こんにちは、ソラ! その6
(……あれ?)
ソラからの帰り道。
もうすぐ夜の8時に差し掛かろうというとき、以前黒いアヤカシに襲われた商店街で一人佇むヒナらしき姿を見つけた。
どうしてこんなところに?
いや、でもあの真面目なヒナが夜に一人で出歩いているなんて考えにくい。暗いし、人違いの可能性もある。
こっそり近づいて確認してみるが、後ろ姿も身長も、やはりヒナで間違いないだろう。
叱るのが得意じゃない私だけど、ここはやっぱり姉として叱らなければいけない。なにか理由があるのかもしれないけど、小学生がこんな時間に一人で歩き回るなんて危険だ。なにかあってからじゃ遅いんだ。
「こら、ヒナ! こんなところでなにしてんの! 夜に一人で出歩いちゃ駄目って言ったでしょ!」
ぺちこん。頭を軽く叩くと、ヒナはビクリと肩を跳ねさせて振り返る。
私の姿を視界に捉えた瞬間、ヒナは大きな目をぱちくりとさせて首を傾げた。
「お姉、ちゃん……? どうしたの?」
「それはこっちのセリフ! どうしてこんなところにいるの?」
「……ごめんなさい。少し、外を散歩したくて」
ヒナはしょんぼりと肩を落とす。
「本当にそれだけ? 何か落とし物をしたとか、誰かに呼び出されたとかじゃないのね?」
「うん……」
……ま、まあ、何事もなくてよかった。この辺りは以前私が黒いアヤカシに襲われたところに近いから、もしかしたらまだいるかもしれないし。
「ほら、帰ろう?」
「……うん」
指先に触れたヒナの小さな手が異様に冷え切っていたので、包み込むように手を握ると少し早足で商店街を抜けた。
しかし、何でだろう。嫌な予感が消えない。
どこからか見られているような、狙われているような──背中がムズムズする感覚。
……大丈夫。この髪飾りがあれば、この前の黒いアヤカシ程度なら寄ってこないって北城さんが言ってたし。
でもやっぱり怖いものは怖いから、早く帰ろう。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「最近、帰りが遅くなったよね……」
「うん。バイト始めたからね。ごめんね、こんな時間まで一人にして」
「……いいの。生活のためだもの。それに、アルバイトを始めてから、お姉ちゃん、すごく生き生きしているから……」
「あー、そうかもね……」
犬飼さんがこっそり分けてくれるケーキ美味しいし、所構わず繰り広げられる総魔さんと北城さんのコントは面白いし、何よりみんないい人だし。
不純な動機で始めたソラでのバイトだったけど、正直言うとすごく楽しいし居心地がいい。
たまに、総魔さんと北城さんが私に何かを隠しているような素振りを見せるけど、誰にだって知られたくないことの一つや二つあるだろうし別にいいんだ。
いつか彼らも私を頼ってくれるようになったらな、なんて。
「今度ヒナもおいでよ。お姉ちゃんが奢ってあげる!」
「……うん……」
手を握るヒナの力が強くなる。だから私もヒナの冷たい手を強く握って、辺りを警戒しながら我が家を目指した。
「…………」
「……最近、ヒナの様子がおかしいんだよね……」
ぼそり。呟くように話を切り出すと、奈美は空になったイチゴミルクの紙パックをベコリと凹ませて首を傾げた。
「ひーちゃんが?」
奈美とはもう十年以上の付き合いになる。ヒナのことは、ヒナが生まれた時から知っているから姉妹のように仲がいい。
「おかしいってどんな風に?」
「最近、私がバイトから帰っても部屋に籠りっぱなしで……ご飯は一緒に食べるんだけどね、話しかけても上の空なの」
「あのお姉ちゃんっ子のひーちゃんがねぇ……あんたはひーちゃんに激甘だから喧嘩もしないだろうし、もしかして反抗期かしら」
「やっぱそうなのかなぁ……」
机に額をくっつけて大きな溜め息をつく。
「……それとね」
「んー?」
机に伏せた状態から首だけを動かし、今度は頬を机にくっつけて奈美を見上げる。
いつになく真剣に話を聞いてくれる奈美を見たら、やっぱり親友なんだなぁと少しだけ心がくすぐったくなった。
「あのね、たまーになんだけど、ヒナの纏う空気が変わるんだ。ヒナは感情があんまり表情に出ない子だけど、嬉しいときはちゃんと嬉しそうに笑うでしょ。……でもね、最近、すっごく冷たく笑うの。なんか、私の知ってるヒナじゃないみたいで……ちょっと怖いんだ……」
大好きな妹のことを怖いと思うなんておかしいって分かってる。だからこそ、こんなことを相談できるのは奈美しかいないんだ。
私とヒナのことを一番よく知ってるのは奈美だから。
別に奈美から明確な答えが返ってこなくてもいい。ただ、私とヒナのことを理解してくれてる誰かに話して少しでも楽になりたいだけなんだ。
私とヒナのことだもん。私が自分で解決しなくちゃいけない。
少しの沈黙のあと、ぽこん、と私の頭に奈美の空の紙パックが乗っかった。
「ひーちゃんが引きこもるようになった心当たり、あんたにはないのよね?」
「うん……喧嘩したわけでもないし……この間、ヒナが夜に出歩いていたときには叱ったけど、帰りは手をつないで帰ったし、怒ってる様子はなかったし……」
「真面目なひーちゃんが夜に? どうして?」
「散歩したかったんだって」
「えっ、それだけ?」
「そうみたい。でも、やっぱりそれだけのためにヒナが夜に出歩くとは思えないんだよね……」
「そうねぇ……」
うーん、と二人一緒に首を捻って考える。
「……取りあえず、まずはご機嫌とりでもしてみたら?」
「そうだね……ヒナの好きなチョコケーキでも買って帰ろうかな」
「それじゃあ! ソラに!行きましょ! 美味しいケーキをテイクアウト! 愛しの彼をウォッチング!」
「えー……私、今日休みなのにソラまで行くの?」
「だってルナばっかりズルいじゃない! あたしもソラで働きたい! 焼き肉屋のもっさいむっさいオッサン店長なんかじゃなくて北城さんの麗しいお顔を間近で眺めたいのよぉぉお!」
「あ、うん……」
奈美がアルバイトしている学校近くの焼き肉屋さんの店長さんごめんなさい。
そんな店長さんは、奈美の友達だからってアイスオマケしてくれる優しいオジサマです。
「そうと決まれば行くわよソラ! あたしの楽園!」
「高原座れー授業始めるぞー」
「……チッ」
奈美が凶悪な顔で舌打ちするのはまぁいつものことなので、慣れた先生はそのまま「よーし今日は高原からなー」と授業を開始したのだった。迷惑な。
──そして放課後。
ソラへとやってきた私に、総魔さんは言った。
「あれー? ルナちゃん、美味しそうな匂いしてるねー」
他にお客さんがいないのをいいことに、総魔さんはカウンター席に座る私に顔を近づけて匂いを嗅いでくる。厨房から出てきた犬飼さんに「セクハラですよ」と言われてもお構いなし。
美味しそうな匂いかぁ。
「あ、もしかしてこれかな?」
思い当たるのは、ここに来る途中にコンビニで買ってきた板チョコ五枚。鞄から取り出して見せると、「それかもー」と断りなく包装紙を破り捨てる総魔さん。食べていいなんて言ってないんだけど。
「でも、どうしてそんなにチョコを買ったんですか? ルナさん、そこまでチョコ好きでしたっけ?」
「あ、いや、チョコはまぁ普通に好きなんですけど……私じゃなくて、妹にあげようと思って」
「……五枚は多くないっスか?」
「私も思いました。別に一枚でもよかったかも」
「じゃあじゃあ、余ってるならポチくんになにか作ってもらおーよ! いいでしょ、ルナちゃん!」
「私はいいですけど……」
「けってーい! はい、チョコと言ったら?」
総魔さんの視線が犬飼さんへ。つられて私も視線を追うと、
「そうですね……王道のチョコレートケーキにチョコマフィン、チョコプリンにムース、ガトーショコラにチョコブラウニー、溶かしてクリームと混ぜてチョコソースとしても使えるし砕いてチョコチップとしても使えるから……あ、チョコクレープも……」
瞳をキラキラさせてとても生き生きと呪文のような言葉を唱えていた。
「ねぇ僕あれ食べたい! チョコバナナ!」
「は? 材料は自分で調達してきてくださいよ」
「はいごめんなさい」
「ルナさんは何が食べたいですか?」
「えっ、えぇと……」
チョコチョコ言ってたから頭がこんがらがってきた。
どれも美味しそうだし全部食べたいけどチョコ全然足りないし!
「あっ、タルト! チョコのタルトが食べたいです!」
「タルト! 任せてください!」
そう言うと、犬飼さんは意気揚々とチョコを掲げてニヤリと笑った。すごく楽しそう。
チョコで作れるお菓子っていっぱいあるんだなぁ。
……チョコレートのお菓子、かぁ。
「……あの、犬飼さん」
「はい?」
「その……もし、ご迷惑じゃなければ、今度私にチョコレートを使ったお菓子の作り方を教えてくれませんか?」
犬飼さんの作ったお菓子は美味しい。買っていったらヒナも喜んでくれるだろうけど。
……でも、やっぱり、私が自分で作ってヒナにあげたいな。
お菓子作りなんてほとんどしたことのない私に上手く作れるかは分からないけど、やれるだけやってみるのもいいよね、ご機嫌取り。
犬飼さんは一瞬驚いたような顔をしていたけど、すぐに理解したように鋭い目をふっと細めて頷いてくれた。
「いいですよ。絶対に妹さんを喜ばせましょうか」
「はい! よろしくお願いします犬飼先生!」
「──了解した。この情報は透に伝えておこう」
優雅な動作でティーカップを傾けた北城さんは、形の整った細い眉を少し困ったように下げて息をついた。
「それにしても……面倒なことになってしまった。こんなことならば、あの時追い払うのではなく消しておけばよかったな……」
「……ごめんなさい。あの子はルナと違って自分でアヤカシを追い払えるから大丈夫だって決めつけて、目を離してしまって……」
「いや、キミのせいではない。あの姉妹は特に狙われやすいと分かっていたのに、妹の方だけ対策を取らなかったこちらの不手際だ」
さて、どうしようか。少しの間口を閉ざした北城さんだったけれど、ふいに時計を見やり「もうこんな時間か」と肩の力を抜いて立ち上がる。
「透たちが相手をしているとはいえ、あまり彼女を待たせるのはよくないな。また後日、時間をもらえるだろうか」
「はい」
北城さんは微かに笑うと、「そんな顔をしなくてもいい」とあたしの背中をぽんと叩いた。
「『アヤカシに狙われやすい水無瀬姉妹を守りたい』――キミの悩みと願いは、どれだけの時間がかかろうと俺たちが必ずしも叶えてみせよう」
「ええ」
「では、また」
北城さんに誘導されてエレベーターに乗り込み階を降りる。
甘い匂いのする喫茶店フロアに踏み入ると、出入り口近くのカウンター席に三人の人影が――っ!
「……あ……あぁ……!」
くるりと振り返った一番小さな人影が、あぁまたか、と言いたげにあたしを見ている。
ええ、ええ! またよ、またなのよ! 仕方ないじゃない!
「キャッホーイ! 金髪イケメンキタ――!!」
叫んで駆け寄ると、金髪イケメンさんは引きつった顔で厨房へ入ってしまった。
あぁん、もう! お初の金髪イケメン! お近づきになりたかったのに!
「用事は終わった? そろそろ帰るよ」
「いえ! まだよ! 厨房の彼とお知り合いになるまで帰れないわ!」
「じゃあ、今日はもう帰りますね。お邪魔しましたー」
「ルナちゃん奈美ちゃん、バイバーイ」
ひらひらと手を振ってお見送りしてくれる総魔さん。
「……またネー」
その言葉はきっとあたしに向けられた言葉。
ええ、また。
あたしの悩みを総魔さんに食べてもらうまで……そして金髪イケメンとおしゃべりするため、また来ます。