文芸部と生徒会の因縁
誰もいない教室で鞄を回収し生徒会室へ急ぎ足で向かっていた私は、教室棟を出た所でばったりと知り合いに出くわした。
「あれ、香宮さん」
「五月七日先輩、こんにちは」
少し変わった名字の、弓道部3年の先輩。生真面目な性格がそのまま現れたシンプルなフレームメガネに片手で触れ、私の挨拶に頷いて返す。
「今日は図書委員の仕事だったっけ。どうして教室棟に?」
ちら、と私の背後に目を向けた先輩に、努めて平静に答える。
「図書館に行く前に少し所用がありまして、鞄を残していたので」
「ああ、なるほどね。じゃあまだ少しかかる?」
「はい、すみません」
事実上練習には行けない事を謝ると、五月七日先輩は首を横に振った。
「委員会はね、仕方ないよ。じゃあ頑張って」
「ありがとうございます。失礼します」
軽く頭を下げて、踵を返す。怪しまれないよう図書館の方へ足を向け、角を曲がったところで足を止めた。先輩が立ち去ったのを確認してから、今度こそ生徒会室へと急ぐ。
ようやく生徒会室が目に入った私は、どうせ哉也に遅いと言われるんだろうと覚悟しつつ飛び込みかけて、扉の隣に置かれている女子のものらしき鞄に気付いてはた、と足を止めた。
(……どちら様?)
生徒会の人だろうか。けれどそれなら、鞄も持ち込むはずだ。外に置きっぱなしという事は、まず間違いなくお客様だろう。
今、私が生徒会と関わっているのは極秘事項だ。けれどまさか戻るわけにもいかない、後で哉也にどんな目に遭わされるか。
私は数秒間迷って、結局後ろめたさを少しの間忘れる事にした。周囲に人がいないのを確認してから気配と足音を殺し、そうっと扉に近寄り耳をそばだてる。
「……だから、その仕事、文芸部に返してよ」
「返してって言われても。これは僕が校長先生からお願いされた学内行事だよ、生徒会主導で行うのは別におかしくも何ともないだろう?」
2人とも声には聞き覚えがあった。つい先程文芸部で会った貴戸先輩と、中西だ。中西の胡散臭いサワヤカさは相変わらずとして、貴戸先輩は私と話していた時より遥かに刺々しい。
「おかしいに決まってるでしょ。何でこっちの領域に入ってきたの? 正直迷惑」
「だから、俺が決めたんじゃなくて校長にお願いされたんだよ。信じてもらえないなあ」
声を聞けば分かる。間違いなく中西は今、あの大袈裟な仕草で両手を広げている。……あのわざとらしさが信じてもらえない原因ではないかしら。
貴戸先輩も私と同意見らしく、言い返す語気が強い。
「信じる理由がないよ。大体、何も知らない1年生、それも女の子に部誌運ばせようって発想が気に入らないな。無理に決まってるって、わざわざ池上が運んだんだけど」
「ああ、それは盲点だった。彼女には後で謝らないとな」
「中西がわざわざ? 嫌がらせなの、それは」
……どうしよう。さっきから、貴戸先輩の意見にいちいち共感してしまう。さらりと嘯く中西よりも、初対面の私にさえ気遣ってくれる常識人な貴戸先輩に頷くのは、別におかしくも何もないけれど。
「……埒が明かないな」
その時、唐突に哉也の声が響いた。身内しかいない時の傲岸不遜モードとも学校用の化け猫被りな快活モードとも違う、感情が抑えられた声音に瞬く。
「中西が謝りに行けば不要な注目が集まるという貴戸さんの意見は尤もだ。目立たない所でばったり会えたら謝るくらいが関の山だろう。けれど、貴戸さんが1番通したいのはそこじゃない、違う?」
語気を抑えて理路整然と言葉を重ねていく、こんな言い方は。
「……違わない。文芸部の仕事を、返してほしいのが私の目的」
「そうだね。そして今回の企画を生徒会が行うのは、学校の方針として決まった事だ。もし今貴戸さんの要求通り文芸部に主導権ごと差し出せば、校長は生徒会が任せた仕事を投げたと判断し、無責任だと批難するだろう。生徒会の長である中西が頷けないのは、貴戸さんも分かる筈だ」
……今の今まで、知らなかった。
感情的になりがちなのが欠点だった、それを自覚して改善策を編みだしているとはまたタチの悪い。本人に言っても鼻で笑われて終わりだろうけれど。
貴戸先輩は哉也の弁論に少し口籠もっていたけれど、数秒で立て直した。抑えられた語気が却って反論しづらさを感じさせる哉也相手に刃向かえるなんて、と少し感心する。
「……それでも。不可侵だった歴史の記録という役割を、文芸部無しで行うのは危険だ。今まで文芸部が担ってきた理由は、2人とも理解しているでしょう」
「そうだね」
あっさりと中西が認めた。これまでの流れを断ち切る気かと少し驚いた私は、続く言葉に思わず半目になった。
「じゃあ、こうしようか。今回の企画は俺達生徒会と君達文芸部の合同とする。これなら、記念行事だから生徒会も関わったという理由が付くしね。どう? 俺は折り合いどころだと思うんだけど」
(……最初から、これが狙いだったのね)
どうやら中西は、文芸部を容疑枠に入れているらしい。確かにこれだけの事件を起こす器量はありそうだし、何より生徒会へ明確な敵対心があるから分からなくはない。
けれど、企画の作業を押しつけつつ関わる理由を付けて探る切欠を、それも相手に負い目を感じさせるような形で誘導するだなんて、中西は本当に食わせ物だと思う。
「……私は賛成。コウの意見を聞いて答えるよ」
「構わないよ。けど、空瀬が来ないのは意外だったなあ。こういう無駄を嫌うと思ったんだけどね」
中西の意見に確かに、と首を傾げると、貴戸先輩が思いきり冷たい声で言った。
「コウがここに? 馬鹿言うんじゃないよ、また香宮が意味も無く噛み付いて議論で時間が無駄になるだけだ」
貴戸先輩の言葉に少し驚いて扉の隙間から覗こうとした途端、なんだか部屋から冷気が漂い出したのを察して、じりじりと後ずさる。
「俺が意味もなく噛み付く?」
冷え冷えとした声が、やけに良く聞こえた。
「勝手に事実を曲げないでくれるか。俺は空瀬に仕掛けられた議論に応じただけで、喧嘩を売った覚えはないな。絡んでくるのは空瀬の方だ」
丁寧にまで聞こえる言葉とこの冷ややかな気配は、キレる目前。ちょっと言われただけで猫被り大得意な哉也がこうなるって、哉也と空瀬先輩の間に一体何が……?
今になってあの人に興味が沸いてきた私は、けれど続く言葉に混ざって聞こえた足音に、慌てて扉から離脱を始める。
「……コウが香宮なんかに絡むわけないだろ、何自惚れてるの。平行線にしか議論を持ち込めないくせにコウと張り合おうなんて、10年早いよ」
捨て台詞と共に貴戸先輩が扉を開けるまでに、なんとか気付かれない死角に隠れるのが間に合った。哉也が鼻で笑うのを空耳しつつ、私は貴戸先輩が廊下を進んで階段を下りるまでじっと待っていた。
「おい、いつまでそこにいる」
もうこのまま帰りたい、と思った瞬間に哉也に呼ばれる。渋々立ち上がって生徒会室に入ると、既に本性をさらけ出した哉也が偉そうにふんぞり返って椅子に座っていた。隣には中西も座っている。
「遅い」
「ちょっと部の先輩に会ったのだから、仕方ないでしょう。それに、先輩に会ってなかったら貴戸先輩と鉢合わせていたわよ。それも困りますよね?」
中西に確認すると、にっこり笑って頷かれた。
「うん、どうやら咲希さんも上手く誤魔化してくれたみたいだしね。このまま行こう。次誰かが来たら、あっちに隠れていて」
そう指差された先には、引き戸式の扉。物入れか何かかと不思議に思って見に行った私は、思わず声に出した。
「いや、何で給湯室……」
シンクにコンロにやかんにコーヒーメーカ、見事な給湯室だったのだから仕方ないと思う。
「俺達、仕事多いから。夜遅くまで働く事もあるから、水分補給大事なんだよねえ」
(絶対、建前ですよねそれ……)
心の中でだけ呟くのは、言った所ではぐらかされるのが目に見えているから。そもそもなんで生徒会室如きにこんなものがあるのか、なんて今更すぎるし。
「さて、本題に戻ろうか」
ぱんと手を叩いた中西に頷いて、2人の向かいの席に腰を下ろす。ふと他の生徒会の人達は良いのだろうかと考えて、まあこんな事件にそう沢山関わらせるのも問題かと自答する。
それに、訊きたい事は別にある。
「あの、中西さん。部誌に目を通す前に1つ伺いたいのですが」
「うん? なんだい」
視線で促され、私は敢えて少し目を細めて言った。
「学校中に人気なおふたりとあれほど明確に敵対する文芸部について、背景を説明していただけませんか?」
良くもあんな険悪なところに送り込んでくれたわね、という恨みを副音声に込めたのは通じたのか通じなかったのか、中西はあははと軽く笑う。
「百聞は一見にしかずだっただろ。ま、俺は部室棟の人達には大体嫌われてるけどね」
「自業自得だろ」
すかさず入った哉也の茶々に、中西はまたオーバな仕草で肩をすくめた。
「そう? 俺としては妥協点だったんだけどな、あの予算。今までがおかしいんだよ、部室棟の自販機の飲み物代まで請求しようだなんてさ」
……それは確かに、部の側にも非がありそうだ。
「ええと、つまり部費の大幅削減で恨みを買った、という事ですか?」
「うん、大枠はね」
まだあるらしい。
「当時まだ1年だった空瀬が部室棟組を束ね上げて、反論を予算会議でぶつけてきて、俺と盛大に舌戦になった。ここまでは咲希さんの予想通りなんだけど……」
言葉を濁らせた中西が、ちらりと哉也を見る。思い切りそっぽを向いた哉也に苦笑して、中西が言葉を結んだ。
「……ディベート部もいたからか中々に苦戦させられてた中、哉也が参戦したんだ。俺は助かったし、流れもこちらに向きかけた途端……なんか、空瀬と哉也が物凄い口論繰り広げてね。いやあ、あれは凄かった」
「喧嘩を売ったのは空瀬だ」
ぴしゃりと言い切った哉也の語調から、おおよそ何があったのかを察する。
「それは……まあ、確かにあの剣幕にもなりますね……」
そもそも『香宮』と『吉祥寺』の仲が険悪なのだから、相手の警戒も宜なるかな、という事かしら。
「では、主というのは?」
「言葉のまま。予算会議で見せたリーダシップに加えて、部室棟でちょっとしたトラブルが起こるとあっという間に解決してしまう事から付けられたみたいだ。ああ、後は大体の時間を部室で過ごしているのも理由らしい」
「……授業もですか?」
「阿呆か、そんな真似したら流石に教師が黙ってないだろう」
思い切り罵倒されてしまった。いや、なんだかあり得るなと思える位、あの空間に馴染んでいたからつい。
「ま、そういう事なんだ。納得したなら、本題に入って良い?」
「あ、あと、貴戸先輩と池上先輩についても伺って良いですか?」
あの中で警戒の必要そうな2人の名前を出すと、何故か哉也が苦い顔になり、中西は素晴らしくいい笑顔を浮かべた。
……地雷?
「貴戸さんは空瀬に心酔している1人だよ。相当頭が回るんじゃないかな、気も強いし。ブレインとして空瀬の補佐をしてるって感じかな。池上は……」
そこで1度言葉を切ると、中西はにこやかに言い切る。
「——空瀬の、犬だね」
何か今、凄い事言った気がする。固まった私に、哉也が溜息混じりに付け加えた。
「身体能力は俺以上だ、頭も悪くない。だが全く理解が出来ない事に、空瀬の命令を受けて動くことを信条としている。いつでもべったりだしな」
「……そう」
哉也以上の身体能力、という言葉に何よりも驚く。哉也がそれを素直に認めた事も勿論、哉也の身体能力は稽古で組手の相手をしている私が1番知っているから。
……たまに獣じみた反応速度を見せる哉也より上って、一体どれ程なのだろう。
「さて、情報としてはこれで十分だろう。今は文芸部にばかり注目するわけにはいかない。一応後で、部誌を貰いがてらの偵察も報告してもらうけどね」
私が納得したのを読み取ったのか、きびきびした口調で中西が話を切り替えた。ひとまず十分な情報は集まったので、黙って頷いて続きを待つ。
「取り敢えず、俺に思い付く限りの容疑者を挙げていこうと思う。調査する必要があるかどうか2人にも判断して欲しいから、部誌の年表を浚いながら聞いてくれ」
なんだか今、中々無茶な注文をされた気がする。
「読みながら聞く、という事ですか?」
「そうだ。出来るだろ? 咲希さんなら」
「出来ないとかほざいたら蹴っ飛ばすぞ」
物凄く理不尽な信頼と脅しをかけられた気がする。するけれど、今更言っても手遅れなのだろう、多分。
(一応出来るし、良いか)
うっかり手元に集中しないようにしないとな、と思いつつ、私はゆっくりと頷いた。