『花曇』
重たい音を立てて、運んでくれた部誌の束を生徒会室の引き戸の前に全て下ろし終わると、池上先輩は首を左右にひねり低く唸った。
「じゃあこれで確かに渡したからな。後でお前んとこの委員長に言っとけ。次は手前で来いってな」
「は、はい。本当にありがとうございました!」
すじを鳴らしながら首に手をあてたまま、池上先輩は私がぺこりと頭を下げるのを見て、少し意外そうな面食らった表情になった。
「そこはすみませんじゃねえんだな」
「え?」
「……別に。空瀬がいいっつったんだから構わねえよ。じゃあな」
ぱっと後ろ手に手を振り、池上先輩はそのまますぐに背を向けて行ってしまった。ぽつねんと残された私は見えなくなるまで一応それを見送ってから、後ろの引き戸を開けてせっせと部誌を中へ運び込む。
きちんと冊数も20部ある事を確認し、紐の結び目を解いてその一冊を手に取る。「花曇」と書かれた手書きの誌名は非常に整ったレタリングで書かれ、その下にはたぶん文字とは別の人が描いたのだろう木の幹にもたれかかって目をつむった可愛らしい中性的な人物のイラストが描かれている。
その周囲を囲うように蔓草模様で縁取りもきっちりと描かれているが、その中にも時折蔓草の花や実と思われる模様も加えられていて芸が細かい。おそらくこれもまた別の誰かの手によるものなのだろう。
一番上にあったこの冊子の発行日付は今年の二月。年間まとめ号なのか、きちんと伝えた要望通り、一番最後にはすべて屏風折りでその一年間に起こった校内や世界の大きな動きが一覧年表になってくっついている。
今年に入った際に『閏年』という記述を見つけて、ぼんやりと「そうだ、今年はオリンピックかあ」と思ったりしていると、ついつい本命のその他の年の過去録を調べなくてはいけないのを都合よく忘れて部員たちの作品の方をめくったりしてしまう。
つい先ほどまで顔を合わせていた人たちの書くものというのも、少し気になる。
会話の印象から誰が何を書いているのか、何となく判るかなとも思ったのだけれど、思えば去年卒業した先輩方も参加しているし皆ペンネームだった。さっき少し話しただけの人たちがどんなものを書いているのかまでは、これではさすがに想像もつかない。
なにも悪意があったわけではないけれど、少し残念な気持ちになる。
作者一覧を見てみると、
『「夕染めルーズリーフ」結衣野 雹
「氷と王の観察日記」リバーヴ・レイヴ
「短歌」柴
「ほんとうはここまで怖くなかったぐろい童話」さっちゃん』
と、作品名とペンネームばかりが並んでいて本名は書かれていない。
とはいっても学校で公開する作品集とはいえ文化祭では外部の人の目にもつくものだから、本名で発表するのも気が引けるのかもしれない。
仮に私だったとしても、できるだけ自分だと分からない筆名を考えると思うもの。
さあっと目を通してから音を立てて冊子を閉じる。
池上先輩が来たからか、中西は姿をくらましている。
哉也も戻ってきて全員が揃うまでに、何か手がかりになりそうな記録やヒントを書き出して検証していくためのノートを取りに行っておこうと思い立ち、私は生徒会室を出て自分の教室へ向かった。
生徒会室に咲希が着いた頃、物陰に座り込んで再び読書に没頭していた空瀬は、ふと窓からの風が変わるのを感じて本から目を上げ、おもむろに立ち上がって静かに廊下へ出た。
目の端で木戸と伊藤が物珍しそうな表情でこちらを見ているのが分かったが、とくだん変わった様子を見せなければ用足しか何かだと補完し追求もされない。
部室のある廊下を抜け、二つ離れた教室の引き戸を開ける。
途端に髪を弄ぶ強い風が吹き抜け、細めた視線の先でカーテンが波のようにはためく。普段は吹奏楽部の道具置き場として使われているために雑然と布をかぶった楽器が立ち並ぶ群の向こうで、全て開け放たれた窓枠の桟に腰掛けて足を組んだ、女生徒の姿が、ひとつあった。
「やあ、久しいね空瀬クン」
「何の用だ」
アハハハ、なんだかいかめしい物言いをするようになったね、と甲高く笑うその女生徒は、その割に低い声で面白がるように言った。
春影高校の制服を着ているのに、随分古めかしい大時代な学生帽をかぶって笑う笑顔は、しかし目が笑っていない。
指定のソックスも靴もなく、素足のまま西日を背に受けて脚をぶらつかせている。
この相手に会うのは二回目だったが、空瀬は妙な違和感を感じていた。
「前回会った時は……男だと思っていたが」
まつげの長いまぶたにかかるくらいの半端に長い髪と、鼻筋の通った顔立ちは均整がとれている。
良く通るアルトの声がはためくスカートとともに彼女の性別を裏打ちしているが、それでも、空瀬は以前学ランを身につけていた彼女を、服装のみならず本当に男だと感じていたのを思い出す。
「アハハハ! なんだい、冗談も言えるようになったのかい。すごい進歩じゃないか」
けらけらと鼻につく声を上げるこの者とは、去年の秋に顔を合わせただけだ。今更話があるとは思えないし、第一謎の多いこの学校でも特に謎に包まれている「機関」だ。今になって姿を現したのには、何か理由があるのだろう。
……それに、ある程度その予想もつく。
「ボク達『選挙管理委員会』の目と鼻の先で随分楽しそうな事をしているじゃないか、空瀬宏毅クン?」
「どういう意味だ」
「さあ。君が言いたくないなら言わなくてもいいし、分からないなら分からないでもいいんじゃない? 基本的にボク等は傍観者。別に邪魔立てしようってワケじゃない。むしろイベントは多いに越したことはないからサ。ま、これはこっちの話だけど」
一人で話を完結させるおかっぱの少女に、空瀬は微かに細めていた目を閉じ、一つ息をついた。
「……要領を得ない。話がないなら俺は戻るぞ」
「おいおーい、君がボクのいるところへ勝手にやってきただけじゃないか。別にボクが呼びつけたワケじゃなし。根拠のない思いこみは良くないぜ」
ふふんとおかしそうに鼻を鳴らし、彼女は窓枠の上でどうやってか器用に脚をあぐらに座り変えると、両膝に肘をおいて組んだ手に尖った小さな顎を乗せた。
「今年はサ、生徒会選挙の候補者名簿に香宮の名前があるんだ」
ニタニタと瞳孔を見開いてその形のいい口を裂けるような笑みに変え、おかっぱの少女は不敵な笑顔で空瀬を視線でその場に縛り付ける。
「……それがどうした。去年の会長選には『香宮』がいなかった。それだけの事だろう」
「あは、そうかなあ。そうかもね。そうなのかなあ。それだけのことかな。それだけのことだと思ってる? ほんとに?」
歌うように羅列されていく言葉の響きに、空瀬は眉をひそめた。
「……嫌に含みのある言い方をするな」
「んふふ、ごめんごめん。だって君がなんだか依怙地になっているものだから面白くって。でも悪いね、ボクだって事の全てを話すワケにはいかないんだ」
少女は嘯き、にいと笑みを深めた。徒人ならばその場で怖気に身を震わせるだろうその笑顔を前に、しかし空瀬は淡々と問いを投げかける。
「……今日、香宮と名乗る一年の女生徒がここへ来た。本人は無関係だと言っていたが、やはりあの家となにか繋がりがあるのか」
「んーん? 彼女はないよ。何もない。あの子にはなーんにも無い」
「無関係ということか」
「さあ?」
何かを知っていると臭わせながら肝心要の部分は決して答えようとしない少女の態度に、空瀬はついに溜息を漏らした。
「……会話をする気があるのか」
「おいおーい、ボクが生徒一個人の情報を年頃の上級生男子にほいほい明かせる立場だと思ってるのかい? 君も案外おませさんだなあ」
「埒があかん……」
疲れたように大きくため息をつく彼を、おかしなものを見るようにけらけら笑い飛ばしながら、未だ笑わない目で彼女はじっと見つめていた。
「まあいいや。未だに君の首にかかる糸はとれないみたいだからね、彼女とは一度ゆっくり話でもするといいよ」
「何故俺が」
「何故?」
完全に会話にならないと諦め、額に指を当てて俯いた瞬間だった。
不意に氷のように冷め切った声音に変わった音が、いつの間にかすぐ目の前に移動していた彼女の三日月型の笑みから漏れた。
「何故とは笑わせるね、張り子の王様クン」
「何」
「君は彼女を見て何も感じなかったのかい。何も考えなかったのかい」
「何を」
「君は誰だい。空瀬宏毅」
「何だ」
「君はなんだってこの部室棟を治めているんだい」
「何が」
「吉祥寺の糸人形君は、彼女を見て本当に何も感じなかったかい?」
「何」
「あっはは、本当に君はつまらないな、空瀬宏毅文芸部長。ボクはこれでも結構君を買っているんだぜ?」
「何の」
「おいおい、君の足掻きを楽しみにしてるって言ってるんだ。いい加減気がついてるんだろう?」
「……」
「黙秘かい? 賢いなあ君は。お利口さんだ。だから凄くつまらない」
「……俺に何の用だ」
「君に用なんか無いさ」
さらり、と即答するように言ってのけた彼女はおかっぱの髪をかきあげるように後ろへ流し、極めて美しい動作で窓枠の桟から後ろへ倒れ込んだ。その後ろの何もない、地上三階の窓から。
「興味があっただけだよ。吉祥寺の糸人形と、香宮のお飾り人形に」
流れるように窓の向こうへ体が吸い込まれる最中で、心底面白がるような彼女の声だけが教室に響いた。
「またね」
最後の声と同時に吹き荒れるようにして巻き込んだ窓からの風にカーテンが大きく巻き上がり、顔をしかめて目を一瞬だけ逸らしたが風はすぐに凪いだ。
何事も無かったかのように舞い戻る静寂と急に暗くなった一室に、自分が一人佇むばかりだった。
また少しだけ揺らぎはするものの、もう突然の強い風は入らなくなった窓をのろのろと閉める。
空瀬はどこか険しい色を瞳に浮かべながら、静かに引き戸を閉めて部室へ戻った。観測者が現れた以上、もう猶予はあまり残されていない。
空瀬はポケットから携帯電話を取り出し、手早く何事か画面に打ち込むとそれを送信し、またポケットに戻した。
既に賽は投げられている。今更俺に引き返す道などありはしない。
何食わぬ顔でまた拾い上げた本の栞部分を開き、目を落とした空瀬はその内容が全く入って来ない事も構わず、先ほどの怪しげな言葉を思い返さずにはいられなかった。
「香宮……咲希……」
口の中で声には出さず、呟いてみる。確かそのような名前だった。
今年の生徒会選挙には香宮がいる……香宮が、いる……。
去年の生徒会選挙の前後、現生徒会長の中西との伝説的な弁論闘争。あの女……否、去年は確かに男だと思っていた『選挙管理委員』はその頃に一度だけ姿を現した。
彼の静かな瞳に怪訝な靄が渦巻くのを、手元のハードカバー越しに心配そうな表情で貴戸が見つめていたが、彼の視界にそれはおさまらなかった。
「香宮の……お飾り人形……」
たかだか今日一日のたった数時間の間に生徒会からのコンタクト、しかも香宮と名乗る少女。迂闊にも池上の不在時に進入を許した『選挙管理委員』。
偶然と言うには、いささか重なりが過ぎる。
今後は一層警戒をするに越したことは無いだろう。
どの道俺には、代えがきく。
「どうしろと言うんだ……一体」
夕暮れの薄闇に文字をかき消されながらも、彼はただ静かに文庫本の文字に目を落としていた。
池上はまだ戻らない。電気ポットでお茶を煎れがてら、電灯のスイッチまでもそもそと這っていく河井とその上にのしかかる伊藤を横目に、空瀬は貴戸に小さく目配せをする。
日暮れが早くなりつつある季節の夕暮れの朱さと物陰の長さが異様に際立つグラウンドを眺めながら、目配せに応えるようにゆっくりと瞳を瞬いた貴戸と空瀬は、池上が戻るまで、一般生徒下校時刻の鐘をじっと待ち続けた。