ショートショート024 箱
ぽかぽかとした陽気の、あたたかな春の休日。
男が海辺を散歩していると、少し離れた波打ち際に、何か黒いものが落ちているのを見つけた。それほど大きくはない。片手で楽に持てる、それくらいの大きさ。
いったい何だろうと首をかしげながら、男は脱いだ靴を手に持って近寄り、上から波間を覗き込んでみた。
波に洗われていたそれは、小さな黒い箱だった。どこにでもあるような、何の変哲もない箱。
なんだ、ただの箱じゃないか。
なんだか期待を裏切られたような気持ちになり、男は浜辺に戻ろうとした。
が、すぐに歩みを戻して腰をかがめた。水に浅く浸かっているその箱を、今度はしげしげと眺める。
どう見ても、小さくて、四角くて、そして黒いだけの、ただの箱だ。
それだけのはずだ。
それなのに、どういうわけか気にかかる。波長が合っている。自分の体から出ている何かが、箱に吸収されている。そういう感じがする。
どこからか湧いてきた奇妙な衝動にあらがえず、男は手を伸ばし、箱に触ってみた。
それは、実に不思議な感触だった。
かたいとかやわらかいとか、そういう意味ではない。やさしい手触りだとか、そういうことでもない。
やさしく頭を撫でてくれる。すべてを受け入れて、ふんわりと抱きしめてくれる。忘れていた何かが心にしっとりとしみ込んできて、奥の方からあたためてくれる。そんな感触だった。
気がつくと、男は家に戻ってきていた。どうやって帰ったのか、ぼんやりしていてあまりよく覚えていない。いや、ちゃんと自分で歩いて帰ってきたことは覚えている。だが、まだ散歩の途中だったはずなのに、どうして帰ろうと思ったのか。そこがどうも霞んでいる。
手を見てみると、そこには黒い箱があった。どうやら、無意識に持ち帰ってしまったらしい。
本当に奇妙な箱だ。
立て続けに起こった非日常的なできごとに次々と疑問が湧いてきたが、いったん自分を落ち着かせる意味も込めて、じっくりと箱を観察してみることにした。
形は、どの面も平らでゆがみはない。ふたとか取っ手とか、そういう余計なものもついていない。ものさしで測ってみると、どの辺もぴったり同じ長さ。きれいな立方体だった。
印刷などはいっさい入っていない。光をまったく反射していないのではないかと思うほど、ただ、底抜けに黒い。海水にさらされていたのだから、しみや色落ちがないとおかしいのだが、どこにも見あたらない。その風合いは、きっとこの箱は初めから変わることなくずっとこうだったのだろうと、そんなふうに思わせるものだった。
また、材質もよく分からなかった。軽く力を加えてみたが、へこんだりはしなかった。どうやら、紙やプラスチックなどではないらしい。かと言って、岩や金属のように冷たいわけでもない。堅い木のような感じでもない。砂だらけの海辺に転がっていたのに、傷ひとつ付いていない。風化してもろくなっているところも見あたらない。
きっとこの箱は、この箱が生まれたそのときから、今のように黒く、傷も汚れも無かったのだ。そうに違いない。
男はなぜか、そう確信した。
もう少し調べてみようかとも考えたが、すぐにやめた。ずっと箱を触っていたためか、とても幸せで、穏やかで、安らかな気分になっていたのだ。
心の奥底にやさしく触れてなぐさめてくれる。手のひらを通じて心をじんわりとさせてくれる。そういう効果をもたらす、不思議な箱。
ひょっとしたら、何かいわれのある箱なのかもしれない。この世のものではなくて、先祖の霊とか神様とか、そういう何かが宿っているのかもしれない。
近くの神社に話を聞きに行ってみようかとも思ったが、すぐにやめた。毎日の生活で疲れた心を、やさしくあたためてくれる。それで十分だ。よけいなことをすると、たたりに遭うかもしれない。この箱を失うかもしれない。それは、愚かにもほどがある行為だ。する必要がないどころか、すべきではない行為だ。
もうこれ以上何も調べたりはすまいと心に決めて、男は一日中、箱を撫でて過ごした。
それからというもの、時間があれば箱を撫でることが、男のひそかな楽しみになった。
朝起きて撫でる。出勤前に撫でる。帰宅して撫でる。寝るまでの間も、ことあるごとに撫でる。撫でてから布団に入り、朝になったらまた撫でる。
さすがに会社に持っていくことまではしなかったが、それ以外はほとんどずっと箱を撫でて過ごした。休日の日課にしていた散歩もやらなくなって、一日中撫で続けた。幸いと言うべきか、男は人付き合いが良いほうではなく、休日に家にやって来るような友人もいなかった。男は存分に、箱の感触を味わうことができた。
箱から伝わる感触は、それほどに心地よいものだった。
酒やタバコもやらなくなった。そんなものが、箱にかなうはずもなかった。
そうしてしばらく経ったころ。会社では、何かにつけて男のことが話題に出るようになっていた。
男の仕事の効率が、異常なまでに上がっていたのだ。
以前は、まあ人並みという程度の仕事ぶりだった。特に大きな問題を起こすことはないが、かと言って大きな成果を上げることもない。いてもいいし、いなくても特に困るようなことはない。そういう人物だった。
それがどういうわけか、いつの間にか仕事の効率が驚異的に良くなっていた。自分の仕事は、あっという間に片付ける。雑になったわけではない。むしろ以前より丁寧になってさえいる。それにも関わらず、仕事のスピードは上がっていた。
得意先から回ってきた仕事も、納期が来るずっと前に終わらせるようになった。おかげで得意先での男の評判もうなぎのぼり。男の上司も、よくぞ優秀な人材を育ててくれたと社長や得意先からほめられ、上機嫌だった。
こうなると今度は同僚からの嫉妬を買いそうなものだが、そうはならなかった。むしろ感謝すらされた。男は自分の仕事を片付けたあと、忙しそうにしている同僚たちのサポートを積極的にしていたからだ。
それに、愛想も良くなった。いつもにこにこして、ぐちや悪口も言わなくなった。具合の悪そうな者には声をかけて面倒をみてやり、また疲れ切っている者にはちょっとした差し入れをしてやった。しかし、踏み込み過ぎるようなことはしない。ほど良い距離感で、他人を気づかった。
当然、男の人間関係はどんどん良くなっていった。やや無愛想だった以前とくらべると、別人ではないかと思えるほどだった。
そしてもうひとつ、男が大きく変わったところがあった。定時以降のいっさいの時間を、仕事に使わなくなったのだ。
定時になると同時に席を立ち、会社を出る。飲み会に誘われても、すべて断る。普段の飲み会だけではなく、歓迎会や送別会でさえそうだった。
だが、その会社はおおらかな社風だったし、男は仕事をきっちり終わらせていたので、どちらも大きな問題にはならなかった。トラブルで休日出勤になりそうなときもあったが、誰もが見過ごしていたミスに男がいち早く気づき、あっという間に対処したので、結局そうなる前に解決した。
定時で上がった男は寄り道などをすることもなく、毎日まっすぐに家に帰った。帰りに買った夕食を食べ、適当にテレビをながめ、気が向いたら本を読み、眠くなったら布団に入る。そうして眠るまでのあいだ、男はずっと箱を撫でていた。箱を撫でさえしていれば、とても安らかな気持ちになるのだ。
そのせいか、出来合いの弁当でもおいしく感じられ、以前はつまらないと思っていたバラエティ番組も笑って見ることができるようになり、難しい本も集中して読むことができるようになった。
眠る前には、最後にひと撫でしてから布団に入った。そうすると、とても気持ち良く眠ることができ、また目覚めもすっきりしたものになった。
家では安らかに過ごしてゆっくりと眠りにつき、朝はすがすがしい気持ちで目を覚ます。これで仕事をうまくやれないわけがなかった。
そんなふうに平穏な生活を過ごしていたある日、男は同僚の女性社員に交際を申し込まれた。仕事ができ、性格も良い。さりげなく人を気づかえる優しさもある。男に好意を抱く女性が出てくるのは、当然のことだろう。
だが、男はもういい年になっていたのに対し、向こうはまだ若かった。男よりひと回りも下だった。今後の人生を考えると、やや冒険だ。
男はそれを理由にして断わろうとした。交際するとなると、どうしても箱と過ごす時間が減ってしまう。下手をすれば捨てろなどと言われかねない。そんなのはごめんだった。
だが、何度断っても女は引かなかった。女にとって男は年齢以上に落ち着いて見え、あたたかな魅力にあふれていたのだ。
ついに男は折れ、交際を始めた。デートのときでも箱を持ち歩くことが多かったが、女にはたいして気にならなかった。そんなことは気にならなくなるほどに魅力的だった。
男は一度、その箱はいったい何なのかと女に聞かれたことがあった。男は覚悟を決めていたので正直に話したが、ふうん、不思議なこともあるのね、とあっさり言われ、それ以上は何も聞かれなかった。あまりにすんなりと受け入れられてしまったので、かえって男の方が不安になってたずねてみると、そんなことはささいなことだし、もし本当にあなたの魅力が箱のおかげだったとしても、それはそれでありがたい話でしょうと言われ、それもそうかと納得した。
二人は順調に愛を育み、やがて結婚することになった。男が晩婚だったせいか子供には恵まれなかったが、二人の仲は良く、喧嘩もすることはなかった。
月日は流れ、男は定年となり、会社のみんなから惜しまれながら退職した。ようやく自由を満喫できるようになったわけだが、男はあいかわらず箱を撫でる毎日を送っていた。妻と二人でゆっくりと暮らし、たまにデートをする。特に大きな怪我や病気をすることもなく、妻と一緒に老いていった。
さらなる年月が経ち、だんだんと体が弱ってきたのを感じた男は、自分の死期が近いことを悟った。
きっと近いうち、私は死ぬのだろう。それは、別にかまわない。安らかな、幸せな人生だった。自分よりもずっと若い妻を独りにするのは心残りだが、こればかりはどうしようもないことだ。妻も受け止めてくれるだろう。
男は、自分の死についてはそんなふうに割り切っていた。だがひとつ、悩んでいることがあった。
あの箱をどうするかだ。
あの箱のおかげで、私はいい人生を送ることができた。できれば、私以外の誰かにもそうなってほしい。それが妻ならいちばんいいに決まっているが、前に触らせてみたとき、何も感じないと言っていた。たぶん、波長が合わないんだろう。
男には子供はいなかったし、さほど親しくしている者もいなかった。譲る相手が思い浮かばなかった。
もうあと数日で、自分は死ぬだろう。それが何となくわかった、ぽかぽかとした陽気の、ある春の日。
男は箱を持って、近くの浜辺へと歩いていった。
この箱は、ここで拾ったものだ。私の人生は、ここから良くなり始めた。ならば、この箱はここに返してやらなければ。もしかしたら、どこかの誰かがまたこれを拾って、いい人生を送ることができるかもしれない。
たしかこのあたりだったかな、と男は昔を思い出しながら砂の上に腰をおろす。浅い波が寄せてきて男の体を濡らしたが、男はそんなことを気にすることもなく、箱を波間にそっと置いた。
静かに打ち寄せ、箱を濡らしては引いていく波を見つめながら、男はふたたび思いを巡らせる。
結局、この箱は何だったのだろう。この箱のおかげで幸せになれた。もしあのとき見つけていなかったらどうなっていただろうか。散歩をする習慣がなく、ここに来ることもなかったら、どうなっていただろうか。たぶん、今のような幸せはなかっただろう。それだけは間違いない。
しかし、と男は思う。
こういうことはきっと、誰にでもあることなのだろうな。私にとってのこの箱、人が幸せになるための何かというのは、きっとこの箱と同じようにどこかに落ちているもので、この箱と同じようによく分からないものなのだろう。私は運良く、それを見つけることができた。そうして幸せな人生を送ることができた。
箱を開けると煙が出てきて、あっという間に老人になるという昔話があったが、あれは主人公がぜいたくな数日を過ごした、そのむくいだという話だった。
そう考えると、やはり私はいい選択はしたのだろう。箱のことを調べたり、いじくるようなことはしなかった。もしあのとき、神社に持ち込んで調べてもらい、怖ろしい話を聞いていたりしたら、私は箱を手放していたかもしれない。そうしたら、こんな幸せな人生を送ることはなかっただろう。
人生はいろんな偶然でできていて、幸運の箱を見つけられずに終わる人もいる。箱を見つけて拾うことができても、箱を開けてしまう人もいる。私は運良く箱を見つけることができ、運良く箱を開くこともなかった。あるがままを受け入れ、ほどほどの幸せをもらうことができた。きっと、それだけのことなのだ。
幸せをもたらす箱。開けてしまうと、不幸になる箱。
あの箱は、きっと、そういうものだ。
最後にもう一度だけ、男は箱をそっと撫でる。
箱は、いつもと同じように、拾ったときとまったく同じように、何とも言えない心地よさを男に伝えてくれた。男はじっと目を閉じて、やはりいつもと同じように、箱の最後のあたたかさを味わった。
男は、箱をあのときと同じように波打ち際に戻してからゆっくりと立ち上がり、そのまま振り返ることなく家へと帰っていった。
箱は、あのときと同じように浅く水に浸かり、打ち寄せる波に、静かに、ただ洗われていた。