文芸部と主
「は〜い」
可愛らしい声と共に白いドアが開いた。セミロングの髪をシュシュで纏めた女の子がひょこ、と顔を出す。
「えっとお、あなた誰かな?」
女の子が優しい口調で尋ねる。……このごく普通な応対に感動してしまう私って、なんだか感覚が狂ってきているかもしれない。
緊張が少し和らぎ、私は準備していた言葉を慎重に紡いだ。
「突然すみません。図書委員です。文化祭で作成する記念誌に必要な資料として、部誌をいただきに参りました」
「ん〜? 去年そんなのあったかな?」
「新校舎建築20周年記念行事の一環と、委員長が仰っていましたが……」
「あ、そんな行事あったねー。理解〜」
クリップボードのプリントを見せてそう言うと、女の子ははんなりと笑って頷いた。ちょっと変わった相槌だなあと思う私の前で、女の子がちょっと首を傾げる。
「えっと、わたしは部誌の保管場所理解してないんだー。多分唯ちゃんかこーくんが知ってると思うの。聞いてみるから、中に入って欲しいんだけど、理解?」
「えっと、はい。お手数をお掛けします」
良かった、このまま部誌だけ渡されたらどうしようかと思った。調査も頼まれている私は有り難く頷いて、また緊張の糸をぴんと伸ばして中に招かれた。
ドアの向こうは直ぐに部屋だろうと思っていたのだけれど、実際は入って直ぐ目の前に置かれている本棚のせいで中は全く見えない。女の子の背中を追って本棚を迂回すると、ようやく視界が開けた……けれど、やっぱり本棚だらけだった。
うん、これは確かに部誌がどこにあるか分からないな。
部員で、しかも2年生以上ぽいのに部誌の場所が分からないってどうしてだろうと疑問だったけれど、壁一面天井まで届く本棚に、机と椅子が置かれたスペースと通路以外には肩くらいの高さの本棚が所狭しに置かれています、なんて光景を見せつけられれば、これでどこに何があるか把握しようという方が難しいだろう。もはや小さな図書館だ。
……部室外にまで本が進出していたけれど、一体全部で何冊所蔵しているのだろう。
書斎という言葉も生温い様に素朴な疑問を抱いた私を余所に、中から声が飛んできた。
「あれ? 伊藤ー、その子誰?」
男の子にしては高めの声がした方へ目を向けると、女の子に似た感じの垂れ目が可愛い男の子がソファにだらっと身を預けていた。色素の薄いふわふわした髪を無意味に弄りつつ、首を横に倒し怪訝そうに私の方を見ている。
……ところで、その手に持っているのはマンガに見えるのだけれど……。
いや、たまたまマンガを読みたい気分だったのかもしれない。けれどここから見える範囲だけでも気になるタイトルを既に5冊見つけた私としては、何故ここでわざわざマンガなんか読むのだろう、とちょっと歯がゆい。
「図書委員のお仕事だってー。部誌が欲しいみたいなんだけど、わたし部誌の置かれた場所分かんなくて。勇琉クン知ってるかな?」
伊藤と呼ばれた私を案内してくれた女の子が尋ねるも、勇琉クンと呼ばれた男の子は直ぐに首を横に振る。
「オレには無理。強いて言えば、それは氷姫かへーかの領分だと思う」
……氷姫? へーか?
不思議な単語に瞬く私を余所に、伊藤先輩はうんうんと頷いた。
「だよね〜。というわけで、唯ちゃん知らないー?」
伊藤先輩が呼びかけた方向に視線を向けると、こちらは姿勢正しくソファに腰掛け、古そうなハードカバーを読んでいた女の子が顔を上げた。
背表紙は……見えない。タイトル気になるなあ、雰囲気的に面白そう……。
「何? 爽」
「あはは、やっぱ聞いてなかったか〜。図書委員さんが部誌が欲しいらしくって、唯ちゃんに場所を聞きたいのです。理解?」
「……図書委員?」
怪訝そうな声を上げ、唯ちゃんと呼ばれた女の子が私を見る。気の強そうなアーモンド型の瞳が真っ直ぐ私を射貫いた。
「貴方がそうなの?」
「はい」
「そう。爽も河井も抜けてるから誤魔化せたみたいだけどさ、図書委員って生徒会直属だよね。あの外面会長、今度は何を企んでいる訳」
中西の呼称が適切すぎる。思わず頷きかけるのをすんでの所で留め、困惑してみせる。
「ええと……、新校舎建築20周年記念行事の一環で、文化祭で記念誌を作成するそうです。それで、校内の歴史を詳しく記している部誌をいただいてきてくれと、委員長にお願いされました。会長の意図は、あまり関係がないと思いますが……」
ちなみに、嘘は一切言っていない。用意周到な事に、中西はわざわざ図書委員長と企画の打ち合わせをし、委員長がその日「偶然」本を借りるべく顔を出した私に仕事が回るよう仕組んでいた。思いっきり掌の上な委員長に心の中で手を合わせたのはつい先程だ。
そんな裏工作はしているものの、表向き何ら不思議ない流れなのだけれど、唯と呼ばれた女の子は疑うのを隠そうともしなかった。
「ふうん……記念誌ねえ。初耳なんだけど。普通、事前連絡くらいするものじゃないの」
「す、すみません……」
少し首をすくめて恐縮してみせると、伊藤先輩が助け船を出してくれた。
「唯ちゃんー、そんな怖い顔しなくたって、このコただの委員さんだよ? このコは何にも悪くないでしょ、怯えさせちゃダメ」
「怯えさせたつもりはないよ」
「唯ちゃんはちょっと言い方がきついから誤解させちゃうよって、何度も言ってるよー。気を付けなきゃダメ、理解?」
優しい顔を精一杯厳しくして諭す伊藤先輩に、唯と呼ばれた女の子は肩をすくめた。
「はいはい。で、図書委員さんは部誌が欲しいって? 後で委員長には問い合わせさせてもらうけれど、何年分?」
「えっと……、校舎改築が行われた20年前……より、少し前からだそうです」
手元のクリップボードを確認する振りをしながらそう答える。唯と呼ばれた女の子は頷いて、すっと立ち上がった。思ったよりも背が高いなと歩き出す様子を眺めていると、奥から唸るような声。
「おい、そこの女」
「はい」
警戒心剥き出しの声に咄嗟に背筋を伸ばして返事をしながら視線を巡らせる。炯々と光る鋭い眼差しとばっちり目があった。
「図書委員ってのは分かったがよ、何で名乗らねえ」
礼儀だろ、と続く指摘には否定しようがない。いや、あえて誤魔化してきたし。
「あ、わたし聞き損ねてたー。池上クン、ごめんね〜」
「強いて言えばオレもスルーしてたなあ。氷姫が名前聞かないのはいつもの事だけどさ」
……氷姫、唯って子の事だったのか。なんていうあだ名だろうと密かに呆れる私には気付かず、伊藤先輩と勇琉クンとやらが私の方を振り返った。
「わたし、伊藤爽って言いますー。こっちは河井勇琉クン。さっきまで話してた女の子が貴戸唯ちゃんでー、名前聞いたのが池上俊毅クンです。みんな2年生かな。理解?」
「強いて言えば後1人奥にいるけど、ちょっと顔合わせるの怖いだろーから省略な。で、悪いけど名前教えてもらって良い? 池上、相手が誰かってのやたら拘るんだ」
……それは、普段から警戒心バリバリという意味だろうか。
ちらっと池上先輩に視線を向ける。相変わらず私を睨んでいる彼は、とても体が大きい。背が高いのは勿論、かなり鍛えた体つきをしている。哉也や中西とはまた違う、逞しい感じだ。腕組みして私を睨む姿は、まるで門の前で唸る番犬みたい。
はっきり言って、とてもとても名乗りたくない。けれど、氷姫こと貴戸先輩まで返事を待っているのを見ると、誤魔化すのは難しそうだ。
仕方ない。腹をくくって、私は答えた。
「名乗り遅れて申し訳ありません。1年の香宮咲希と申します」
「へ?」
「あれ〜?」
「え?」
河井先輩、伊藤先輩、貴戸先輩の声が綺麗に重なる。それに続いて、地を這う唸り声。
「……香宮、だと……?」
池上先輩から敵意を思いっきりぶつけられた。さっきまでの疑う視線じゃなく、明らかに敵を見る目で突き刺される。
哉也、一体何をしでかしたのかしら。
哉也は普段、特大級の化け猫を常時被り続けている。この間初めて校内での姿を目の当たりにしたけれど、気持ち悪いくらい快活で人当たりが良く、性格の良さそうな様子で人々に囲まれていた。……駄目だ、思い出しただけで鳥肌が立つ。
そんな哉也に妬みから反感を持つ人がいないわけではないけれど、表立っての衝突は一切ないはず。それなのに、この池上先輩の反応は一体……?
「池上」
その時、今まで1度も聞いた事のない声が池上さんの名前を呼んだ。さして大きな声という訳ではないのに、その声は部室にぴんと響く。
「無闇に敵意を向けるな」
端的な指示。それだけで、池上先輩の敵意がふっとしぼんだ。
「けどよ、」
何事か反論しかけた池上先輩が途中で口を噤む。彼が見下ろす先、今まで影になる位置に腰掛けていた人影が立ち上がり、振り返る。
——目が、合った。
深い湖のような静謐な瞳。感情を徹底的に排した理知的な眼差しが、私を見て……いや、観察していた。
この人にとって、私はまだ敵でも味方でもない。ただ、どういう人間なのか分析しようとしている。直感的に、そう思った。
顔に一切の感情を映さず、その人は言葉を発する。
「2年、空瀬宏毅だ。単刀直入に尋ねよう——お前は香宮哉也と血縁関係なのか、否——『香宮』の人間なのか」
『香宮』。それは、この地で最も大きな名家であり、哉也と私が生まれた場所であり、哉也の属する家。——大きさでは一段劣る名家『吉祥寺』が、敵視している家。
けれど。
「いいえ。私は、香宮哉也先輩とは何の関係もありません。『香宮』でもありません」
きっぱりと、私達にとっての「事実」を告げる。
空瀬と名乗った人が、すっと目を細めた。そのまま黙り込んだ彼に変わって、貴戸先輩が口火を切る。
「赤の他人って言いたいの? 香宮なんて名字がこの地域で被るとは思えないけどね」
「……そう言われましても」
同感だけれど、本当に偶然被っていたらこれにどう答えろというのだろう。そんな気分で相槌を打つと、取りなすように河井先輩が間に入る。
「まーまー氷姫、偶然が意外と世の中に転がってるってのは、へーかとの付き合いで分かったじゃんか。強いて言えば、オレは香宮サンが微妙に香宮と似てる方が気になる」
「え」
「あ〜、理解。どこがといわれると難しいけど、なんか似てるよねー。何でかな?」
河井先輩と伊藤先輩の言葉にショックを受ける。あの性悪と……似てる……?
「……伊藤、河井、お前ら黙れ」
池上先輩の低い声に、「私と哉也のどこが似ているのか」について議論していた2人がぴたりと口を閉じる。少し和みかけていた空気がまた固くなった。
また尋問じみた会話が再開されるのだろうか。もう部室棟で何か起こっていないか探るのは諦めて、そろそろ部誌を貰って帰りたい。魅力的な本が沢山目に入る中、こんな楽しくもない会話を続けるのは辛い。
気が逸れ始めてきた私に池上さんが口を開きかけたその時、空瀬先輩の声。
「建前は理解した。貴戸、部誌を出せ」
「良いの? コウ」
貴戸先輩は戸惑った声を上げつつも、足は動き出している。それを止めようとした池上先輩を、空瀬先輩が片手を上げて制した。
「彼女を問いただしても奴らの意図は見えない。中西も香宮もわざわざ情報を漏らしはしない。1年女子1人を動かすのにそんなものは必要ないだろう、奴らには」
「……成程」
機嫌の悪そうな声で池上先輩が頷く。面と向かって理由もなく彼等に従う人扱い……いえ、この学校のほとんどはその通りみたいだけれど。
空瀬先輩がひたり、と私に視線を当てる。抑揚の殆ど無い声が、部屋に響いた。
「香宮。受け答えを見る限り、お前は頭の回転が早いようだ。ならば、この企画や状況に疑問を持たないか」
「……え?」
予想外の問いかけにどきりとする。そんな方向から攻められるとは思わなかった。
「20周年行事は周知の事実。だが、その一環として生徒会主導で記念誌を作るなど前例がない。仮に作るとしても文芸部に依頼するのが筋だ」
「……そうなのですか?」
「文芸部の役割の1つに、学内の歴史を記録するというものがある」
哉也の「役割を放棄した連中」という言葉が思い出されたけれど、今それを言うのは藪蛇な気がして黙っておいた。
「中西は活動的な面が目立つが、他者の領域を侵害する真似はしない。文芸部と生徒会の関係の劣悪さを理由に依頼を敬遠する程愚かでもない。にも関わらずあの男が動くならば、何か別の目的がある」
正解。こんなあっさりと気付かれるカモフラージュ、する意味あったのかな……ああ、建前か。
戸惑った表情を繕いつつそんな不毛な思考を巡らせる私に、空瀬先輩は続けた。
「伊藤と河井の会話への反応を見ても、お前は香宮に然程好意を持っていないのだろう。だから通用すると判断する。あの2人は評価通りの品行方正な優等生ではない、企みも服芸もお手の物な曲者だ。香宮という名字に俺達がどう反応するか分かった上で無関係なお前をここに送り込み、自分達は安全圏にいるまま何かを企んでいる」
実際には、無関係どころか思いっきり協力させられていますが。
物凄く正確な2人の評価を学内で初めて聞いて、ちょっと感動した。誰に聞いても無条件賛美だったから、ずっとむず痒い思いをしてきたのでなんだか新鮮。
「奴らが何故、何を目的に香宮を利用したのか、気にならないか」
語尾は上がらないけれど、問いかけのようだ。それも、彼等への疑問……あるいは反感を心の奥に滑り込ませ、今は反発しても無意識に彼等を探るよう仕向ける為の疑問。
うん、哉也があれほど嫌そうな顔をしていた理由は何となく分かった。他人の好意を利用する哉也と、言葉1つで他人を自発的に動かす空瀬先輩。相性が良いはずもないか。
「いいえ」
けれど、私としては哉也よりもやりやすい。
「私は、図書委員としての仕事さえ終わってしまえば、関係ありません。何が本当の目的かなんて知らなくても、記念誌は作成可能ですから」
無関心さを真っ直ぐな眼差しで飾り付けて、綺麗事を口にする。
「私はまだ入学したてでこの学校の事に疎いので、このような行事で学校の事を知るのは楽しいです。ですから、誰にどのような思惑があろうと、私は私に割り当てられた仕事をこなすだけです」
私の返事を聞いた空瀬先輩が、目を細める。
「都合の良い道具として扱われて、不愉快ではないのか」
「不愉快も何も、そもそも雑用って、そういう仕事ですよね?」
空瀬先輩の眉がぴく、と動いた。表情は変わらないけれど、私は小さな動揺と受け取った。隙を見たら即座に追い込むべし。お祖母様の教えが頭に浮かぶ。
「私は雑用として使われる事に納得してここに来ました。今回の企画に参加出来て楽しいですから、利用されていたとしても構いません」
「雑用では碌な仕事が出来ないだろう」
「1年生の頃から重大な仕事なんて、任せてもらえる筈もありませんから」
本来なら、と心の中で付け足す。……本当に、どうして中西は、ごく普通の1年生を哉也の血縁というだけでこんな事件に巻き込んでくれたのだろう。
文芸部との関係の悪さを思いっきり隠して放り込んでくれた2人には後で絶対に文句を言わせてもらおう。心の中でそう決めて、私は締めくくる。
「先輩方が中西生徒会長や香宮先輩に尋ねたい事がおありでしたら、直接聞かれた方が良いと思います。私は興味がありませんし、それこそただの1年図書委員に生徒会の活動を教えていただけるとも思いません」
これ以上探られるのも面倒なので、後は中西と哉也に丸投げ。これくらいしてもらわないと、割に合わないもの。
さりげなく黒い事を考えつつ、最後まで無関係な1年生に相応しい態度を貫くと、空瀬先輩は1つ息をついた。
「道理は通っているな。……池上」
「何だ?」
今まで黙ってやり取りを見守っていた池上先輩が、空瀬先輩の呼びかけに直ぐに反応する。……それにしても、空瀬先輩のここを仕切っている感凄い。主様って、こういう意味だったのかしら。
「女子1人で図書館まで部誌を全て運ぶのは不可能だろう。手伝ってやれ」
「え?」
「了解。貴戸ー、どこにいる?」
「こっち。私も持てないからよろしく」
いきなりの事に戸惑う私を余所に、池上先輩が貴戸先輩が歩いて行った方に動いたと思うと、直ぐに冊子の山を片手に引き返してきた。身軽な動きに、少し驚かされる。
「んじゃ、行ってくるわ空瀬」
「ああ」
「え、ええと、1人で大丈夫です」
ようやく状況に追いつき、慌てて首を振る。けれど、池上先輩は構わず空いている手で私の腕を掴んだ。
「ごちゃごちゃ言うな、めんどくせえ。良いからとっとと行くぞ」
「いえですから別に……ちょ」
ぐいっと引っ張られてバランスを崩す。この人、片手で20年分の冊子持ったまま私を引き摺るだなんて、なんて馬鹿力……。
「あー池上クン、乱暴はダメだよー。世の中そうそう池上クンと同じ力持ちの人なんていないんだから、丁寧にね。理解?」
蹌踉めくように引き摺られる私を見て、伊藤先輩が窘める。池上先輩は低い舌打ちをして、私の腕を放した。
「行くぞ」
「……はい」
本当は帰り際に頑張って部室棟を捜索しようと思っていたのだけれど、拒否権は無さそうだ。大人しく頷き、最後に空瀬先輩を振り返って丁寧に一礼し、私は文芸部を後にした。