悪夢①
人間の住む世界で初めて夜を明かした朝。
「おはようございます、お嬢様」
ディーネは、女の子の声が遠くで聞こえた気がしたように思った。
(誰……? …………カミラ。そうよ、カミラね。
…………昨日は本当に色々なことがあったわ。全てを投げ出したい気持ちになってしまうほどのことが、沢山)
心がとても重苦しい。もしかしたら怖い夢を見たのかもしれないと思う。
ディーネは薄く目を開ける。それ以上は無理だった。まだ寝ていたいのだ。
「お嬢様? お疲れのところ申し訳ございませんが、そろそろ御起床されませんと。朝食のお時間が迫っておりますよ。旦那様方をお待たせすることに……」
まるで寝坊を笑うように、楽しげに呼びかけてくるカミラの声音が変わったのは、そのときだった。
「お嬢様!? お顔がすごく赤くていらっしゃる!
ああ、額に失礼を。わっ。大変、とても熱いわ!!!」
自らの手でディーネの体温を測ったメイドは、すぐに冷水で絞った布を病人の額に置いてくれた。そして慌しく、部屋からいなくなってしまう。
「カミラ。行かないで、傍に……」
くぐもった声は、相手には届かなかった。
――――――孤独。
――――――そう。自分は孤独だったではないか、どこまでも。その証拠にカミラは、どこかへ消えてしまった。
――――――寝ろ。寝てしまえ。その間は、孤独を忘れていられる。この眠気に逆らうな。だけど熱い、熱い、熱いのよ。苦しいのに…………誰か、助けて。
ディーネは、長い眠りについた。
「——————お風邪を召されたのは確実です。しかし二日も目覚めないのは、もしや心労もあるかもしれません。
それにしても、体力の消耗が異常に激しい気が致しますが、まだ原因は不明です。申し訳ございません」
「風邪も心労も私のせいだ。
すまない、ディーネ嬢。お願いだから目を開けてくれ…………」
誰かの話し声がした。それでも、ディーネは目覚める気にはなれなかった。
――――――起きては駄目。起きたら不幸になる。あのことを思い出してしまう。もう少しだけ。あと少しだけ全てを忘れていたい。
**
何かが布団の中で、ディーネの足の甲を舐めた。まるで何かを知らせるように。
柔らかい感触が擦り寄ってくる。そこで子犬がいるのだと思い当たって、ほっとした。
まだ彼女の意識は完全に覚醒してはいなかった。
これは夢の続きかもしれないと思う。
身体は泥に埋もれたかのように重く、誰かが静かに部屋へ入ってきたが反応すら出来ない。
その誰かが寝台の傍らに立った。
ディーネは重い瞼を持ち上げ、暗闇の中の相手を見上げた。視界が霞んで誰なのか分からなかった。
けれど茶色の瞳に、茶色の髪をしている気がした。
彼は優しい。
臥せったディーネの頭を慰めるように撫でてくれる。
それは彼女が幼い頃、父親がしてくれた行為と同じ。
もう彼女は、彼が父だということを疑いもしなくなった。
「ち、ち、うえ……?」
手の動きが止まった。そして、ためらうように、彼女の瞼の上に掌が移動する。
まるで、見るなというように。
どうして視界を閉ざされるのかを、彼女は深く考えなかった。
「父上、ごめん、なさい。……帰りた、いのです、うっ…………私は無能なのですけれど、……帰りたい、の。ここは怖いと、ころなの。さみ、しいの。
帰るのを、許して、下さい。ゆるし……て」
ディーネの訴えに、相手は冷静に尋ねてきた。
「どこに? どこに帰りたいと?}
それは勿論、暖かい光に満ち、動物達が唄い、花々が咲き乱れる…………、
「それは、し………………」
神界と言い切ることは出来ず、ディーネは再び眠りについた。