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 立ち上がってから、クリスは「あ……」と言った。何かを思い出したらしい。


「申し訳ございません、失念しておりました。先ほど閣下から早馬が来まして、貴女に伝言がございます」

「どういった内容ですか?」

「『明日から休暇が取れたので、急ですがフィラル城に行くお心積もりだけお願いします。貴女の身の回りの品はメイドに準備させるので、心配要りません』、とのことです」



「まあ、明日ですか!?」


 本当に急だった。せっかく目当ての本の在処(ありか)が分かったかもしれないのに、明日出掛けてしまっては満足に読めやしないと、がっかりする。


「もしや明日は、その本を読まれるご予定だったのですか?」

 気落ちしたのを敏感に察したらしいクリスの視線が、ディーネの手元に落ちる。

「ええ。この辺りの本を読もうかとも考えていたのですが、仕方ないですよね。諦めます」



 彼女が苦笑いをすると、彼は、

「貴女が望まれるなら、部屋からの持ち出しも閣下は許可されるのではないでしょうか。私から聞いてみましょう」

 と、言ってくれる。

「あ! いえ、でも、題名を聞かれたら答えにくいですから」

「確かに普通の女性が好むような内容ではありませんが、しかし…………」


「それもあるのですが、これは…………将軍様のお父上が亡くなられた戦争についての本ですから。このことを私が調べていると知られたら、どう思われるかなと考えてしまって」



(それを言うなら、王に対しても同じだったのよ。王だって、この戦争で大事な方を亡くしたかもしれない。なのに私は、彼の気持ちには重きをおかずに「戦争について教えろ」と頼んだ)


 改めて自分の振舞いを省みれば恥ずかしく、落ち込む。



「なるほど。ですが、その点については深く気にされる必要はないかと。もう閣下は前を向いていらっしゃいますから。でなければ、こんなにヒュレイア戦争に関する資料をお集めになりません。閣下は既にあの戦争のことを密に分析・研究されており、そして万全を期して次の戦いに臨まれるでしょう。……私も、いいえ、私だけではなくザクタムや……閣下に仕える誰もが最善を尽くして、あの御方の助けとなれるよう努力しておりますし」



「確かにそうかもしれません。けれど皆様は責任ある御立場の方々ですから、悲しむ時間すら満足に持てないのかもしれませんね。……なんて、私のような余所者が簡単に言っていいことではないですが」


「女神……いえ、お嬢様。貴女はとても優しい御方です。尊い貴女の、その慰めの言葉をもし聞くことが出来たなら、皆の空虚な心がどれ程まで癒されることか。この場で私一人が耳にしているだけとは勿体ない」


 門番は、大真面目に言う。



「クリスさん! 私は出来損ないの女神なんです。そんなに畏まらないで下さい。あまり期待されると、私が失敗して期待を裏切ってしまった時が怖いというか……」

「出来損ないとは御冗談を。私は貴女ほど強い力を持った方を見たことがありません」

 クリスの口調は断固としていた。



 けれどディーネは、余計に情けなく眉を寄せる。

「その『強い力』というのを実は…………、使えないから困っているのです。原因は貴方が言われた『惑いの術』なのかしら。出来れば貴方の見解を伺いたいのですが」

 ディーネは、クリスの彼女に対する信頼に信頼で応えることにして、秘密を打ち明けた。




「確かに、あの緻密な術の構図なら貴女ほどの御方でも力を封じられることがあり得そうですね」


「ねえ、クリスさん。貴方が見たその構図とは、どのようなものだったのでしょうか?

その術が掛けられているせいで、近いうちに私が死ぬことになるとかは……無いですよね?」


 じわじわとだが怖くなってきて、ディーネは消え入るように尋ねる。



「命を奪うようなものであれば、失礼ですが既に亡くなられていると私には思えます。ですので、命を取るまでの危険を及ぼすものではないと考えます。

 ああいった構図については私も以前に本で(かじ)った程度しか知らないのですが、あの文様が貴女の力を誰の目からも隠しているということだけは断言出来そうです」



「その文様は私には覚えがないのですが多分、他者によって(ほどこ)されたものだと思います。近頃になって、誰かが恐らく私を呪う声を思い出しましたので」


 呪いという単語を物騒に捉えたらしいクリスの気配が、また元のように鋭くなる。

「いつから力を使えなかったのかをお聞きしても?」



 答えたくない質問だったが、観念して彼女は重い口を動かした。


「……もうずっとです。子どもの時から、使えたことなんてありませんでした」

(ずっと劣等感に(さいな)まれていました)



 ついに呆れられたかなと思って、相手の顔を見上げる。しかし彼は「そんなに長く……」と言って、平生の冷たい無表情を厳しいものに変えた。


「お嬢様。まだ貴女に封印の記憶が無い原因の断定は出来ませんが、一つ言わせて下さい。もしかしたら、この惑いの術は対象者の記憶すら(かす)ませているのかもしれません、とだけ。だから貴女には力を封じられた時のことを思い出せない――――と仮定すると、全ての筋が通るので」



 そう言われるとそんな気がしてくるが、力や術といったものに今まで無縁だったディーネには、まだ判断材料が欠けていた。

 だから、彼女はクリスに知っていることを話してもらうしか出来ない。



「クリスさん。文様というのは、どういった形でした? 出来れば書いてみせてもらえると、手掛かりになるかもしれないのですが」

 ディーネが頼むと、クリスは近くの机上から白い紙束とペンを取り上げる。それらの文具は走り書き用に常に置いてあるものらしかった。



「こんな形です。あまり細かくは()えて書きません。これは呪いですから、具体的にしてしまうだけで害をなします。とても禍々しい文様で、一瞬見ただけなのに今でもありありと思い出せます」

「こんな物が……私に……」


 彼女は一目見て、言葉を失う。彼が紙をペンで塗りつぶすようにして描いたのは、棘の有る黒く細く長い爪のような物が何重にも絡む絵だった。

 眺めているだけで嫌な気分になる、邪に満ち満ちた構図だ。



「この長い物が身体に巻き付いて、貴女の力を押さえ込んでいるのです」

「……ねえ、クリスさん! 貴方は、この図書室を使っているのですか?」

「ごくたまにという程度です」


 クリスの返事に、ディーネは畳みかけるように尋ねる。


「この部屋には、こういった秘術に関する資料はあるのでしょうか? もしあるなら私、早急に調べたくて!!」

「恐らく、ここには無い気が致します。ですが、この図書室に膨大な資料があることは確かなので、中には存在する可能性も否めません。私も一緒にお探ししましょう」



 ディーネは自分の身体に刻み付けられた恐ろしい文様の存在を知ってしまった後では、ヒュレイア戦争や神話についての資料探しは二の次にしてしまいたくなるほど動揺していた。

 それに、言い訳になるかもしれないが、この呪いさえ先に解けてしまえば自分に神力が戻るかもしれず、そうすれば困っている人間に手を貸すことが出来るようになるかもしれないと思うと、気が急いてしまう。



「宜しくお願いします! あ、でも、貴方は今日、お休みなのではないですか? ここまで付き合って下さって、本当にありがとうございました。もうクリスさんは自由にしてもらって全然構いませんよ」



 気を使っただけなのに、門番は追い払われていると勘違いしたのか、一度ぴくりと眉根を寄せた。



「貴女のお身体に、あのような文様が付けられていると知りながら、おめおめと休めません。

私に対する御心配は無用です、お嬢様。元より私の身体は丈夫に鍛えられておりますので。さあ、こちらです」


 クリスは胸に片手を当てて頭を深く彼女に向って下げると、彼女が口を挟む間も無く、静かに先導する。ディーネは慌てて、後を追いかけた。


「あるとすれば、魔術関係の棚にあると思うのですが」

「分かりました。頑張って探しましょう!」



 彼に連れていかれた部屋の片隅の棚まで来ると、ディーネと彼は分担して本を(めく)り始める。



 作業としては単純で、次から次へと本を棚から引き出して捲っては戻すの繰り返しである。


(………………どこにも無いわ)

 時間ばかりが過ぎていくように感じた。





 結局、途中に休憩を挟みつつ頑張っても、やはり秘術についての記述がある資料を見つけることは出来ずに夕方になった。

 今日はここまでにしようということにしたが、解散する前に、

「まだ希望はあります。フィラル城にも当主用の大きな図書室があるのです。閣下に許可をいただければ、書物を探すことが出来ますよ」


 と、クリスが教えてくれる。


「そうですね!」

 彼女は思わず両手を打ち合わせた、のだが。


(向こうに行ったら図書室を使用させてもらえる時間って、あるのかしら……)


 よくよく考えてみると、フィラルではマルクが鬱陶(うっとう)しいほど彼女に構ってきそうなのであった。

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