諦めなかったと思う。
けれどもこの世界でも魔法は御伽噺の中のものでしかなく、私は可能性に縋ることができなかった。
25年分のあれこれの供養はちょっとやそっとじゃ終わる気がしなかったから、自分で期限を1カ月に決めた。
幸い、生活環境は恵まれすぎているほど立派なものが与えられている。
「心の準備をしたいので、ひと月ほど時間をください。いただいた期間でしっかり切り替えて、フラウ家の者として生きる覚悟をかためます。私はこの世界に関して全くの無知ですが、これまで異世界からの客人を受け入れてきた皆さまならば、そういった者の扱いにも長けていらっしゃるかと思います。どうぞ、ご指導ご鞭撻のほど、お願いいたします。」
社会人生活で鍛えられた45度の最も美しいお辞儀で教えを請い、顔を上げる。
「…もう我慢できませんわ。」
揃いも揃って美しいヘーゼルアイで私のことを見つめていたフラウ家の人びとの中でも、食い入るように私を見つめていた美しい少女がおもむろに立ち上がって近づいて来た。
貴族の少女にとって、自分のテリトリーが得体の知れない人間に侵されることは許しがたいことだろう。
パウダーピンクの愛らしいドレスを身に纏い、ブラウンの巻き毛をハーフアップに纏めた意志の強そうな少女はそのドレスの裾が私のパンプスのつま先を覆うほど近付くと、さくらんぼのような唇から小さな溜息を漏らした。
「……しい…なの…。」
きっと受けることになるであろう、厳しい言葉に備えて瞳に力を込めて歯をくいしばっていたのだが、なんだか様子がおかしい。
少女のウエストのリボンに固定していた視線をおそるおそる上げると、意志の強そうなヘーゼルの瞳が潤んでとろりと蕩けていた。心なしか頬も薔薇色に染まっていて、なんだか呼吸もあらいし、うっすら開いた口元に光るのは美少女にはあるまじきことだが、よだれである。
まごうことなき、よ!だ!れ!
…失礼を承知で言わせていただくと、恍惚とした表情でよだれを垂らしてこちらを見つめるそれは、どう見ても変態の表情であった。
先ほどとは別の意味で身の危険を感じた次の瞬間、目の前の美少女、もとい変態ががばり、と抱きついてきた。あまりの瞬発力と勢いに、避けることも受け止めることも叶わず、私は美少女ごとふかふかの絨毯の上に倒れこんだ。
「なんて!なんて素晴らしい香りなの!!」
すーはー、すーはー、と首筋に顔を押し付けて匂いを嗅ぎ続ける美少女を上に乗せたまま、とりあえず豪奢なシャンデリアの眩しい光を遮ろうと、頭上に手をかざした。
…一体全体、私の身に何が起こっているのか、誰か説明してください。