雨音
ディーネが赤色のドレスに着替える手伝いを終えると、メイドは温かいお茶を淹れる準備を始めた。
「お嬢様。生憎の雨ですが、今日は何をなさいますか?」
カミラの問いに、窓辺にいたディーネは考える。
「そうねえ。あんなに地面が柔らかくなってしまっているのでは、門まで散歩には行けないし。靴を汚してしまう」
庭を見下ろせば、濡れて黒ずんだ地面が水たまりを作っていることが知れた。
(出来れば時間は無駄にしたくない。 門には猛犬がいるから、外には出られないわね。ということは、この建物内で出来るのは情報収集になる。でも私が知りたい情報を得る為には、どうしたらいいのかしら。物知りのカミラから、また話を聞くのもいいけれど……)
うーんと考え込んだところで、名案が浮かんだ。
「書物! そうよ、書物が読みたいわ。昨日、貴女は言っていたわよね。使用人専用の図書室があるって。私がそこを利用するのは駄目かしら。
…………でも、やっぱり駄目よね。私は皆と違って、働いていないのだもの。何もしていないのに、ずっと服や食べ物や部屋を貰っていて最低。その上、見返りも無く書物を読ませてもらおうだなんて————」
自分で自分が嫌になって俯くと、カミラが慌てた顔をする。
「お待ち下さい、お嬢様! 大丈夫ですとも。貴女が望まれるなら、旦那様は図書室の使用を許可して下さるでしょう。勿論、無償で。あの御方が貴女を働かせることなどあり得ません。お嬢様は旦那様にとって、唯一無二の大切な女性なのですから」
「大切、ね。そうならば図書室のこと、将軍の見送りがてら明日の早朝にでも頼んでみましょう。出掛ける前に邪魔にならないといいけれど。一言頼んで、断られればそれで終わり。これなら、そんなに向こうの時間を取らせないわよね?」
「はい! では今夜は早く休まれて、明朝は早く起きましょう。きちんと支度していただかないと、部屋の外にお出しすることが出来ません。淑女が薄着で出歩く行為は許されませんから」
ディーネはカミラの言葉に従う。
ぽつぽつと雨音が、部屋の中に響いていた。
**
翌日は天気が回復しそうだった。雲一つない夜明けを、ディーネは玄関の外に佇んでカミラと共に見ていた。
「ディーネ嬢?」
そうやって驚きの声を発したのは、扉から出てきたマルクだ。
「お早うございます」
「何故ここに……」
掠れた声で、彼女が立つ理由を問われる。彼の目は、まるで彼が望む言葉を待っているかのように真剣だった。
「貴方のお見送りをしたいと。それから、お願いがありまして」
「っ、やはり見送りなのですか! たとえ貴女の気まぐれからの行為でも、私は舞い上がってしまいそうだ……。ごほん、貴女のお願いというのを何なりと言って下さい。絶対に叶えて差し上げます」
好意的に促され、ディーネは要望を口にした。
「使用人の方々用の図書室を、私にも使わせていただきたいのですが」
「図書室? それは構いませんが……、貴女になら当主の図書室の使用を許可しますよ。その部屋は数少ない者にしか使用を許していないので、静かに探し物が出来ると思いますし」
「貴方の図書室、ですか?」
「ええ。貴重な本も有り、蔵書数も使用人専用の図書室より多いので、お探しの書物が見つかること請け合いです」
それは抗い難い申し出だった。蔵書数が多いことによって、目的の達成が早まるのではという期待が増す。彼女は、戦争のことや神々と人間の関係について調べたかった。決して、娯楽としての読み物を求めているわけではない。
「とても嬉しいです。では、貴方の図書室をお借りしてもいいでしょうか?」
「勿論どうぞ。鍵は私の許可を得たと言って、いつでも執事に開けさせて下さい。残念ですが私はもう行かなければ」
「お引き止めしてしまって、すいません。どうぞ、お気を付けて」
「!! 行って……きます」
(どうして、そんなに嬉しそうな顔をするの?)
はにかんだ彼を見つめたが、その疑問を解決する間も無い。マルクと男達は出掛けていった。
**
ディーネはマルクを見送った後、朝食を取る為に部屋へ戻った。食べ終わってお茶を飲み干すと、メイドが「さあ、お待ちかねの時間です」と言って笑う。
カミラの後に付いて階段と廊下を通り、執事が立つ扉を前にした。
「お嬢様、どうぞお入り下さい」
そう老執事に言われ、カミラの笑顔に見送られて、ディーネは中へと単身で進む。
「……凄い」
そこにはファロの所有には劣るが、大した量の蔵書が鎮座していた。ここまで集めるのに、フィラルリエット家はどれだけの財を投げ出したのだろうかと思う。
(神の英知にも迫る勢いね、ここは。……っと、そんなことより情報になるものを探さないと)
『神話』『戦争』という文字を頭の中で目安にして、本棚の間を歩いていく。部屋が広いので、だんだん自分が棚の何列目に来たのか分からなくなってきた。これでは本を読みかけで元の所に戻したら、意識して覚えておかないと後日になって位置が知れなくなるかもしれないと思う。
「あっ、『ヒュレイア戦争に関する考察』って……。これかしら? あら、あっちの棚には『神話と神々』ですって!」
まるで光が当たったかのように、ぱっと同時に本が見つかった。よくよく見れば、ヒュレイア戦争についての書物は棚一本の一面を埋め尽くすほどある。
それに対して、神に関わる本は二十冊位しかない。これにはフィラルリエットの代々の当主の、神への無関心が窺えるようであった。
「……。それにしても、ヒュレイア戦争というのがカミラの言っていた戦争なのかしら」
棚から本を一冊引き出したディーネは立ったまま、ぱらぱらと頁を繰ってみる。すると、ある一節が目に付いた。
「あっ。『……この時、敵将ラーゼミン・ルアルは恐らく……』!
このラーゼミンって記述があるということは、やっぱりヒュレイア戦争というのが……、っ?!」
その時に、彼女が自分の背に感じたのは冷たい視線。がばりと振り返ると、至近距離でクリスが立っていた。
「貴女は一体何者なのですか?」
「……っ!」
純度の高い紫水晶のような瞳が、ディーネを問い詰める。
「ある日、いきなり現れた『閣下の大事な女性』。僭越ながら、警戒して見張っておりました。すると、その女性の興味は可愛らしい物へではなく、何故かヒュレイア戦争に向かっている。——————私が不審に思っても、不思議ではないですよね?」
怯えた彼女の手から本が滑り落ちそうになる。それを押さえようとして、クリスはディーネから目を離さないまま片手を前に出した。
「!!」
ほんの一瞬、触れ合った両者の指先。
クリスは、彼の身体に雷電が走ったかのような顔をして、素早く彼女から距離を取る。
「?」
どうして、そんな反応を彼にされたのかディーネには分からない。
「あ…………、どうして、こんな所に…………」
確かにそう呟いて、その場でクリスは叩頭した。これでは、まるで彼女に頭を下げているように見える。
「大丈夫、ですか……?」
彼の傍に寄って、ディーネは膝を折る。
「お許しを…………」
「え?」
「……無礼を致しました」
「無礼って、貴方が私に、ということですか?」
「はい」
一変してクリスが畏まる態度を見せたので、彼女は頭が混乱してきた。こんな恭しい扱いは生まれてこの方、他者から受けたことがないので落ち着かない。
「どういうことか説明してもらえませんか?」
「それは……、今まで私がしてきた醜い行為を全て御前に晒せという御命令でしょうか、————『女神』」
「……っ!!」
危うく叫びそうになった口を、ディーネは手で押さえる。
(声を震わさないようにして尋ね返さないといけない)
「クリスさん、貴方は何を言ってい……」
「見事な『惑いの術』をお身体にまとっていらっしゃるので……、偶然触れなければ気付きませんでした。貴女のその力の大きさは、女神以外には考えられないものです。……私には分かるのです」
この時、もうクリスに対しては誤魔化せないと彼女は思った。
「……『惑いの術』とは?」
「とうに失われた難しい秘術の一つ、と覚えています。術の組み立てには頭を使いますし、力もかなり行使しなければならないので、相当な使い手でないと用いることが出来ないものです」
「そうですか。取り敢えず、立ち上がって下さい」
「……はい」
立ってほしいと言ったのに、クリスは跪くに留めてしまう。
「女神。これより先、私のことは貴女の下僕と見なして何なりとお申し付け下さい。この身は既に閣下の物ですが、それでも貴女の為に出来ることなら何でも致します」
「貴方のその、私への敬虔な気持ちは何かに対する贖罪から来ているのですか?」
「! はい。そうかも、しれません。
けれど私の犯した罪の告白は勝手ながら、もう少しだけ時間をいただきたく存じます」
「貴方に命令を……、していいのでしたね?」
「……御意」
ディーネの言葉を肯定しながらも、クリスの肩はびくりと震えた。
「であれば、まずは立ち上がって下さい。そして、これからは以前と同じ態度で私に接してほしいです。そのように丁寧だと、皆に私が何者だと疑われてしまいます。
……今日のことは『全て』、私と貴方だけの秘密にしましょう。勿論、将軍にも話してはいけません。
私の言いたいことは伝わったでしょうか?」
「はい」
彼は頷き、彼女の命に従って立った。




