こんにちは、ソラ! その3
北城さんに電話をしてもメッセージを送っても返事がないので、ジンくんを連れてソラまで来た午前10時42分。
「……嘘でしょ……」
目の前のドアには『close』のプレートが掛けられてあり、ガラスの向こうの店内は真っ暗で人の気配すらない。
「もしかして、まだ開店時間前? 何時開店だろう?」
キョロキョロと辺りを見回しても営業時間の表示はない。
……昨日言われた9時になっても北城さんと連絡が取れなかった。それから30分置きに電話をしているけど未だ繋がらない。
今朝、スーパーの開店と同時に買ってきたドッグフードを食べてくれなかったジンくんは、昨日の夜から何も食べていないことになる。そろそろお腹が空いているんじゃないだろうか。
困ったことになったぞ。
何か事情があって電話に出られないんだと思いたい……でも、やっぱり人様の家のワンちゃんを預かるなんて軽率だったかもしれない。
「どうしよう……」
うろうろと店の前を行ったり来たり。
すると、リードの先のジンくんがいきなり「ワンッ」と吠えて、喫茶店の横の通路に私を引っ張っていく。
喫茶店『ソラ』は六階建てビルの一階部分で営業をしている。
上の階になんのテナントがあるかは知らないけれど、当然ながら裏の方には非常用階段があるわけで。
ジンくんは慣れた様子で二階三階と階段を駆け上がっていくので、私も慌てて追いかける。やばい、日頃の運動不足がこんなところでたたる。太もも痛い。
ビルの三階部分。非常用階段から繋がるドアには木製の『北城』と手書きの『犬飼』のプレートが。
もしかして、もしかしなくても、ここは北城さんの自宅なのか。
ワン、とジンくんが私を促す。え、でも呼び鈴ないんだけど。
「す、すみませーん」
シーン。返事なし。
トントン。ドアを控え目にノックしてみる。やっぱり返事なし。
「いないのかな?」
ジンくんはワンワンと大きな声で吠える。
どうしよう。また後で訪ねたほうがいいのかな。
ここでずっと待っているわけにもいかないので、しばらく公園を散歩してこようかな、なんて考えていると、
「おい、そこで何してんだ」
階段下から声を掛けられてドキリとする。素敵なバリトンボイス。
「い、いや、その、あ、怪しい者じゃないです!」
人見知りが発動。盛大にどもりながら振り返り、ぶんぶんと腕を振って怪しくないアピールをする。
階段下の人は「ふぅん」と特に興味なさげな様子。うららかな春の日には不釣り合いな真っ黒いコートを翻して、下駄の音を響かせながら階段を上がってくる。黒いサングラスが反射して顔はよく見えない。
ていうか、この人のほうがよっぽど怪しいんですけど。
黒ずくめの人はけだるそうに頭を掻き、「あー、あれか、裕に用事か」とさも当然のようにドアノブをひねり入り口を開け放つ。え、鍵掛かってないんですか。
「おーい、裕。いつまで寝てんだ、とっとと起きろ。オメーに客だぞ」
寝てる……だと?
聞き捨てならないセリフを口にして黒ずくめの人がドカドカと部屋に踏み込んでから数分後。中に入れず入り口に突っ立っていた私の方へバタバタとやや軽めな足音が近づいてくる。
「すまん寝坊した!」
心に秘めた野望なのか、はたまたただのギャグなのか。『世界征服』の文字が前面にプリントされたTシャツを身につけた北城さんが飛び出してきた。
銀色の髪はあちらこちらが飛び跳ねていて、明らかに寝起き姿だ。彼の言葉に嘘偽りはないだろう。
「申し訳ない。ジンを引き取りに行くと言ったのは俺なのに、結局キミに連れて来てもらったな」
「いえ、どっちにしろ来るつもりだったので……」
「とりあえず、そこのソファにでも座って少し待っていてくれ。すぐに着替えて戻ってくる」
非常口から入った先、リビングに置かれたL字型の白いソファを指差し、北城さんは奥の部屋と消えていった。
……あのTシャツ、背面には『絶対王者』ってプリントされているんだね。凄いね。
一足先にソファに移動していたジンくんは背もたれに掛けてある毛布を引っ張って自分の寝床らしきものを作っている。可愛いなぁ。
北城さんが戻ってくるまで、言われた通りにふわふわのソファに座って時間をつぶす。
そういえば、さっきの黒ずくめの人はどこへ行ったんだろう。北城さんを呼びに行ってから戻ってこないけど。少し怪し……いや、怖そうな人だったけど、あの人が北城さんを呼んでくれたんだし、お礼くらい言いたかったな。
さて、あまり人の家の中をじろじろ見るのは失礼だし、何より異性の家なのでどこに視線を向ければいいのやら。
「てか、なんで微塵の疑いもなく男の人の家に上がり込んでいるんだ私……」
気が付いても既に時遅し。私はふかふかのソファの誘惑に負けていた。
……まあ、大丈夫だろう。悪い人には見えないし。
物事を深く考えないのは悪い癖。分かっていても治せない。この癖に助けられたこともあるしね。
「すまない、待たせたな」
奥の部屋から戻ってきた北城さんの手には未開封の500mlペットボトルのドリンクが握られていた。
「お茶とオレンジジュース、どちらがいい?」
「あ、ありがとうございます。じゃあオレンジジュースで」
手渡されたオレンジジュースはつい今し方冷蔵庫から取り出したのかひんやりと冷たかった。
「すまないな、ここには客人用のグラスを置いていないのだ。さすがに喫茶店から持ってくるわけにもいかなくてな……」
「い、いえ、お気になさらず」
北城さんは私の向かいの一人掛けソファに腰を下ろし、「さて」と仕切り直しを図った。
「キミが今日ソラを訪れようと思った理由、それは透に会うためだろう」
「……はい」
やっぱりお見通しだったか。
「キミの悩みはアヤカシが見えることかな?」
「いえ、違います」
私は昔からアヤカシが見えていた。友達だって、正直なところ子供の頃はヒトの友達よりアヤカシの友達のほうが多かった。
ここがヒトとアヤカシが共存する《裏東京》とはいえ、見えないはずのものが見える私を疎んだ人はたくさんいた。それでも、アヤカシと共に生きることを嫌に思ったことはない。
それに、アヤカシに狙われるようになったのもここ数年のこと。
「アヤカシが見えることで悩んだことはありません。私の悩みは、昨日のようにアヤカシに狙われること。これを治したいんです」
断言した。
北城さんは意表を突かれたのか、ぱちぱちと目を瞬かせ、私の表情を確認するとふっと笑みを漏らした。
「それを聞いて安心した。キミが金輪際アヤカシを見たくはないと言っていたら、俺はキミに別れを告げなければならなかった」
「えっ」
「俺もアヤカシなんだ。ヒトに危害は加えない、自分で言うのもなんだが、善いアヤカシだ」
北城さんは赤い瞳を嬉しそうに細めて指を組んだ。
「キミの悩みが解消出来るよう、俺も出来る限り手を貸そう」
「よ、よろしくお願いします……」
わふぅ、と毛布にくるまったジンくんが呆れたように鳴いた気がした。