虜囚①
(そう、だったのだわ)
忘れていた記憶が脳内を駆け巡っていき、ディーネは全てを思い出した。
ゆっくりと考えたいことが沢山あった。でも、今そうしている時間は無い。記憶を取り戻したところで、いまだ文様は消せておらず、神力も使えないままなのだ。今の彼女では、この町を焼く火をただちに消し、人々を救うことは出来ない。
それでもラーゼミンの興味を町の炎上から他へ逸らし、その後も彼と対等に渡り合わなければならない。ただ止めてと訴えても、彼は聞いてくれないようだ。
ディーネは意を決した。彼女は、燃える町を楽しそうに眺めているラーゼミンに近付く。
「もう火は消して下さい。……熱いし、煤まみれです」
声を震わせないように気を付けて言えば、ラーゼミンは意外にも気持ちを動かされたようだった。
「いいだろう。女神に真っ黒にする趣味は無い」
男は何かを大きく払うように動く。
片手を一振りしただけで、辺りを飲み込もうとしていた炎が収まった。
「……!!」
(これが神力を扱うということなのね。彼が本気になったら、今の私では敵わない)
ディーネは、怯えている人々や燃やされて倒壊した建物を悲しい気持ちで見回した。
(このままでは、彼によって世界が破滅の危機に晒されてしまう)
不吉なことを考えてしまい、恐れで身体が震える。
「では、そろそろ我が城に戻るとしよう」
動けないうちに、背にラーゼミンの片腕が強く回された。
瞬間、周りの景色が変わっていた。気付けばディーネとラーゼミン、そしてクリスは廊下に立っており、目の前には頑丈で分厚そうな扉がある。
ラーゼミンはクリスに向かって、温度の無い声を出す。
「お前は下がっていろ」
「かしこまりました」
命じられたクリスは一礼すると、向こうへ行ってしまう。
(クリスさん……)
ディーネは、彼女を置いて簡単に去るクリスを見て、再び喪失感を覚えた。だが彼の背中を目で追うことはラーゼミンの機嫌を損ねてしまいそうで我慢する。
クリスから顔を背けている間にラーゼミンは、近くの部屋の扉を開けていた。
「入れ」
抱き込まれているので逆らえずに入室すると、ようやく彼から離れることが出来た。
中には使用人らしき女性が数名いて、床に叩頭して控えていた。それを目で確認したらしいラーゼミンは、部屋を出て行こうとする。だが去り際に、
「また後でな」
と、言われた時は唖然とした。
(戦場へ戻るのではないの? 神力を用いれば、戦況なんて、すぐに覆せると驕っているの? どうして戦争を終結させるより先に私を構うの?……)
部屋に残されたディーネには分からなかった。戦場でずっと指揮を執るのだろうと思っていた人物が、何故ここに留まるのか理解できない。
そうする間に、使用人の女性に声をかけられた。
「お湯の支度が整ってございます」
「……ありがとうございます」
他に出来そうなことも思い付かなかったので、言葉に従う。ドレスの着脱はディーネだけでは難しいので手伝ってもらったが、その後のことは断った。だが使用人たちは、なかなか納得してもらえない。
「ご遠慮なさらず、私共にお任せ下さい」
「いいえ。周りに人がいると落ち着きません」
きっぱり言えば、女性達は恐縮したように渋々引き下がった。
「……女神様のご命令ならば、我々は隣室に控えていることと致します。替えの湯は、こちらに沢山ございますので、御自由にお使い下さいませ」
使用人もいなくなると、ディーネは身に付いた汚れを落とし、お湯の張った大きな盥の中で息をついた。湯の温かさが束の間の休息を彼女にもたらす。
けれど今考えておかなければならないことは、山とあった。ぼんやりしている時間は無い。そのうち、またラーゼミンが戻ってきてしまうからだ。
(私だけで頑張らないと)
これから自分の知恵と勇気だけで、踏ん張らなければならない。己の手に多くの命運がかかっている気がした。足がすくむ思いだった。
だが、不意に優しい眼差しを思い出す。
(……シア様。そうよ、私は神界でも独りじゃなかった。
母上やファロ以外にいたのだもの。記憶を失くしたとしても、私を思ってくれる存在が)
弱音を吐く心がみるみる力を取り戻すうちに、ふと思う。
(母上は分かっていたのではないかしら。私がデューゼロンによって二つの呪いをかけられていたことを)
優しき母ダイヤはディーネの頭を撫で、よく慰めてくれた。
クリスやウォールデスがディーネの肌に触れるだけで文様の存在を感じることが出来たというならば、ダイヤだって呪いに気が付いていたに違いなかった。
「あっ!!」
衝撃が身体を走る。
(父上が私の頭を撫でなくなったのは、いつから?)
よくよく考えれば、それはディーネがデューゼロンと戦って以降のことだった。
(母同様、父上も私にかけられた呪いのことを知っていたのだわ)
ダイヤ以上に多く強い神力を持ち、聡明で洞察力のあるホセが娘に付けられた文様に気付かないはずがない。
(父上は、どのようなお気持ちだったのかしら)
あの時デューゼロンが言ったように、娘の身体に刻まれた呪いを思い、長い間ひそかに苦しんだだろうか。
(ごめんなさい、父上)
ディーネは父の内なる苦悩を知らず、神界を追放されたことを恨んだ自分を恥じた。
そしてまた――、きっと賢者ファロも彼女の呪いを理解していたのだろうと思った。彼は、この世のありとあらゆることを知っているから、ディーネの父母に協力を求められたに違いないからだ。
(……父上たちは私の未来を見通していて、わざと私を神々から孤立させたのかしら。そして私を人間の地へ落とされたの?)
誰にも解けない呪いだけれど、それでも彼女を信じ、彼女自身に運命を切り開かせる為に。
ならば今、自分に出来ることは何なのか――?
(私の心が伝わるように、落ち着いて彼と話そう。それしか方法は無いわ)
心が定まり、湯から上がる。用意された布で身体を拭っていると、音を聞きつけたらしい使用人たちが戻ってきて、見慣れない真白のヴェールとドレス、そして手袋を着けさせられる。ディーネは、その装いに違和感を覚えた。
「こちらのヴェールは……何でしょうか?」
「ご命令ですので」
答えて、女性たちは目を伏せる。
使用人は命じられた仕事をしているだけで、事情は知らないのかもしれないと思う。仕方なくヴェールを付けていると、
「ルディス様、いけません!!」
近くの廊下で騒ぎが起きているらしく、誰かがルディスという者を制する大声が聞こえた。続いて、ディーネのいる部屋の扉をこじ開けようとする音がした。
「ここを開けなさい! 逆らうことは許しませんよ! 私はルアル様に次ぐ権力を持っているのですから!! 今すぐ私を女神に会わせなさい!」
「おやめ下さい、ルディス様!」
「どうかルディス様、こんなことは許されません!」
数人がルディスという女性をなだめようとしているらしい。部屋の外は大騒ぎだ。だが扉には鍵が掛かっていて、ルディスは入ってこられない。
「っ、何をするの、離して!!」
ルディスの悲鳴だった。だんだんと彼女の声と騒音が遠ざかっていく。
「ルディスさんとは何者なのですか? 彼女は、どこへ?」
ディーネは周りの使用人に問う。
「……女神への接触は限られた者にしか許されておりません。ルディス様がルアル様専属の尊い占者であったとしても、禁を破ってしまったからには恐らく――」
使用人は口をつぐんだ。
「駄目よ! 貴女たちの主人に伝えて下さい、『ルディス様の助命を女神が強く望んでいる』と」
(今は、こうするしかないわ)
「それは……。かしこまりました、お伝えはしてみましょう」
使用人たちは頷き合い、言伝することが決まった者だけが部屋を出て行く。そして使用人を取りまとめている者が言う、
「さあ、女神。準備が整いましたので、参りましょう」