こんにちは、ソラ! その8
「ただいまー」
家の中は気味が悪いくらいに静まり返っていた。
玄関にヒナの靴があるから、出掛けてはいないと思うけど……それにしても静かだ。
「ただいまー、ヒナいるー?」
声を掛けてリビングを覗いてみるけど、ヒナの姿はない。
やっぱり部屋にいるのかな?
「ヒナー?」
コンコンとドアをノックする。
するとすぐにヒナがドアの隙間から顔を覗かせたけど、
「……ヒナ? どうしたの?」
私を見上げるヒナの瞳に光がない。じいっと向けられた視線に、身体中がピリピリするような、嫌な感覚がする。
部屋が薄暗いせいか、ヒナの表情にも陰があるような──。
わんっ!
ジンくんの声でハッとする。
違う。
暗いからじゃない。この嫌な視線は前にも感じたことがある。
あの黒いモヤ──商店街で私を襲ってきたアヤカシだ。
まさか、私が駄目だったから妹のヒナに目をつけたのか?
……どうしよう。
人に取り憑いたアヤカシを追い払うすべを私は知らない。
立ちすくむ私を見上げていたヒナがにこりと笑う。
「オ姉ちャン、アそボウ?」
ヒナの顔で、ヒナの声で子供のように無邪気に笑う。
黙り込む私の服の袖をぐいぐい引っ張って、部屋の中に連れて行こうとする。
「一緒ニあソボうよ?」
「ヒナ……」
「ネェお姉チャン、アソぼウ、アそボウよ、オネエちゃン、アソボ、一緒ニ、アソぼ、一緒にイよう、おねエちャン、ねェ、おネえちゃ、」
「……ヒナ?」
「イヤ、いヤダよ、一緒ニ、おねえちゃん、」
それまで楽しげだったヒナの声が徐々に悲痛なものへと変わっていった。
大きな瞳は潤み、私の服の袖を引く力が強くなる。
ぶわり、とヒナの身体から黒いモヤが吹き出て私もろとも包んでいく。
うー、と警戒して唸るジンくんの頭を撫でて、ちょっと待っててねと床に下ろした。
……怖くない。だってこの子はヒナだもん。
私はヒナの前にしゃがみこみ、小さく震える肩に手を置いた。
「ねえヒナ、少し話そう?」
「いヤッ!」
「わっ」
強い力で払いのけられて尻餅をついてしまった。
ヒナは目を大きく見開いて後ずさる。
「イヤだイヤだイヤだヤダイヤだヤメてヤダヤダヤダヤだヤダイヤイヤだヤメてよ違ウ違うノごめんなさいごめんなさいごめんなさいおねえちゃんごめんなさい」
「だ、大丈夫だよ、怪我してないから!」
「いやだよ、やめて、私はそんなこと望んでない! 私はただ、私は……っ!」
私は──。言葉に詰まったヒナの瞳からポロポロと涙が落ちる。
「違うの、私は……こんなつもりじゃ……」
ヒナが頭を横に振ると、涙と一緒にまとわりついていた黒いモヤも零れ落ちていく。
「寂しかった……ひとりぼっちの家が怖かったの。お姉ちゃんまでいなくなっちゃうんじゃないかって、不安だったの……」
「ヒナ……」
お母さんが死んで、私たち二人だけになって、私はヒナに弱みを見せないしっかりしたお姉ちゃんになろうとしていた。
ヒナはワガママを言わない、いい妹になろうとして、自分の本心すら隠してしまう子になっていたんだ。
気付いていなかったわけじゃない。
心の底で、ヒナなら大丈夫って決めつけて、ヒナの強がりに甘えていたんだ。
ほんの一年前までは帰るとお母さんが晩ご飯の支度をしてくれていた。今は誰も待っていない家で、ヒナは一人で私の帰りを待っていた。
ヒナはまだ吹っ切れてないって分かっていたのに。
「ごめんね、ヒナ。そうだよね、ひとりぼっちは寂しいよね。ごめんね……」
泣きじゃくるヒナを抱きしめて背中をさすってあげる。
ヒナにまとわりついている黒いモヤなんてどうでもいい。私に手を出したければ出せばいい。
「もう、強がらなくていいんだよ。ワガママを言ってもいいからね」
「うん……」
「ごめんね……大丈夫、一緒にいるからね……」
総魔さんたちには悪いけど、こうなった以上ソラでのバイトも考えなければならない。
アヤカシに狙われる体質は治したい。しかし、今ヒナを一人にするわけにはいかない。
わふ、と足元のジンくんがヒナにすり寄る。
気付いたヒナがジンくんの頭を撫でようと手を伸ばした瞬間、
わんっ!
ジンくんの力強い一吠え。
「きゃっ」
小さく声を上げたヒナの身体から黒いモヤが煙のように立ち上る。
「怖イ怖イ来なイデ」
黒いモヤは黒い人の形に姿を変えてジンくんから遠ざかろうとするけれど、それよりも先にジンくんが噛みついて逃がさんとする。
「ハなシテ、ハナして」
「こぉーら、アヤカシが人に危害加えちゃ駄目でしょー!」
唐突に。気の抜けるような間延びした声が廊下に響く。
予想だにしていなかった人物がそこにいた。
「総魔さん……?」
総魔さんは私たちと黒いアヤカシの間に立って、少しだけ厳しい口調で告げる。
「《裏東京》はヒトとアヤカシが仲良く暮らすところなんだよ。取りついて暴れるなんて御法度。住むときにも約束したでしょー」
「ア……アァ……」
「処分は後日伝えるから、とりあえず今は……大人しくしててね」
総魔さんがパチンと指を鳴らすと、みるみる縮んだ黒いモヤは小さな粒になって床へと転がった。
まるで黒い種みたい。……いや、これが総魔さんの言う『悩みの種』なのか。
黒いモヤの取れたアヤカシは逃げるようにヒナの部屋の窓から飛び出していった。
「さーて、それじゃあ次はヒナちゃんだねー」
「え……っ」
怯えた様子のヒナはさっと私の後ろに隠れ、恐る恐る総魔さんの表情を伺い見る。
「お二人さん、うちに来ない?」
「……は?」
相変わらずニコニコ笑っているので、彼がなにを考えているのかさっぱり分からない。
「ルナちゃん、ヒナちゃんのためにバイトやめるって言うでしょ? でもね、今人手不足だから抜けられると困るんだよねぇ。だからさ、ビルの五階空いてるからそこに住まない? ヒナちゃんが寂しくなったら喫茶店に降りてくればいいし、ね!」
「……何か企んでます?」
総魔さんはにんまり。絶対企んでる。
「悩みの種はね、さっきみたいに無理矢理取り出すこともできるけど、リスクを伴うんだー。悩みを解消して、自然と種が落ちるほうが安全なんだよ。ヒナちゃんのためを思うと、こうした方が一番安全かなって思ってさー」
……ヒナのことを考えてくれているのは嬉しい。でも、どうしてなんだろう?
総魔さんが私たちを気にかけてくれる理由がさっぱり思いつかない。
「……どうして総魔さんは、私たちを気にかけてくれるんですか?」
「んー……」
総魔さんは少し悩む素振りを見せて、
「ルナちゃんとヒナちゃんはね、僕にとって特別な存在なんだよ」
「特別って、一体……」
聞き返そうとしたとき、ヒナに袖をくいっと引かれて言葉を飲み込む。
ヒナは静かに首を横に振ると、私の後ろから出て総魔さんに向き直った。
「……ありがとうございます……それに、迷惑をかけてごめんなさい……」
「いーよいーよ、これが僕の仕事だからね。キミたちはどんどん迷惑かけていいからね!」
軽く言い放つ総魔さんの表情は曇りのない笑顔そのもの。
「たくさん頼っていいからねぇ。ルナちゃん、ヒナちゃん」
その笑顔で、少しだけ心が軽くなった。
……総魔さんの手のひらの上で踊らされていたような気がしないでもない。それでも総魔さんが私たちを助けてくれた事実は変わらない。
ちょっとだけ、目頭が熱くなった。
子供っぽい言動もあるし、少し頼りないし、私たちに何か隠しているような素振りもある。
まだ出会って間もないから、総魔さんのことをあまり知らない。
「……ありがとう、総魔さん」
「どういたしまして!」
私は、この人のことを、もっと知りたい。
……そう思った。
あれから数日経った。
私とヒナは引っ越しを終え、平穏な生活を送っている。
アヤカシに襲われることも、ほとんどなくなった。……まあ、学校に行く以外は外に出ないからだけど。
「ねえねえ、キミさ、何か悩みがあるんじゃない?」
弾む声色で総魔さんはお客さんに問い掛ける。
突然ウェイターに声を掛けられて戸惑いを隠せない様子を見せつつも、お客さんは暫し考え込んでから小さく頷いた。
「……あれって、悩みのありそうなお客さんなら誰にでも聞いて回ってるんですか?」
「そうだな。お陰で最近は透目当ての女性客が増えてきた。客が増えるのは良いことなんだが、長々と話すから回転率が悪くなってきていてな……」
北城さんは困ったように頭を押さえた。
確かにあれじゃあお客さんをナンパをしているようにしか見えない。
現に私も声を掛けられたときはナンパだと思ってしまったし。
「どうして総魔さんはああやってお客さんの悩みを聞こうとしているんですか?」
ちらり、北城さんが私を見やる。少し困った顔で。
まだ私が聞いてはいけないことだっただろうか。
「すみません、聞かなかったことにしてください」
「……いや、こちらこそすまない。知られて困ることではないのだが、今は透から口止めされているんだ。いずれ、透の口からキミたちに話すだろう」
……じゃあ、それを待つことにしよう。
総魔さんたちのこともそうだけど、私にはもっと知らなくちゃならないことがある。
《裏東京》のこと。
ヒトとアヤカシのこと。
このソラのことも。
今までずっと知りたくないことには目を背けて来たけど、彼らと出会ってからは少しずつでも向き合おうと思えるようになってきた。
総魔さんたちのことをよく知るのはその後でも遅くはない。
「なになに? 何の話ー?」
「お前が軟派者だという話だ」
「えー酷いなぁ、僕はただ悩みの種をねぇ」
チリンチリン。ドアベルの音が割り込んできた。お客さんが来たようだ。
「私行ってきますね」
「おっけーよろしく!」
総魔さんと北城さんに背を向けて、私はドアの方へと歩きだそうとした、その時。
「ルナちゃん」
「はい?」
総魔さんはにっこり笑顔。自分の頬を指差した。
「いい顔をするようになったねぇ。お兄さんは嬉しいよ」
「……そうですか?」
「最初はすごくつまんなさそうな顔してたからねぇ」
……改めて指摘されると恥ずかしいな。
私が変わったと言うならば、きっかけはやっぱり、
「総魔さんたちのおかげです。ありがとうございます」
総魔さんは私の背中をぽんと押して、とても嬉しそうに大きく頷いた。
「 」
小さく呟いた総魔さんの言葉はよく聞こえなかったけど、さすがにこれ以上お客さんを待たせる訳にはいかない。
私はお客さんの待つテーブルへと急いだ。
「こっちこそ、ありがとうね。キミたちがいてくれて嬉しいよ」
窓の外には茜色に染まった夕空が広がっている。少しずつ紺色が混じってきている、普通の夕空。
胸騒ぎは、もうしない。