食前の出来事
「昼食の前に一度部屋へ帰りましょうか。私がお連れしますよ」
ハッと気付けば、マルクはディーネを自分の片腕に座らせるように抱え上げていた。
「なっ、結構です!! 降ろして下さいっ」
「まだ本調子でないのですから、無理はいけません。ここまで歩くのだって大変だったのでしょう?」
「それは…………」
「歩くのは他に任せなさい。貴女は羽根のように軽いから、私には何の造作もありません」
「そういうことではなくて、貴方に運ばれるのが嫌だから離してほしいのです!」
強く訴えると、マルクは冷ややかな目をして顔を寄せてきた。
「私ではなくレオール様に運ばれるならば良いということですか?」
「国王陛下は関係ないでしょう。とにかく降ろして!」
(顔も身体も近いのよ!!)
「抵抗しても無駄です。暴れれば体力を失うだけですよ。私に甘えることも覚えなさい」
がっちりと腰を掴まれて身動きが取れない。両手をつっぱって足をばたつかせたけれど、拘束は解けなかった。男と女の圧倒的な力の差だ。
結局マルクの言うように、ディーネは余計ぐったりとしてしまった。
(自力で歩くよりも運ばれるほうが、精神と体力の消耗が激しい気がする)
「貴女が私の腕の中にいることが夢のようです。抱き締める度に貴女がいかに華奢で、儚げで美しいかを実感します……」
とか、あれこれ囁かれる彼の戯言を聞き流すうちに、玄関に着く。扉を開けると、泣きそうな顔のカミラと執事が待っていた。
「カミラ。共に来い」
マルクは、さっさと廊下を進んでいく。後ろからカミラが小走りで付いてきた。
(すぐにでも彼の腕から降りたいのだけど、カミラは助けて……くれないわよね?)
ディーネは目に懇願の意を込めてメイドと視線を絡ませるが、やはり首を横に振られた。
(そうよね、相手が雇い主では逆らえないか。
いいわ。客室まで向かっているみたいだし、あと少しの我慢ね)
マルクに抱えられた彼女は、身を固くしたままで時を耐えた。
ディーネの部屋に着くと、マルクはゆっくりと椅子に彼女を座らせながら降ろす。
先に戻されていたらしいタウロスが、ディーネの足元にじゃれついてくる。
「カミラ、私達はこれから昼食をとる。だが、先に彼女を着替えさせるんだ。
この青のドレスは、お前にやろう。二度と彼女に青の物を身につけさせるな。装飾品も小物も一切、青は認めない」
(急にどうしたのよ。青のどこが気に障ったのかしら?)
彼は厳しい口調でメイドに命じると、打って変わった柔らかい物腰でディーネの片手を取った。その甲に軽く接吻を落とす。
「では後で」
「……………………………………はい」
マルクは満足げに笑むと、颯爽と部屋を後にする。
そこで、ようやくディーネは肩の力を抜くことが出来た。
「どうして青を毛嫌いし始めたのかしらね」
「まあ。本当にお分かりではないのですか?」
カミラが驚いたように、こちらを凝視してくる。
「貴女には分かるの? なら教えてちょうだい。私には将軍の考えていることが、ちっとも分からなくて困っているのよ」
「……私見でも宜しいでしょうか? 先程私が下がらせていただいた間のことは存じませんので」
「大丈夫よ。貴女の考えを教えて?」
ディーネは鷹揚に頷いてみせる。
「お召し替えしながら、お話致しましょうか。旦那様をお待たせしてしまうので、急ぎませんと」
メイドはディーネを立ち上がらせて、背中部分の縦に並んだ大きな青いリボンを五つ解いた。これで重いドレスを脱ぎ下ろすことが出来る。ディーネは、身軽になって「ふう」と息をつく。
カミラが大きな衣装棚の扉を開けて、振り返った。
「ご希望はございますか?」
形だけの問いだった。緩く首を横に振るディーネを見て、カミラは一人でドレスを決める。もう定着したやり取りである。
「こちらで宜しいでしょうか」
選び出されたのは、深緑色のドレスだ。何でも構わないのでディーネは頷いて、袖を通した。最後にカミラが背中の紐を締め上げてくれる。
「お話の続きですけれど、恐らく旦那様は……あの御方の瞳のお色が青でしたので、お嬢様が合わせるように青色を纏うことがご不快なのでしょう。本当にお嬢様は旦那様に深く愛されていらっしゃる」
(愛している……、彼が私を? そんなことがあるはずないわ)
――――――『神は人間に関わらないこと』。
神界でホセによって定められた掟を、ディーネは思い出す。
この掟を当然のものとして過ごしてきた身には、人間の男と愛し合うことなど考えられない。今、人間の地にいることだけでも違和感がある。
「仮にそうだとしたら、将軍は私のことをご存じないからよ」
(私が女神だと知ったら、彼のほうも私をそういう対象として見ることはなくなるはず。どう考えても、人間と神の組み合わせなんて変だもの。……私が女神だとは伝えられないけれど。
とにかく、人間と神が婚姻を結ぶなんて、許されないことだわ)
「ご存知だと思いますよ。お嬢様がお優しくて可愛らしい上に聡明で、気取りのない素晴らしい御方だということを。旦那様にとっては、それだけ知っていれば充分ということでございましょう」
「そういうことではなくて。……でもカミラったら私を褒めすぎよ」
「あら。私は常々感じていることを申しておりますのに、信じていただけないだなんて悲しいです」
メイドは手際よく着付けを終わらせると、ディーネの髪も新しい形にして後方に纏め、緑の大きなリボンで結わえてくれる。化粧直しは軽く済ませ、首飾りだけ大粒の真珠が並んだ物から三重の金鎖に変更した。
「真珠も、ここ数日は控えておいたほうが宜しいでしょうから。
終いにお靴も変えましょう。うーん、ここはドレスとリボンに合わせて、深緑色かしら」
ディーネが座って、出された靴を大人しく履き替えていると、扉が叩かれる音がした。タウロスが一声吠える。
「昼食の支度が整ったようですね」
応対に消えたカミラが戻ってくると、何故かマルクと一緒にいる。
「迎えに参りましたよ、姫君。……とても綺麗です。まるで森の妖精のようだ」
そう言うなり、彼はまたディーネを抱き上げた。




