こんにちは、ソラ! その1
最近、『ソラ』という言葉をよく聞く。
私たちの頭上に果てしなく続く青空、という意味ではなく、ここ《裏東京》の中央区に最近できた喫茶店が『ソラ』 という名前なのだと、クラスの女の子たちが話していた。
正直なところ、私自身はその噂に関してあまり興味はない。しかし、それはそれは面倒くさいことに私の幼馴染でミーハーな数少ない友人でもある高原奈美が興味を持ってしまったのだ。
何でも、その喫茶店で働くウェイターがかなりのイケメン揃いらしい。
噂を耳にするなり「イケメンキタコレ、放課後行くわよ速攻いくわよ風になるわよヒャヒャヒャホーイ」と鼻息を荒くしていた奈美は、宣言通り帰りのホームルームが終わると同時に周囲の椅子を蹴散らし教室を飛び出そうとした。しかし残念なことに彼女は本日日直当番。同じ日直で、クラスの誰よりも正義感の強いバスケ部の戸上くんによって捕獲されてしまった。
我を忘れた猛牛のごとく飛びかかる奈美に、果敢に立ち向かった戸上くんにはクラスメイトから惜しみない拍手が送られたのだった。あっぱれ。
それはさておき。私、水無瀬ルナはというとーー奈美の日直当番が終わるまで暇を持て余しているのでした、まる。
ホームルーム終了から十数分。教室に残っているのは雑談をしている女の子たちと私だけ。
普段から接点のない彼女らの会話に混ざりにいくコミュ力も勇気もないので、今まで静かに本を読んでいたがどうにも集中できない。
先に玄関で待ってる、と奈美にメッセージを送って、私の鞄とついでに奈美の鞄も持って教室を出る。直後にキャハハハッと甲高い笑い声が耳に届き、教室を出て良かったと心の底から思った。発声源は私の机の二つ横だもの。
ふと、茜色に染まった夕空を見上げてみる。少しずつ紺色が混じってきている、普通の夕空のはずだけど……なんだか胸騒ぎがする。百発百中の成績はないけれど、こういう予感は中々当たるんだ。
奈美がまた何かをやらかして私が巻き込まれるのだろうか。嫌だなぁ。
憂鬱になりつつある気持ちを切り換えるために、小走りで生徒用の玄関へと向かう、その道中。
「ルナ、待って」
階段脇から掛けられた声で足を止める。
踊り場の手すりから下を覗き込むと、職員室前の廊下から、茶色というよりは金色に近いツインテールを揺らした奈美が手を振っていた。
「あ、奈美。当番終わったの?」
「ええ」
猫のように丸くて大きな瞳が細まり、同じ女子なら誰もが羨むふっくら艶やかな唇は緩く弧を描いている。
すれ違う誰もが振り返るような美女である奈美は、白くて細い手を私の肩に置くと、頬を苺大福のように紅潮させて開口一番こう叫んだ。
「さあ、イケメンに会いに行くわよーう!」
「あー、はいはい」
始まった。
「将来有望なイケメンたち! もしかしたら近いうちに芸能界デビューしてファンや追っかけの女どもにキャーキャー言われるかもしれないわ! だったら今のうちにお近づきになっておいて損はなし! 行くわよルナ!」
「はいはい」
非常に残念な美女である。
私は呆れ顔で、スキップしそうなほどに浮かれている奈美の背中を追って玄関を出る。
もう慣れっこだ。慣れているけど、このテンションに合わせるのはとても疲れる。
イケメンを眺めることが生き甲斐の奈美は前にも同じような噂に翻弄されて、いざ行ってみたら期待していたほどのイケメンでもなく、帰りに「騙された!もう噂なんて信じないわ!」とか嘆いていたくせに。ミーハーのイケメン好きにはほとほと呆れる。
今回は奈美のお眼鏡にかなうイケメンかなぁと、ぼんやりと考えつつ街中を歩いていると、くるりと振り返った奈美が「ここよ、ここ!」と瞳をキラッキラさせて私の腕を思い切り引っ張った。
「ちょっ、危ない!」
不意打ちで引っ張るものだから、足がもつれて転びかける私を気にかける様子もない幼馴染兼友人。縁を切ってやろうかと悩む今日この頃。
「早く入りましょ!」
「そんなに引っ張らないでよ、もう!」
チリリンとドアベルが心地よい金属音を奏で、私の目に白と黒で構成されたオシャレな空間が飛び込む。
黒く縁取られたガラスのテーブル。白い背もたれが特徴的なダークブラウンの椅子。壁や床は全体的に暗めの色で構成されており、ややオレンジがかったライトがやんわりと室内を照らしている。
おお、と声を漏らしてしまった。やばい、私好みのインテリア。
「いらっしゃいませ」
パタパタと店の奥から駆けてきたウェイターさんの顔を視界に収めて、私と奈美は息を呑んだ。
私たちを席まで案内してくれているのは、イケメンなんて言葉では言い表せないほど、端正な顔立ちをした男の人。長い睫毛から覗く血のように赤い瞳、さらさらと流れる銀色の髪が、彼の儚い容姿を一層際立たせる。ああ、私に語彙力がないことが悔やまれる。
彼の存在感に圧倒されてか、あの喧しい奈美でさえ無言のまま案内された席に着いた。
「ごゆっくりどうぞ」
そう告げ、私たちの席から離れようとした瞬間、ぱちりとウェイターさんと目が合った。彼はその顔に微かな笑みを浮かべて、しかし何も言うことなく厨房へ続くカウンターへと入っていく。
ウェイターさんの姿が見えなくなると、奈美は頬をトマトのように赤らめ、興奮を露にしてテーブル越しに顔を近づけてきた。
「見た!? ルナ、今の人見た!?」
「そりゃ、一緒にいるんだから見たに決まってるで……」
しょ、と私が言い終わる前に「彼こそが私の探し求めていた王子様よっ!」と店内に響き渡る大声で叫んでくれたお陰で、何だ何だ何事だと店内のお客さんがざわついた。このお馬鹿さんは、もう……。
喫茶店には珍しいテーブル一つ一つに仕切りがある構造に助けられ、他のお客さんの視線を直に受けることにはなかったが、さすがに店員さんには目を付けられただろう。次騒いだら追い出されるかも。
興奮している奈美をどうにかして静めなければ。メニューをテーブルに広げ、トントンと指先でつついて奈美の意識をウェイターさんからメニューへとそらす。
「で、奈美は何を頼むの? 今回は私の奢りでいいから」
「あら、いいの? それじゃあ……」
奢りと聞いて奈美は嬉しそうにメニューを開いた。こりゃ遠慮なく頼むぞ。
財布の中身を確認しようと鞄を開けると、すぐ横に誰かが立つ気配を感じて私はパッと顔を上げる。
佇んでいたのは、愛想のいい笑顔を浮かべた、さっきのウェイターさんとはまた違ったイケメンのウェイターさん。気が付いた奈美は再び口を閉ざす。あ、違う逆だ、口をあんぐりと開けて言葉を発することも出来ずに彼を見上げていた。
「お嬢さんたち、ちょっといいかなー?」
妙に間の延びている声でウェイターさんが私たちを呼ぶ。
あ、やばい。やっぱり怒られる?
「ご、ごめんなさい、静かにします!」
「え?」
ウェイターさんはきょとんとし、私と奈美、そして周囲を順々に見回す。そして私の考えていることを察したらしく、ひらひらと手を振る。
「あ、別にさっきの大声を怒るために来たわけじゃないよー」
ウェイターさんはポケットからメモを取り出し、私寄りのテーブルの上にすっと置いた。
「……ね、キミさ、ずっと悩んでること、あるでしょ」
確信の声色にドキリとする。
……ずっと悩んでること、確かに私にはある。奈美にさえ打ち明けていない悩みが。それをなぜこの人が知っているの? 当てずっぽう?
ウェイターさんはにっこりと笑みを張りつけたまま、もう一度ひらひらと手を振り踵を返した。
「僕の名前は総魔透。じゃあまたねぇ」
私はしばらく呆気に取られながら彼の背中を見送っていたが、ふと思い出して置かれたメモを広げて読んでみた。
『明日も来てネ☆』
電話番号でも書いてあるのかなと少しドキドキしてしまったけど、メモに書かれていたのはその一言だけ。
……なんだったんだろう、あの人。