王城⑫
クリスと話す時間を持つことが出来た翌日。ディーネは部屋の暑さで目覚めた。どうやら今日の気温は高くなるらしい、と思う。この世界の気候は絶え間なく移り変わって安定しないことは、とうに彼女も知っている。
よく眠ったはずなのに疲れが取れた気がせず、ぼうっとしていると、寝台の上にきたタウロスに冷たい舌で顔を舐められた。くすぐったさに微笑が零れた。
お返しに、うっとりと犬が目を細めるほど撫でた後で彼女は起き上がり、薄物を羽織る。それから、いつものように何気なく窓から外を確認した。
「っ!」
驚いたことに、そこに立っていたのはクリスではなくザクタムだった。
(まさか本当に彼が私の護衛に来るだなんて! 面倒じゃないのかしら。私のことなんて放っておいて、休めばいいのに!!
……顔は笑っているみたいだけれど、内心ではクリスさんを私の護衛から外す相談が上手くいかなかったことを怒っている気がする)
ディーネが思わず窓枠から手を離し、ずざざざーっという音を立てるように後ずさった瞬間、ザクタムの顔が険しくなったのが視界の端に見えた。
(ひっ。怖い……!)
このまま忘れて彼を無視したい誘惑に駆られたが、後が怖いので仕方なく再び窓に寄る。申し訳ないと思っているという姿勢を意地でも見せておかないと、ザクタムに何をされるか分かったものではないと思った。
恐る恐るディーネが先程の位置に戻ると、ザクタムは明るい笑顔を見せる。ぎこちない微笑みを彼に向け、ディーネは務めを果たしたということにして、会釈の後で朝の身支度に移った。
**
その日は一見、普段と変わらないように始まった。ただ、詰め込みすぎは良くないというように方針が変わり、女官長の承認もあって午後に一度は城庭を散歩することが許されるようになった。
(…………今ザクタムさん、私に付いてきているのかも)
気分転換になるので外には出たいが、しばらくザクタムには会いたくないというのが彼女の本音である。遭遇————というよりも、向こうから接触してきませんように、という願いを込めて女官二人と離れないようにして庭の美しい紅薔薇を堪能する。
「あっ」
その時、ディーネの前に現れたのはザクタムではなく、別の人物であった。
(確か名前は……、ライ=ロードナーだったわね。ロードナー家の次男で、髪が短いほう)
王の一癖ありそうな護衛たちの名については女官から既に確認してあったので、自信を持って挨拶が出来そうであった。
「ご機嫌麗しく。ロードナー様」
「ああ、家名を覚えてくれたんですね。でもライと言ってもらったほうが嬉しいな。試しに今、そう呼んでみて下さい」
「……そのように仰っていただけて身に余る光栄ですわ。考えておきます」
ディーネは、にこりとして切り返す。だんだん男達への対処法が身についてきた気がした。
彼女が慌てなかったのは意外だったのか、ライは愉快そうな表情になる。
「深く考えずに親しく呼んで下さればいいのに……。
ところで今日はレオール様から貴女に重要な伝言がございまして、参りました」
「陛下から伝言ですか?」
見るからに優秀そうな護衛の一人を使うなんて、王は自らの危険を顧みないのだろうかと不安になりながら、ディーネはおうむ返しに呟いた。
その間にロードナーは女官たちのほうに目をやって、にこりと笑う。すると彼女達は見えないところまで下がっていってしまった。どうやらロードナーの視線は女官に席を外すよう、促したものだったらしい。
「そこの東屋で座って話しましょうか」
男に誘われるが、嫌な予感を覚えたのでディーネは言葉を濁し、気乗りしない気持ちを暗に見せた。
「失礼ですが私、すぐに午後の予定がございますので、あまり時間が取れないのです」
「おや。か弱そうな女性に無理をさせ、気が休まる暇も無い状態だなんて、捨て置けませんね。俺のほうから女官長に話をつけておくので大丈夫ですよ」
そう言われてしまえば、顔に苦笑を滲ませて彼女は了承することに決めた。
「分かりました。参ります」
「そうこなくては。物分かりが宜しくて助かります」
にこにこ笑う様は、どこかザクタムに通じるところがある男だと彼女は思った。
(それで無邪気な笑顔に油断していると、いきなり酷い目に遭わされるのよ。気を許しすぎないほうが身の為だわ)
それから二人は、円柱と四角錘の屋根で出来た白い石作りの開放的な外観の東屋に行き、同じく白石を四角に切り出しただけの冷たい椅子上に腰を下ろす。すぐ近くには小さな池があり、涼しげで眺めの良い場所である。
(どうして、この男が伝言役なのかしら。護衛なら常に王の側にいなければならないのでは?)
そんなディーネの疑問を顔から読み取ったらしいライは、
「今日はレオール様の護衛を多く付けるよう調整しましたので、ご心配なさらず」
と、言って微笑んできた。そして、ディーネの耳元で秘め事を伝えるかのように囁いてくる。
「そう身構えないで下さい。こうして貴女に会いにくる為に俺は弟と争ったんだ。あいつより貴女への愛の強さが勝ったおかげで何とか勝ってきたんですよ。ふふ、弟も貴女と二人きりで話したくて仕方がなかったみたいです。フロイとは行動を共にすることが多いせいか、興味の対象が似る傾向があるので。しかし勿論、俺はレオール様や弟以上に貴女に夢中です。……この栗色の柔らかい彩どりを持つ、優しげな貴女が欲しい」
「………………それで陛下の伝言というのは、どのような?」
「残酷な女だ、この熱い思いを無視するだなんて。俺では貴女の相手としては不足ですか?」
意図の読めない彼の瞳は、磨き込まれた銀の装飾品のように綺麗な色をしている。
(長く見つめ合っていると、魅了されて彼に心を囚われてしまいそう)
ディーネは言いようのない不安を感じて顔を伏せようとしたが、何故か身動きが取れなかった。どうしても目が彼の瞳に向かってしまい、逸らせない。
彼は自分の片手を彼女の頬に添えた。額同士がくっつけられる。彼の顔が近い。
(接吻してくれるのかしら。そうだったら良いのに。彼の唇で熱く翻弄されたい……)
急速に溢れていくライへの恋慕の情で胸が乱されて苦しくなる。もはや彼のことしか考えられず、他はどうだっていいと思ってしまう。
「そう、そのまま俺のことだけを見続けていて下さい。……参ったな、何て顔だ。それに、この赤い唇と甘い香り。本当に口付けたくなってくる。
貴女は特別だ。従順になったご褒美に、当家に伝わる昔話でもして差し上げます。俺の先祖は、どうやら神に仕えた尊い神官だったみたいでですね、神によって特別に瞳を銀色に変えてもらったということなんです。『美しい銀の瞳を持つことがロードナー家の当主の証』という熱心な家臣もいる位です。俺は、そこまでは思っていませんけどね。一番上の兄の黒っぽい瞳を欠陥品のように言う奴らは好きじゃない。当主の座に収まるのは最も優秀な長男でいい。失礼これは、こちらの話でした。
さてロードナーの血を引く者は、こう厳しく言われて育つのです――――――真正の銀の瞳は『銀の宝飾』のごとく他人を惹き付け、『銀の鏡』のごとく相手の本心を映し出し…………」
神というライの言葉で、頭を殴られたかのようにディーネは正気を取り戻していく。
「————そして最後に『銀の刃』のごとく、敵を斬り付けて屈服させる。……とでも?」
続きそうな言葉を引き取って言ってやれば、ライは瞳を見開かせた。
「言い回しは少し違いますが、ほぼ正解です。
驚いた。普通は男でも女でも、この銀の瞳を前にすれば自然と膝を折るものなのに。どうやら俺は貴女を侮っていたようだ。本気になって銀の瞳の効力が通じなかった相手は、女性では母上を除いて貴女だけですよ」
話すライの手の力が緩んだ隙に、ディーネは彼から身を離しながら言った。
「陛下の側にいる私が怪しくて、あの御方に近付いた事情を白状でもさせようとなさったのでしょう?」
「それもお見通しですか。まったく、聡明な女性だ。
一応、俺もレオール様の忠実な部下なので、警戒は怠れないのです。今回の件は、そういうことで見逃して下さい。
しかし俄然、貴女に興味が沸いてきました。私のことだけを好きになってくれたら、貴女とならば婚約しても面白いかもしれないな」
「私のほうは、ご遠慮しておきます」
相手の心に響くことを願って、はっきりとディーネは断った。
(この男に「興味がある」と言われても嬉しくない……)
「そうやって断言しないほうが宜しいかと。未来のことなど、誰にも分りませんから。女性の心は移ろいやすいものだ。
ふむ、貴女の護衛も待ちきれないようですし、今日は退散することにします。
ではディーネ嬢? レオール様だけでなく我々のことも楽しませて下さいね。今後も貴女の動向は見守らせてもらいますよ」
最初から、王の伝言など存在しなかったのだろう。ただディーネの素性を探る為だけにライは来たことが確定した。
「いつまで他の男のことを考えているんですか。こんなに近くに俺がいる時に?」
考え事をしていた彼女はザクタムの声に、はっとする。
「話す内容が届く距離まで近寄ると、ロードナー殿に目で牽制されたので近付くことが出来ませんでした。顔を突き合わせて、随分お楽しみの様子でしたね。俺の時は、もっと抵抗なさっていた気がしましたが。貴女の態度の違いには傷つきました。慰めてもらえるでしょうね?」
「!!」
休む間も無く、ライの次はザクタムが接近してくる。
(どうにかして彼の矛先をかわさないと!)
「落ち着いて下さい。この暑さで苛立っているのではないですか。もっと涼しいところで休まれてはいかがでしょう」
東屋の柱と柱の間をすり抜けながら、ディーネは気軽さを装って言った。
「確かに護衛として外で突っ立っているのは暑くて嫌になります。それにロードナー様と貴女の密会が終わるのを待つ間も、はらはらして気持ちまで熱くなってしまいました。こういう時は女性の水浴び姿でも見たら涼しくなりそうだ。お嬢様さえ宜しければ――――――」
「嫌ですからね!!」
ディーネは皆まで言わせずに叫んだ。そしてザクタムを置き去りにして、女官達の待つ場所に戻ろうとする。
途端、後ろから笑い声が聞こえた。
「誰も、貴女の裸体を見せろだなんて言っていません。たまには美術鑑賞でもしようか、という話です。絵画で女性の水浴びは、よくある題材の一つなんですよ。例えば月の女神が湖で水浴びをする光景を描いた作品とかが有名ですね。
でも、お嬢様が美しく貴重な水浴び姿を覗かせてくれるというなら、喜んで見ま――――――」
「もう! 戯言は程々にして下さいっ」
からかわれたと分かったディーネは顔を赤くして、余計に腹を立てた。
それからも、待機していた女官たちの姿を遠くに見つけるまで、彼の笑い声は続いた。
**
「今日は疲れたわ……」
夜になり、夜着に身を包んで椅子に座ったディーネはタウロスを膝に置いて撫でながら、ため息を吐いた。
女官は控えの間に下がって、もう休んでいる。
「ロードナー様とザクタムさんの、二人の相手をしなければならなかったのよ? しかも部屋に戻って貴方に慰めてもらおうと思っていたのに、貴方は肝心な時にいてくれないのね。今日は、どこに出かけていたの? その可愛らしさでフィラルリエット家の人達ばかりでなく王城の皆さんの心も掴んでしまったみたいだけれど。
特に私が部屋にいない間は退屈でしょうから、人のご迷惑にならないなら自由にしていいけれど、どうか私のことを忘れないでいてちょうだいね」
と、犬に訴えても、小さな生き物は眠そうに丸くなっているだけで反応しない。
ディーネ自身も心身共に疲れていたので、もう蝋燭は一本の灯りだけを残し、他は消してある。ゆらゆら揺れる炎の周囲は明るいが、部屋の闇は濃かった。
そんな静寂とした場で、ディーネの前に女官の一人が顔を出す。
「ディーネ様。陛下がお見えですが」
「え? このような時間に?」
彼女は急いで薄物を上に羽織って、王を出迎える。
「遅い時間に済まない。もう眠っていたか?」
「いいえ、大丈夫です」
「……少し顔が見たかったんだが、色が悪いな。もう俺は行くから、ほら寝ろ」
「?」
何故かレオールに背を押され、彼の目の前で寝台に横たわる羽目になった。
王によって身体の上からシーツまで掛けてもらい、恐縮してしまう。
けれど、ずっと彼女の胸の内でくすぶっていた問いは、耐え切れずに唇まで上ってきた。
「陛下……………」
「ん。何だ」
優しい手付きで額にかかった毛を横に払われる。
おかしな状況だが、細められた青の目に見下ろされていると、心は平静さを取り戻し始めた。
「その……、まだ戦は本格的に始まっていないのですか。それから…………将軍閣下は、ご無事ですか?」
「ディーネ。もしかして、お前は……」
レオールが苦しそうな顔をする。その理由が理解出来ずに、ディーネは首を傾げた。
「陛下?」
「いや、何でもない。お前は何も心配するな。マルクのことも怪我の報告は受けていないから、安心しろ。……お休み」
「お休みなさい」
マントを翻して王が去っていったほうをしばし見やっていたディーネは、やがて眠気に誘われて瞼をゆっくりと閉じた。




