部室棟のヌシ
「郷に入りては郷に従え、木を隠すなら森の中。当時のことは当事者に聞くのが、本当なら1番手っ取り早いんだ。その20年前前後から去年までの部誌を、咲希さんにはもらってきてほしい」
「私に?」
あえて名指しの指名を受けて私は思わずおうむ返した。え、生徒会長の中西が行くんじゃないの?
私この学校の文芸部の部誌なんか読んだことないし、そもそも部室の場所も知らないのだけれど。さてはこの生徒会長、そこの人にも恨みをかっていますね?
私はなんとなくうっすらと雑用の気配を察して、じとりとした視線を向けてみたが、中西は案外こわばった表情で首を横に振った。
「このことはおおっぴらにはできない。既に校内に爆弾が仕掛けられているかもしれないなんて、大事件なんだ。それこそ酷いパニックになる。今の段階でそんなことになれば、それこそ首謀者には思うつぼだ」
「ええ。それはまあ」
あれ、今のアイコンタクトで通じたの?
「だから、申し訳ないんだけど」
咲希さんにお願いしたいんだ、と中西は少しだけ強い語調で言った。
「俺がうまく言いくるめて20部程度かっさらってくるのは簡単なんだけど、事がどう転ぶか読めない。むしろ、妙な違和感は拭いきることができないと思うんだ。生徒会長が余計な動きをしていると知れて、今、校長を焦らせる訳にもいかない」
口元で男のわりに細く白い指を組んで、中西は一瞬だけ、哉也と目配せをする。
「お願い、できないかな?」
「ええ、それなら構いませんが……それは、私じゃなきゃいけないのでしょうか? 中西さんの、その、ご交友関係をもってすればそのくらいどうとでもなる気がするのですけど」
「はは……聞きかたによっては嫌みだね」
若干の棘を含ませてやったのに目敏く気づいたらしく、中西は苦笑いをする。いえいえ、そんなつもりじゃありませんよ、おほほ。を、そっと私は次の即答用に一応口内に装填しておく。
「ただ、女の子っておしゃべりだから。あまり突っ込んだ事に利用するのには向かないかな」
いえいえ、そんなつもりじゃありませんよおほほ……って、あれ。
今、なんだか想像してたのとちょっとズレた黒いお返事だったような。
「雑用と思ったならごめん、謝るよ。でもこの件に関しては、外部の者には極力秘匿にしておきたい。なにせ、人の命がかかっているからね」
「……はい」
「確か、咲希さんは図書委員だったよね?」
「ええ、そうです」
「重ねてお願いなんだけど、図書委員の仕事の一環として行ってもらえるかな。誰が行ってもおかしくないし、俺も昼休みに行ってみたんだけどここ5年から先の分は図書室の書庫にも置いていなかったんだ。回収のついでに、ざっくりだが部室棟の中も探せると思うしね」
「……分かりました。でも、流石に男子の部室は探せませんよ?」
「はっ。流石おモテになると心配事も増える」
腕を組んで鼻で笑う哉也がくつくつと笑う。
うわ、根に持ってる。もう4日も前のことなのに。
「うん、そこは探さなくてもいい。下手な動きは控えたいし、隠されているとしたらより散らかっている方を疑うのは妥当だ。女子の方には全然なさそうだったら、あたりがすぐつけられる」
哉也の嫌みをまるで無かったようにさらりと流して中西が続ける。助長しないでくれるのはありがたいんですけど、なにかこう、もうちょっと助け船出してくれてもいいのでは。
しぶしぶとしながら、私は一応こっくりと頷いた。
「それと」、と中西はもう一度、哉也と目配せをした。
「?」
哉也は少しだけ眉間に皺を寄せ、なにか嫌そうな顔で、息を鋭く吐いた。どうやらそれを中西は哉也への目配せの、肯定の意味ととったらしい。静かに頷き返して、また私の方を見た。
シークレットルームの埃っぽい空気が、一瞬、非常にざわめいた重さを感じさせた気がした。
「俺たちがそこへいけない理由が、もうひとつあるんだ」
「理由?」
何だろう。とても嫌な予感がする。
聞かなくてもいいなら、とりあえずもらってくるから不安にさせるだけさせるのはやめてもらえないだろうか。
「その、主という男なんだけれどね」
「……はい」
「彼は_______」
・ ・ ・ ・ ・
放課後の空は入道雲がそそり立ち、どこかのんびりした印象を持たせた。部室棟は本校舎から離れた別棟になるため、私は昇降口を出たところで、グラウンドの西日に目を細めていた。
「"部室棟の主"……どんな人なのかしら?」
文芸部の部長さんが他にも沢山ある体育会系の部の長を差し置いて"ヌシ"と呼ばれるなんて、よっぽどの人格者だということなのだろうか。
もし、それはそれは大層な人格者なのだとしたら、なるほど哉也が嫌がる理由も分かる気がする。哉也は性格詐欺だものね、なんて口が裂けても言えないけど。
グラウンドとプールを分かつように建つ部室棟は、数年前にプレハブからきちんとした校舎に建て直されていたはずだった。先日学校史の記録を調べたばかりだったから、『部室棟』という言葉が含む重みが文字通りじゃないとは露ほども考えていなかった。
入り口に立った瞬間、哉也が来ようとも思わなかった理由をすぐさま思い知ることになった。
「うわあ」
……汚い。
しかも臭う。とてつもなく臭う。
使ったまま半年ほど放置した書道道具と去年の体育祭からずっと洗わずにおいたジャージと、OBが残していったお弁当箱といった、あまり考えたくない数々のフレグランスを濃縮還元したような臭気。
え。ここで着替えたり部活したりしている人がいるの?
どうしよう信じられない。私だまされてない?
入り口から中を怖々のぞき込むと、シューズに履き替える際に下駄箱に入れるのすら横着したらしい大量の靴が無造作に転がり、自動販売機の横の空き缶入れには収まりきらなくなった缶がこれまたなぜだかタワー状にされたものが半壊して転がっている。面白がるもの、壊すもの……。
そしてその横には女子の字と思しき手書きの張り紙がされていて、『ヒトゴーマルマル時、補給業者有リ。運動部男子換気セヨ、苦情殺到』とでかでかと書かれている。
いやだますます入りたくない。
こんな時だけは、この学校が全面土足であることがありがたいと私は強く思う。いや、本当は土足でだって嫌なのだけれど、少なくとも上履きに履き替えられる「不潔じゃなさそうな」ポイントが微塵も見あたらない。
目も当てられない惨状をいきなり目の当たりにしてしまった私だったが、いくらなんでもこんな入り口で立ちすくんでいる場合でもない。もしかしたらこの建物のどこかで、今も爆弾が刻々とカウントを刻んでいるかもしれないのだ。
嫌々ながら意を決して外の空気を思い切り吸い込むと、私は鼻をつまんで飛び込んで一目散に階段を目指してそこを駆け上った。
さっき1度鞄をとりに教室へ戻ったときに、ちょうど友達の森本亜希子がまだ居残っていたから聞いておいたのだ。ここの1階は運動系の部活用フロアで、上にいくにつれて2、3階が文化系、4階が音楽系の部活動で使うそれぞれの部室になっているらしい。部活で毎日使うらしく、亜希子は文芸部の部室の場所も知っていて簡単に教えてくれた。
3階の一番グラウンド側の端の部屋、本が廊下まで溢れかえっているからすぐに分かるはず……。
小走りに3階まで駆け上がると、とたんにそこまで臭っていたいやなにおいではない、どこか懐かしい空気の層に突入したのが分かった。
「え……なにこのにおい」
少し切れぎれになる呼吸を整えながら、それでも、私はこの異様な有様の部室棟において、ことさらに異様な気配を感じ取っていた。
「このにおいは……樟脳?」
祖母の家の箪笥や倉でかいだことがある比較的ありふれた香り。
異臭と腐臭の塊のような空間の中で、ここの階はどうして、こんな懐かしいにおいがするのかしら……?
いぶかしみながら一歩足を出すと、スニーカーだというのに、そのひたりとした足音がひときわ壁に響いた。
ここは……静かなんだ。
見れば、もうそこかしこに段ボールが積まれていて、中途半端に開いた口からは相当な冊数の本がぎっしりと詰められている。
その本の山からはふわふわと懐かしいにおいがして、それらすべてが階下の異臭や表の騒音を吸い込んでしまうようで、ただひっそりと大切そうに置かれているのだった。
「……ここにいるのね」
部室棟の主が、ここにいるんだ。私はそれをひしひしと感じた。
さっき教室で会った時の亜希子の、どこか心配そうな表情と中西の曇った顔がさと脳裏をよぎる。
「……大丈夫。私は図書委員の仕事で来ただけだもの。できるできる」
すう、と深く息をすって、私は短く、しゅっと息を吐いた。
3階のグラウンド側の端の部屋まで、一直線に箱の群が道を成している。階段近くからそこへ至るには突き当たりで曲がるのだけれど、通路は、そこから真っ暗になっていて各部屋の窓から差す西日が唯一の光源となってぼうっと箱の陰を引きのばしている。
『図書委員の仕事なら私も手伝うよ、咲希?』
『何かあったならすぐに連絡をしてくれ。俺はここで待機しているし、哉也にも外には出てもらうからね』
吸って、もう一度だけ、深く私は吐く。
____『彼は、吉祥寺の人間だ』
……大丈夫、できる。
私はきっと前を見据えて、小道具のクリップボードを抱えなおした。
中西が見繕って渡してくれた、『春影高校文化祭、広報誌作成についてのお願い』という、部誌をもらうでっち上げの口実プリントだが、幾分か気持ちが落ち着く。
もしも、現校長に反感を持つ者がいるとするなら元卒業生である可能性がとても高い。公立とは言え春影高校は名門であるため、部活動を含む学校設備予算はほぼ実質、寄付金からまかなわれている。全国でも数少ない特待生制度もあり、地方でありながらも有名大学への高い進学率も健在な所以だ。
そんな春影高校だが、数年前から今の校長が赴任してからというもの、地元に住む私たちの耳には少し仄暗い噂が聞こえてきたりしていた。
”今の校長は地元の大口寄付家庭の生徒を優遇しない”というものだ。一般家庭からも寄付は義務づけていないから、ご時世的にはその方がもちろんいいのだ。けれど、代々そうやってエリートポストを得てきた進学校OBは、そう一筋縄ではいかないのだ。
その中でも大地主であり地元での権力も強い名家がいくつかあって、地元の者なら子どもでも名前を知らないはずはない。
私は少しばかり、鼓動が間隔を縮めるのを感じた。
___『彼は、吉祥寺の人間だ』
中西のくぐもった声が、遠くでリフレインされる。
__彼は、吉祥寺の人間だ。今の現当主の妾の子だって噂がある。彼らが悪いわけじゃないが、今回の犯人以外では最もこの不穏要素を悟られたくない相手だ。またしても校長の座が危うくなって、犯人はうやむやに消えてしまう。
”香宮”さんも同じ名家だから、できるだけ自然に振る舞って欲しいんだ。
……いやいやいや、結構な隠し事をこっちがしているっていう状況で、しかも文芸部の部長で部室棟の主てっていう頭のよさそうな人相手に演技しにいく私に、そこまで普通発破かけるかなあ?
暮れなずむ茜色の廊下を進み、一番端の扉まで来る。
このすぐ向こうに活動している人たちがいるというのに、ここでも息づかいひとつ聞こえない。しんと静まりかえって、自分の衣擦れの音の方が響くように聞こえる。
ぎゅっとクリップボードを抱え、胸に手をやる。
鬼がでるか蛇がでるか、私はもういっぱいいっぱいのやけくそ気味に、一際小綺麗なその白いドアを3回、こんこんこんとノックした。