戦場
黒い何かが霧散し、かなりの疲れはあるが身体が軽くなったのがディーネにも分かった。
今は、あたたかい生命の光が自身の中で鼓動している。
「お分かりですか? これまでは呪いに抑えられておりましたが、これこそ本来の貴女の力です」
タウロスは、当然だという様子だった。
「わたし、行くわ」
「ですが、そのようなお身体で……」
クリスが心配を声に滲ませる。
「でも行かなければいけないわ。ラーゼミンにマルク達を殺させるわけにはいかない」
「女神……」
「ならば私が迅速に貴女をお連れします。背中に乗って下さい。そうすれば戦場に到着するまで、少し休めるでしょう」
押し問答の決着をつけたのはタウロスの、この言葉だった。
*
タウロスは約束通り、かなりの速さで走ってくれた。ディーネはタウロスの背で、ぎゅっと目をつむっていることしか出来ない。付けていたヴェールは向かい風に飛ばされていった。
肌の上を幾筋もの風が滑っていく。一度、風の抵抗に逆らって薄目を開けてみたが、景色は捉える間もなく通り過ぎていく。これでは自分達が今どこを走っているのか、知りようもなかった。ならば、ここはタウロスに任せ、自分は少しでも体力を回復させようと、ディーネは再び目を閉じた。
そこへ、タウロスが静かに話しかけてくる。
「女神。戦場に着いたら、私は他にやることがございますので、貴女に加勢は出来ません。お許し下さい」
「『やること』?」
「はい。恐らく戦場の様子をデューゼロンは近くで見ていることは確実でしょう。奴は、他が争う様を見て楽しむような者です。ですが戦争が終われば、またどこかへ雲隠れしてしまう。あいつを倒す機会は今しかない。私はデューゼロンを仕留めます」
「……戦いを挑むということは、勝算があるのね? 私は貴方を信じていいのね」
「はい」
「では、デューゼロンは貴方に任せて、私はラーゼミンを止めるわ」
ディーネはタウロスの決意を受け入れ、同志として約束をかわした。
タウロスの俊足は、離れた戦場までの距離を一瞬のように駆けていった。
目をつむっていたディーネは戦場が近付いていると、よどんだ気配で察知する。よく見えなくとも、もはや目を閉じてなどいられなかった。次に聞こえたのは怒号と罵声、剣の打ち合う音。汗や土、金属などの匂いが混じり合っている。
「っ、着きました。女神」
「ありがとう!」
「では、また後で」
タウロスによって地面へと降ろされ、彼と別れたディーネは辺りを見回す。
「……マルク……!」
何かに導かれるように、彼女はマルクの姿を見つけることが出来た。
だが、マルクを目指すのはディーネだけではなかった。確実に将軍を屠ろうとする者――ラーゼミンもまた、マルクを発見したらしい。ディーネがいることには気付かないままで。
この距離からでも分かる。圧倒的な殺意をマルクに向け、その手に持つ剣で彼を殺そうとしている。
時は一刻を争う。ディーネとラーゼミンのどちらが早く、マルクの所に辿り着くかが問われるところだ。
ディーネは無意識に自分の神力を使い、マルクの前まで移動していた。と同時に、ラーゼミンがマルクに斬りかかる。
「女……神……」
ラーゼミンの驚愕の眼差しが視界に入った後、ディーネの視界は急速に暗転していく。どこかで金属が――恐らく剣が――転がり落ちる音が、聞こえた気がした。
剣に貫かれたのはマルクではなく、彼の前に飛び出したディーネだった。
崩れ落ちていく彼女の身体をとっさに支えてくれた人がいる。見なくても分かった。マルクだ。彼は、そっとディーネを地に横たえてくれた。
「こんな……、ディーネ」
絞り出すような声で、愛おしい男が言った。ディーネは重い瞼を持ち上げる。マルクの顔が歪んで見えた。
恋人の涙が零れてきて、彼女の頬を濡らす。
「ごめん……なさい」
愛する者を泣かせてしまうことに対し、そしてマルクを一人置いて、先に逝くことに対して、ディーネは謝罪する。
「でも、嘆かないで。やるべきことは……済ませていく……わ」
「今はいい! そのまま動かないでくれ。お願いだ!!」
恋しい男の懇願に応えず、ディーネは首を横に振る。そして最期の気力を振り絞り、片手を天へ翳した。
――――黄金色の光が溢れ出す。最初は小さく淡く温かいばかり、だが次第に大きく強く激しく眩しく。ディーネは自分の持てる力を全て解き放ち、この世界が豊かになるようにと祈った。
とても温かい。ディーネの身体も小さな銀色の光をまとっていた。安らかな死という迎えが待っている――、もうすぐ生者の手の届かないところへ連れていかれるのだと思った。
「…………見えるか? ディーネ」
マルクの声がする。
「君のおかげだよ。太陽が、ほら、こんなに温かい。この何も無かった荒野にも、草木が蘇った」
「……ええ、マルク。もう私の目は見えないけれど、肌で感じられるわ……」
「君が変えてくれた素晴らしい世界で一緒に生きよう。私は君と――」
彼女はマルクに最後まで言わせなかった。
「……マルク、どうか幸せに……生きて…………」
「っ、ディーネ!」
ディーネは、もはや口をきく気力も残っていなかった。
恋人が強く握ってくれている手に応えることが出来ないまま、彼女は意識を失った。