儚い約束
「あっ!」
急に身体を持ち上げられたので、上手く体勢が取れなかった。落下を予測したディーネは目を瞑り、咄嗟にマルクの首に縋りつく。
結局のところは回されてきた彼の手に背を支えられたので、事なきを得た。
安堵したディーネが瞼を持ち上げると、すぐ目の前にマルクの整った顔があり、見詰め合う状況になった。
「…………」
こんな時なのに彼女は、カミラとしていた話題を思い出してしまう。
(この男が私を愛している、ですって?)
自分の顔が赤くなるのが分かった。しかも、その瞬間をマルクに見られていた。
彼女は彼の腕の中で、顔を背ける。これ以上、醜態を晒したいとは思えなかったから弱々しくも声を出した。
「お願い。離して……」
「やっと可愛い反応をするようになった貴女を離せるわけがありません。――――こちらを向いて、顔をよく見せて」
耳元に口が近付けられ、甘く囁かれる。
振り向いたら大変なことになる予感がするのに、出来るわけがない。胸の鼓動が速まっていく。
パタン、と静かに扉から誰かが出て行く音がした。はっと見回せば、マルクと部屋に二人きり。カミラが子犬を連れて出て行ってしまったらしい。
ディーネは追い詰められたことを悟った。
「早くこちらを向いて下さい。さもないと――――」
「今向きますから!! ……んっ」
勢いよく振り返ったところで、マルクが彼女の唇をゆっくりと求めてくる。
(何故かしら……)
胸や身体が切なく痺れるような初めての感覚を味わい、ディーネは戸惑った。
(どうしよう。私ったら、誘惑され始めている。馬鹿みたい、心を強く持たないといけないわ)
このまま感情に従って恋する女に成り下がってしまったら、先に待つのは決して明るいものではないと、自分の心に言い聞かせる。人間と神は相容れない存在なのだということは、ディーネ自身がよく分かっていた。
「食事、行きましょうか」
彼は大切そうに彼女をぎゅっと抱きしめると、部屋を出る。彼女を歩かせる気は無いらしい。
(…………もう、いいわ)
今だけは抱きかかえられることを許容しよう、とディーネは思う。
抵抗しても疲れるだけ。だが、次は彼の腕に囚われる前に回避しよう、と決める。
それきり、廊下を移動する二人はしばらく何も話さなかった。
やがて。
妙なことに彼女は気付く。
(これから行くのは食堂よね。今、通りすぎなかった?)
彼はよどみなく足を進めている。十幾つの扉を見送った先に、執事が立つ扉があった。その中にマルクは入っていく。
どうやら、そこも食堂らしかった。だが、以前晩餐に招かれた食堂よりも狭く、卓も小さい。最大八人位しか座れなさそうな大きさである。
ディーネは椅子に降ろされたが、マルクも彼女の隣席に腰を下ろした。
「……向こうに座られないのですか?」
この前は一番の上座に座ったはずの彼が、どうして今日は左隣にいるのか理解に苦しんだ。
「二人きりだから型破りに行きましょう。私は、この位置が良い。こういうことが出来るから」
せっかく一皿目のスープが出てきたのに、ディーネは彼に握られた左手が気になって食べられなかった。
マルクは自分の身体の向きを斜めにしたままで、ずっとディーネに熱い視線を送ってきている。
「私の手を離して、ご自分のスープを食べて下さいませんか」
「つれない方だ。分かりましたよ、恥ずかしがり屋さん」
(一言多い……)
げんなりした彼女を尻目に楽しそうな彼は、やっとディーネの手を解放した。
(早く食べ終わったら、その分早く部屋に戻れるということはないかしら)
わずかな希望で奮い立ったディーネは、せっせと黄金色のスープを口に運ぶ。具は無く、鶏や野菜から取ったらしい味の出汁は見た目が透き通っていて食べやすい。
「美味しいですか?」
見ないようにしていた横から、声がかかる。
「え、はい」
簡素な受け答えをした後でディーネは、はっとした。
(あ。私、彼にお礼を言おうと思っていたのに、色々あって忘れていたわ)
風邪で倒れる前に、そう決めたはずが実行出来ていない。
素直に感謝させてくれない彼の様々な行動もいけないとは思うけれども、それは別の話だ。
軟禁されている身ではあるが、衣食住は充分以上に世話されている。なのに、礼も言わずに食べ物にがっついている自分を省みると、恥ずかしくなった。
彼女は匙を置き、ナプキンで口元を拭うと、身体ごとマルクのほうへ向く。
「あの。お食事、いつも美味しいです。それから、お部屋も最高のものを提供していただいて、何から何までありがとうございます。貰いすぎなほどです。特に身の回りの品は、もう結構です。私、貴方の親切なお気持ちは充分にいただいております。でも最低限以上の物は要りませんので…………、ですから、……」
礼だけのはずが最後は要望という、おかしな言い方になってしまって焦った。
彼は、じっと彼女に注目しているので、恥ずかしくて仕方がない。この場をどう誤魔化せばいいのか、どんどん分からなくなっていく。
(ううんと、カミラが何か言っていたわね。将軍は私の笑顔を得たいとか、どうとか。……笑ってみようかしら、それで少しでも礼になるなら。
でも私の笑顔が彼の目に、無様に映るということもあるかも。私、今、おかしな顔をしていないかしら? ああ、カミラが準備してくれたのだから大丈夫よね)
よしと決意して、マルクと再び目を合わせ、控えめに笑ってみる。
彼は眉を寄せて、彼女には聞こえないほど小さな声で呟いた。
「貴女は……、これ以上私を翻弄して、どうするつもりなのか……」
微笑を一変させたマルクに、ディーネはまた動揺する。
(もしや胸が苦しくなるほど、私の笑顔が醜かったの? それはそれで悲しいわ。
…………とにかく礼は言ったし、もう何も気にしないことにしましょう)
気持ちを切り替えたところで、マルクが彼女のほうに向き直った。
「お礼をしてくれるということでしたら、今度二人で出掛けませんか。貴女の行きたい所で構いません。私が連れて行ける所なら、どこでも大丈夫です。王都の繁華街でも、地方の観光地でも。
私もこれから忙しくなりそうですし、休暇は最大限に利用したいので貴女とどこかに行きたい気持ちです」
言葉の終わりに、どうしてかマルクは少し寂しげに微笑む。
「はあ、そうですか」
(これは願ってもない申し出じゃない? 凶暴な犬が守るこの家より、外に出たほうが逃げやすそう。
それに、ずっと同じ場所にいるから気分もくさくさしているし。
そうよ、ここは便乗してしまおう)
だが別に行きたい場所などないし、他の土地名は知らない。
彼女が唯一知る王都も一部は馬車の窓から見たので、興味は惹かれなかった。王都に出掛けて逃げることを考えてみても、あんな何も無い場所でマルクの目を欺くことは出来そうに無いから止めた。
そこで、ある情景がふと頭に浮かぶ。
「では、フィラルに行きたいです」
「フィラル、ですか?」
「ええ」
彼女はカミラの話していた尖塔を、見てみたいと思った。ディーネとて、美しい物に関心が無いわけではない。もう訪れることはないだろう人間の土地を離れる前に、ひそかな思い出となる景色を眺めてもよいだろうと自分を納得させた。
だが、言った後で気付く。
「あっ、貴方は先程行ってきたばかりでした。他の場所のほうが良いですよね。ええと……」
「いいえ。フィラルに行きましょう。私の生まれ育った土地を、貴女に是非見てほしい」
マルクはすっかり乗り気になっていた。
「馬車で休み休み行くと往復に三日かかりますし、向こうに滞在するとなると、更に日数が増えます。ちょっとした旅行になりそうですね。まさか、貴女から私との旅行の提案をしてもらえるなんて嬉しいです」
にこにこしているマルクとは対照的に、ディーネは顔を引きつらせた。
(しまったわ……。半日だけ王都を見ようと言えば良かった。数日間、この男と一緒というのは大変なことよ。自分の浅慮が憎い)
「チェリカの花畑か森の散策で、私に膝枕して下さいね。無論、その可愛い手で頭も撫でて下さい。レオール様に出来たのだから、私にも出来ますよね?」
(勝ち誇ったように言うのね。そんな日は来ないかもしれないのに)
神界に帰る手掛かり――――『熱に飲まれること』は、既に彼女の手の中にある。あとは誰にも気付かれないように熱を出して、帰る方法を見つけ出すだけだ。そうすれば、ディーネが彼と共にフィラルに行くことは実現しないだろう。
森にそびえる尖塔が湖面で風に散らされるように、フィラルの夢想が心の中から揺らいで消えた。




