悪夢③
風邪を引いてから六日後。ようやく室内を歩き回る程度には、ディーネの体力が回復した。
彼女がカミラにせがむと、子犬もディーネのところに戻ってくる。ほわほわの白い毛玉を目の前に抱え上げて、ディーネは彼の小さな黒い瞳を見つめた。
「名前、やっと考えたのよ。タウロスなんてどう?」
「ワン!」
元気よく鳴かれたが、本当に自分の名前を理解したのかどうか。
「犬もお気に召したようでございますね」
メイドが言うので、そうだといいけれどと返事する。
カミラはディーネが白いドレスに着替えるのを手伝ってくれ、必要ないと言うのに化粧を施し、髪も結ってくれた。
その後で朝食を自室の食卓で終えると、そわそわしていたディーネは話を切り出した。
「カミラ。そろそろ外に出たいわ。いいわよね?」
「でも、お身体が……」
「もう大丈夫。ねえ、少しだけだから。
ずっと寝床では退屈で。庭を散歩して、身体を温めたいだけなの。寝ているだけじゃ、動けなくなってしまうわ。久しぶりに外でお日様の光も浴びたいし」
別に嘘は言っていない。全部本当のことである。
すぐに屋敷から逃げ出そうとも考えていなかった。まだ神界へ帰る方法も思い付いていない。当面、焦らずにいこうとしている。
とにかくディーネは退屈で、気がくさっていた。寝すぎで、もはや昼間は眠れないぐらいになっている。
「部屋から出たいの。カミラも付いてきて。あ、ほら。近くで、あの花を眺めましょうよ」
ディーネは窓硝子から見える庭園を見下ろし、指差した。
「では、旦那様に伺って参ります。了承されれば出掛けることに致しましょう」
「別に、あの方にいちいち尋ねなくても。庭くらい自由に鑑賞しても怒らないでしょう?」
マルクの名前を出されて、ディーネは顔を顰めた。先日の無礼は、しっかり覚えている。忘れようとしても出来ない。
「いけません。医者の了解も得ておりませんので」
いつになくカミラは決然としている。
「……じゃあ頼むわ。将軍には、くれぐれも宜しくと伝えて」
ため息を押し殺したディーネに、メイドは頷いた。
**
「本当は自分が付き添いたいと仰られたのですけれど、旦那様はご領地にお出かけにならねばいけない用がございましたようで。とても残念そうにしていらっしゃいましたよ」
見事な白薔薇の小さな庭園を一緒に歩きながら、カミラは話した。
(私は彼がいなくて嬉しいけど)
「領地って、この辺り?」
ディーネが質問すると、噴き出される。
「まあ! ここは王都ですよ。そんな事はご存知でしょうに、面白い冗談を仰いますね。このお屋敷はご一家が王都に滞在する期間の為に建てられたのでございましょう。
旦那様は五つの所領に、幾つものお城をお持ちです。普段は、それぞれ代理人が治めているそうですけれど。中でも一番有名な城館は、やはりフィラル湖の畔に佇む由緒あるフィラル城でございますね。湖に映し出される森の緑の中の、お城の尖塔がとても美しいそうです。森では昔、狩猟がよく行われたそうですよ。鹿やキジを銃で狙う旦那様……、想像するだけで麗しいですね!!」
この子の癖はどうやら最後に要らない一言を付けることらしいと、ディーネは頬を引きつらせて思い知った。
「…………あっ」
「いけない、お嬢様の帽子が!」
会話に夢中になって油断していたら、つばの広い白色の帽子が突風に飛ばされて遠くにいってしまった。
「っ、私が取りに行ってまいりますので、お嬢様は絶対にここから動かないで下さいね! すぐに戻りますから。
この日傘はお渡ししておきます。しっかり差していて下さい。少しでも日焼けすると大変です」
「えっ」
言い残して、カミラも風のように駆けていってしまう。
「………………ふう。少ししか歩いていないのに、思っていた以上にすごく疲れたわ」
ディーネは子犬を抱きしめたままで呟く。
(ん?)
ふと彼女は背後の鬱蒼とした木立に、だんだんと男二人組の声が近付いてきたことに気付いた。
「閣下のおられない時に家捜しとは、本当に困りますね」
「しつこいぞ、ザクタム。深くまでは立ち入らないつもりだ。離れていろ」
「そういうわけにはまいりませんよ」
声を聞いただけで、ディーネは真っ青になった。おそるおそる振り向くと、やはりいた。すぐに彼女は向こうに見つからないよう、その場で深く身を隠す。
(どうして、あの男がここに!? いえ、臣下の家に王が来てもおかしくないのかもしれないけど……。誰か、これは夢だと言って!!)
まさに一触即発。金髪の王が、機嫌悪そうに彼女が身を潜める木陰の後ろで立ち止まっていた。