カイ=ロードナー②
決心が鈍らないうちに身支度を整えると、私は王城から直接フィラルリエット家へ向かった。
出迎えてくれた執事は私が当主に至急会いたい旨を伝えただけで「どうか主を宜しくお願い致します」と深く頭を下げてきた。よく気のきく使用人だと思った。
いざ問題の扉の前に立たされると、とても緊張する。白い大型犬……じゃなかった、タウロス神が敵でも見るような恐ろしい目で睨んでくるからだ。
(どうして一体こんなことになったんだ……。なんで私ばかり、こんな役回り……)
どうしても何も、今回は王に頼まれたせいなのだが。
もし私が失敗したら執事や王がどれほど落胆するかと思うと、気が滅入ってくる。扉の外で訴えたところで将軍の反応が全く返ってこなかったら、どうしようと思った。
(何故か知らないが王は私にしかフィラルリエット殿を奮い立たせることが出来ないと言った。でも、その私にすら不可能だったら?
ええい、考えても仕方がない! こうなったら、どんな手を使ってでも、将軍の目に光を取り戻させてみせる。この厄介な任務から解放される為に頑張るしかない!!)
心を決めてタウロス神と対峙すると意外にも、すんなりと扉の前をどいてくれた。
「おお……」
執事が驚いたように呟く。何だと思って見返せば、
「いえ、タウロス神様が誰かを通すことは中々ございませんので」
と、弁解した。
そうなのか。まあいい。
本番は、この後だ。
「フィラルリエット殿。カイ=ロードナーです」
幾度か扉を叩いて話しかけると、
「…………何か御用ですか?」
と、冷たい声音ながらも返事があった。横で執事も驚いた顔をしている。私は焦らず、慎重にならなければと思った。ぐっと唾を飲み込む。
「大切な話があって、少しお会いしたいのですが」
「……お入り下さい」
(えっ。許可が……下りた? 夢か?
いや、はっきりと確かに聞いた。相手の気が変わらないうちに、さっさと中へ入ろう)
執事が「くれぐれも頼みましたぞ」という表情で見送ってきて、かなり緊張を強いられながら一人で入室する。
「!」
はたして室内には、聞いていた通りに女神を抱きかかえて椅子に座る将軍がいた。その姿の、何とやつれていることか。優美かつ勇猛で名高い騎士とは、とても思えない。
そして――――初めて見たディーネ神は血の気はないものの、まだ生きていて、ただ眠っているだけのように見える。戦争が終わって七日。遺体は見たところ全然朽ち始めている様子はないのが驚くべきことだが、いずれは避けられないことだ。
「彼女と離れたくないので、こちらに招き入れましたがあまりディーネを見ないでいただけますか。話を手短にお願いします」
将軍の声には棘が混じっている。
(うわあ。何たる独占欲。でも、たぶん女神を守れなかった負い目があるから、この程度で済んでいるんだ。もし女神が生きていたら、彼女の姿を見せてもくれなかっただろう)
かつて程の勢いは将軍に感じられないものの、すぐにでも部屋から追い出されそうな雰囲気に、私は慌てて用件を切り出す。
「職を辞されると聞きました」
「ということはレオール様の差し金ですね。私を将軍職に留まらせようという話ですか」
「……そうです。是非ともお願いします」
「御免こうむりますよ。なんなら貴方の弟のうちの一人にでも、お譲りしますが? 彼らには天賦の才がある。やる気になれば務まるでしょう」
「……やる気になると思いますか?」
「……」
この質問には、流石のフィラルリエット殿も嘘をつききれなかったらしい。
「とにかく私は領地に引きこもりますので、他を当たって下さい」
「それで彼女はどうするのですか? 貴方に、きちんと埋葬することが出来るのですか」
「…………埋めるわけがない。彼女と別れることなど出来ない。
一緒に故郷へ連れ帰り、チェリカの花畑を見せてあげるのです。以前とても喜んでいた。そうすれば花の香りに気付いて、また……目を覚ましてくれるかもしれない。この姿は生きていた時のままだ。ディーネは眠っているだけだ。…………彼女を守れなかったから、目を開けてくれず、心臓の音も聞こえない天罰が私に下っただけだ……」
将軍は女神の身体をぎゅっと抱き締めたが、だらりと落ちている彼女の華奢な白い片腕は反応を見せなかった。非常に残念で同情を禁じ得ないことだが、完全に事切れているのだ。たとえ女神の恋人の強い愛をもってしても、彼女を蘇らせることは出来ない。
「誰も貴方を領地へ帰しませんよ。将軍でいることが嫌なら、辞めればいい。でも代わりに私は王に、貴方に何か新たな職を与えるよう強く勧めるでしょう。どうか悲しみに朽ちて、一生を終えないで下さい」
(事情も良く知らない部外者が何を偉そうに言っている。反吐が出る!)
自己嫌悪に陥りそうなのを堪え、私は努めて無表情で言った。説得する側が弱気になれば、相手は納得してくれないからだ。
それでも状況は絶望的だった。将軍は、ただ腕の中の女神を見つめていた。私が熱心に言い募ったところで、話の半分も頭に入っているのか分からない。今の彼が望む声は一つだけ――、愛しいディーネ神の口から零れる声だけなのだ。
「!?」
諦めかけた、ちょうどその時。部屋いっぱいに目を閉じねば耐えられない程の光が広がった。
(誰だ?)
黄金光の中から一歩進み出た足音がした。
一瞬で理解する。「誰」などというものではない。人間であるはずがなかった。私達は――将軍は女神を抱いたままで――、恐れ、本能のままに跪く。
この地に自身が誕生してから経験したことのない、神秘的で圧倒的で形容しがたい力が空気を通して伝わってくる。そして自然に理解した。この御方こそ、伝説の神界におわす最高神に違いないと。
「我が娘ディーネを返してもらおう」
たった一言、神は仰った。
「おお、神よ……」
私は畏怖の感情に支配され、顔を上げることも、それ以上の口をきくことも出来ない。
それでも神には無慈悲さを覚えた。いくらディーネ神の肉親だとはいえ、最高神でも生き返らせることの出来ないだろう亡骸を、この哀れな男から奪っていくのかと。
「……お渡し出来ません。いくら女神の父だとしても。彼女を連れていかれるならば、私の息の根を止めてから奪って下さい。また目の前で彼女を失うなんて耐えられません」
「そなたに、まだ何かを願う権利があるとでも思っているのか? おこがましい男よ。そなたは娘を守ると口では言いながら、みすみす死なせたではないか」
将軍は息を飲む。全てを見ていたらしい神の言葉は正しく、鋭利な刃物のようで、中途半端に関わった私よりも将軍の心を貫いたに違いなかった。
「……それでも、それでも…………、どうか女神を連れていかないで下さい。お願い致します……」
将軍は床に頭を擦り付けたまま、懇願し続けた。愛しい女が亡骸となっても手放せないという、他に類を見ないほどに痛々しい様子を目の当たりにしてしまえば、たとえ恐ろしい最高神を前にしても、将軍が運命に逆らう力添えをしてやりたくなってしまった。
「取るに足りない私からも、お願い申し上げます! 彼には女神が必要なのでございます」
私も床に額を付け、真心から願った。
「……死の直前、ディーネは全ての力を使い尽くした。その身体から神力を搾り取ろうとしても、もはや一滴すら出てこない。人間の女の死体と同じだ。それでも娘が欲しいと言うのか?」
「欲しいです。彼女が良い、彼女でなくては駄目なのです。神力など要らない。彼女だけが欲しいのです。たとえ彼女が亡くなっているとしても……」
「ディーネは生きている。男が娘を剣で突き刺す前に私が力を飛ばして、娘を助けた。死が娘を連れていかないように。ディーネの身体は『時』を止めているだけだ」
私はハッと気付く。
「……では、もしや戦場で『女神を包んだ銀光』というのは、女神自身とは関係なく最高神の御力だったということでしょうか?」
「そうだ」
「ディーネは生きている! 生きている……!」
将軍は最初理解できないというように呟くと、二度目は歓喜して叫んだ。
「感謝します! 彼女が生きているだけで私は……」
最後のほうは咽び泣きで、声にならないようだった。
「……ディーネは、そのうちに目を覚ますはずだ。
だがフィラルリエットよ、言ったとおりディーネには神力が残っていない。これからは人間と同じように老いが娘を蝕み、やがて美しさも衰えるだろう。それでも娘を愛せるか?」
神は将軍に問う。
「愛します。私は彼女と共に老いながら、生きていきます」
力強い誓いに最高神が頷く。
そして再び眩い光が最高神から発せられた。目を開けていられないが、その御姿が消えていくのが分かった。
「私も昔、デューゼロンの呪いから娘を守れなかった。そなたと同じだ。だからディーネの決定を優先しよう。娘が目覚めた後で、もし人間の地に残りたいと思うならば、その意志に従う」
それが偉大なる最高神が残していかれた、最後の言葉だった。