有能過ぎて婚約破棄されたので、隣国王妃になります~いや、分かった上で仕組んだんだけど?~
華やかなる王国の夜会。国を代表する名門貴族たちが踊り、語り、更なる富と栄光を追い求める。豪奢に煌めくシャンデリアの光が大理石の床に幾重もの虹を鮮やかに落としていた。
そんな国の繁栄を象徴する場にて、あってはならない騒動が幕を開けた。
その場に居合わせた者は誰もが思ったことだろう。
結果はどうであれ、今日の出来事は歴史に刻まれることになるだろう、と。
王太子ルーカスが公爵令嬢エマニュエラの前に進み出たことで、楽団の奏でる曲は途切れ、広間を満たしていたざわめきが水を打ったように静まり返る。皆の視線は自然とルーカスおよびエマニュエラへと集中した。
「エマニュエラ!」
その声はいつも以上に芝居がかっていた。まるで自分の台詞に酔っているかのようだった。エマニュエラがわずかに眉をひそめたのもお構いなく、ルーカスは胸を張り、居並ぶ貴族たちを見渡してから続ける。
「僕は、お前との婚約を破棄する」
どよめきが広間を波のように駆け抜けた。
言い渡されたエマニュエラは表情を変えない。驚きも、悲しみも、彼女からは見られない。ただ静かに、ルーカスの隣に寄り添う小柄な令嬢を見つめていた。
男爵令嬢レベッカ。潤んだ瞳、震える肩。庇護欲を誘う仕草の一つ一つが計算されているのかいないのか、エマニュエラには判断する手間も惜しかった。
「これまで度重なりレベッカを虐げていたこと、もはや勘弁ならぬ!」
ルーカスは必要以上に大声を張り上げて続ける。
「陰で嫌がらせをし、その清らかな心を苦しめ、社交界から追い出そうとしていたことはもはや明白! 僕は……僕は、正直でひたむきなレベッカに惹かれ、真実の愛に目覚めたんだ。お前のような賢しらで冷たい女など、もううんざりだ!」
よくもここまで嘘八百を並べ立てたもので、とエマニュエラは内心で呆れ果てる。
彼女はレベッカに一切関わったことがない。虐げるどころか言葉を交わした回数さえ片手で数えられる。レベッカがルーカスの周りにいたことは把握していたし、派閥の令嬢がレベッカに注意していたことも耳にしているが、王太子との婚約と比べれば些事に過ぎない。
しかし、もはやそれを声高に否定する気にはなれなかった。否定したところでこの場にいる誰もが取り返しがつかないことは分かっている。そして、何よりエマニュエラ本人がもう疲れてしまっていた。
エマニュエラは膝を折り、優雅に一礼する。
まさかの言い渡しをされてもなお、エマニュエラの動きは洗練されていた。
「殿下の御心のままに」
彼女が口にした返事たったそれだけ。
それだけでルーカスとエマニュエラの長きに渡る関係に終止符が打たれた。
その落ち着きすぎた態度にルーカスの頬がかすかに引きつる。彼が期待していたのは涙ながらの弁明か怒りに満ちた反論であり、このように容易に予想できた素直な快諾などではなかった。
それがあまりに気に入らなく、思い通りになったにもかかわらず、ルーカスは怒りで顔を歪ませ、拳を固く握りしめた。そんな未だに感情を制御出来ない元婚約者を、エマニュエラは諦めに近い眼差しで見つめるだけだった。
――ああ、この人はもう、私の知っているルーカス様ではないのだわ。
エマニュエラの脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。
幼いエマニュエラが初めてルーカスに引き合わされたのは、庭園の薔薇が満開の季節だった。まだ声変わり前の少年は、緊張した面持ちで、けれど精一杯の礼儀正しさでエマニュエラに手を差し伸べた。
「これから、よろしく頼む。エマニュエラ嬢」
彼は微笑んだ。
社交辞令としての作り物ではない、心のこもった素朴な笑み。
エマニュエラはこの時固く誓った。この方に寄り添おう、と。
「僕たちは支え合っていく関係になるんだと、父上が仰っていた。だから……対等に、いこう」
その言葉をエマニュエラは大切に胸にしまった。公爵家の跡取りとして生まれながらも父である公爵代理から疎まれ、居場所を失いつつあったエマニュエラにとって、それは初めて与えられた「対等な絆」の約束だった。
だからエマニュエラは努力した。ルーカスの隣に立つに相応しい女性であろうと、寝る間を惜しんで学び、礼儀作法を磨き、政務の基礎から他国の情勢まで、あらゆることを吸収していった。
その甲斐あって、エマニュエラは瞬く間に社交界で名を馳せるようになった。地方の水害対策を的確に指揮し、汚職に手を染めていた官吏を証拠と共に告発し、圧政に苦しむ辺境の領民のために税制の見直しを提言していった。
十六になる頃には、「公爵令嬢は次期王太子妃に相応しい賢才」と、誰もが口を揃えて称賛するようになっていた。国王、王妃、公爵代理……大多数が彼女の成功を信じて疑わなかった。
だが、その称賛は同時に、ルーカスにとって重すぎる影となっていった。
ルーカスは決して愚かではなかった。
ただ、エマニュエラがあまりにも優秀すぎた。
何をしようとどこへ行っても聞こえてくるのは「さすがはエマニュエラ様だ」「殿下もエマニュエラ様を見習われては」といった言葉ばかり。素晴らしい婚約者を持てたとの誇りだったはずが、いつしか棘となってルーカスの心に刺さり続けた。
やがて芽生えた嫉妬は静かに、しかし確実にルーカスを蝕んでいった。
ルーカスがエマニュエラに対して横柄な態度を取るようになったのは、ルーカスがエマニュエラと比較されだしてからだいぶ経ってのことだった。
「お前は優秀なんだから、これくらいできるだろう」
その一言と共に、本来は自分がこなすべき政務の書類が、次々とエマニュエラの元に運び込まれるようになった。地方からの陳情の取りまとめ、他部署との調整、予算案の精査――自分よりも優れているのだから、これぐらい出来て当然とばかりに。
押し付けられた膨大な仕事の山を、エマニュエラは黙々とこなした。それが未来の王太子妃としての役目であるならば、と自分に言い聞かせながら。
だがルーカスは、そうして生まれた自分の自由な時間を研鑽や業務の改善などではなく、遊興に費やすようになっただけだった。そして、その空いた時間の中で出会ったのが、男爵令嬢のレベッカだった。
昼下がりの茶会でレベッカがうっかり躓き、ルーカスの腕の中に倒れ込んだ。それがきっかけだった、と、エマニュエラは人づてに聞いた。可愛らしく、甘え上手で、何を言っても屈託なく褒めてくれるレベッカに、ルーカスはあっという間に心を奪われていった。
エマニュエラはその頃には、もうルーカスに幻滅していた。
最初は歩み寄ろうと努めた。彼の弱音を聞き、体調を気遣い、政務の負担を少しでも分かち合おうとした。だが、どれだけ寄り添っても彼からは感謝の言葉一つない。そればかりか婚約者なのだから当然だと言わんばかりの態度を崩さない。
手が空いたならと更に仕事を押し付けられ続けるうちに、エマニュエラの中で彼への情が静かに冷えていった。
愛情はいつの間にか消えていた。
残ったのは婚約者としての義務感だけだった。
「――エマニュエラ嬢」
名を呼ばれ、エマニュエラは我に返った。ルーカスがなおも言葉を重ねている。
「確かにレベッカへの嫉妬は度し難い。しかし、しかしだ! 僕は寛大な男だ。婚約は破棄するが、お前のこれまでの貢献は高く評価している。その能力が一貴族の夫人に収まるのは実に惜しい! よって、これからも側室として王宮に残り、政務に携わることをこのルーカスが認めよう!」
広間が騒然となった。
それは温情のつもりなのだろう。だが、エマニュエラにはそれが、ただの都合の良い搾取にしか聞こえなかった。婚約者としての地位も名誉も奪っておきながら、便利な労働力としてだけは手元に置いておきたい――そういうことだ。
エマニュエラは顔を上げた。
今度ばかりは、はっきりと声に出す。
「お断りいたします、殿下」
「な……」
まさか拒絶されるとは微塵も思っていなかったのか、ルーカスの面持ちが驚愕に彩られていく。
「私はこれまで、殿下の婚約者として、また将来の王太子妃として、王家と国のために尽くして参りました。しかしそれは、殿下の隣に立つ者としての責務であり、殿下個人に仕える下僕としてではございません」
エマニュエラの声は静かだが、一言一言が刃のように広間に響いた。
「側室という肩書きで、私にこれまで通りの労働だけを求められるのであれば、それは婚約破棄ではなく、単なる都合の良い奴隷に他なりません。私にはお受けする理由がございません」
「お、お前……! 僕がここまで言ってやっているのに、恩を仇で返す気か!?」
ルーカスの顔が赤黒く染まった。理路整然と積み上げられる正論の前に彼が返せる言葉は、もはや癇癪じみた怒鳴り声だけだった。その姿はあまりにみっともなく、成り行きを見守る貴族たちは難色を示した。
「僕を、僕を愚弄する気か! 王太子であるこの僕に――」
「殿下」
その時、広間の奥から第三者の涼やかな声がかかった。
誰もがそちらを振り向く。
隣国の第二王子セオドアが、優雅な笑みと共に一礼した。
今宵の夜会に賓客として招かれていた彼は、今まで壁際で静かに成り行きを見守っていたが、ここで初めて歩み出る。
「随分と、興味深い茶番を見せていただきました」
その一言に、ルーカスの顔がさらに赤くなる。だがセオドアはルーカスになど目もくれず、まっすぐにエマニュエラへと歩み寄り、彼女の前に立った。
「エマニュエラ嬢。以前、視察でお会いした際、あなたの水利政策についての見識に感服しました。あの日から、私はずっとあなたのことを考えていた」
エマニュエラは目を見開いた。
数ヶ月前、隣国との合同視察でセオドアと言葉を交わしたことを思い出す。あの時、彼とは驚くほど話が弾んだ。互いの国の政策について、夜が更けるのも忘れて語り合ったのだ。有能な者同士にしか分からない、心地よい時間が流れたのが記憶に新しい。
「非礼を承知で申し上げる」
セオドアは片膝をつき、エマニュエラの手を取った。
エマニュエラが知らない、セオドアの情熱的な一面だった。
「私と共に我が国へ来ていただけないだろうか。あなたを、生涯かけて大切にするとここに誓う」
広間が、今度こそ完全に静まり返る。
エマニュエラはまっすぐにセオドアの瞳を見つめた。そこには打算も、憐れみも、都合の良い期待もなかった。ただ真っ直ぐに彼女個人を受け止め、彼女を尊重する対等な敬意だけがある。
いつしか失われた「支え合い」が、そこにはあった。
迷う理由は……何一つなかった。
「謹んで、お受けいたします」
エマニュエラはセオドアの手を取り、静かに立ち上がった。
そして二人は何事も無かったかのようにその場を退場しようとする。
「な……エマニュエラ! 待て、僕はまだ話が――」
なおも喚き散らすルーカスに、エマニュエラは一度だけ振り返った。その目にはもはや怒りも未練もなかった。愛も義理もとっくに枯れ果てている。ただ一つ残されていた義務に免じて、エマニュエラは最後に一言を送る。
「殿下。どうぞ、レベッカ様とお幸せに」
それだけ告げると、エマニュエラはセオドアにエスコートされ、広間を後にした。背後でルーカスが何かを叫んでいたが、その言葉はもう、エマニュエラの心に届くことはなかった。
その日のうちに、エマニュエラはわずかな荷物と共に、隣国への馬車に乗り込んだ。夜空には星が輝き、行く手を静かに照らしていた。まるで過去を手放して未来へと進みだした新たなエマニュエラの道を祝福するかのように。
振り返ることは、もうなかった。
◆◆◆
王宮に残されたルーカスを待っていたのは――想像を絶する混乱だった。
エマニュエラが一手に引き受けていた政務は、彼女がいなくなった途端に誰の手にも余るものとなって噴出した。
地方との調整、根回し、細やかな配慮――その一つ一つが、実はエマニュエラのきめ細やかな根回し、膨大な情報の整理の上に成り立っていたのだと、王宮の誰もが思い知らされることになる。
これまでルーカスの功績とされてきた数々の成果が、すべてエマニュエラによるものだったと露見するまで、そう時間はかからなかった。
「どうしてこんなことに……」
エマニュエラが優秀だったことはルーカスが一番思い知っていた。しかし彼にはエマニュエラを排除してもなお問題無いとの勝算があった。何故ならこれまでエマニュエラがいなくても国は回っていたのだから。
ルーカスは気付かなかった。王宮は既にエマニュエラがいることを前提に最適化されてしまっていることに。そして引継ぎが無いままにいなくなってしまったことで、彼女の能力に依存していた執務、計画が一気に破綻してしまったのだ。
なおも自分を苦しめるのか、とルーカスは嘆くしかなかった。
◆◆◆
馬車の窓から見える景色は国境を越えた途端に変わった気がした。エマニュエラの故国よりも山々が近く、空気は澄んでいる。遠くに雪を被った峰が連なり、その麓に隣国が誇る壮大な白亜の王城が朝日を受けて輝いていた。
「疲れただろう。少し休むといい」
向かいに座るセオドアが、気遣うように声をかけた。エマニュエラは首を横に振る。
「いいえ。むしろ、頭がすっきりしております」
それは本当だった。
長年背負っていた責任と重圧という自分を押し潰しかねなかった荷物を、背中から降ろしていくような感覚があった。
ルーカスのために、王家のために、公爵家のために――そうした義務から彼女は生まれて初めて解放されたのだ。
「あなたなら、そう言うと思っていた」
心が晴れたエマニュエラを優しく見つめてセオドアは小さく笑った。
「それで、着いてからの予定をお伺いしたいのですが」
「詳しくは向こうで擦り合わせたいが、これだけは言っておく。しばらく周囲が騒がしいだろう」
「落ち着くには最初のうちに忙しくしなければいけない、ですね」
「さすがだ。話が早くて助かる」
王城に着いたエマニュエラを待っていたのは、新たな王子妃となる高貴な令嬢の歓迎とは程遠い、張り詰めた空気だった。
隣国の国王は病に臥せっており、実質的な政務は王太子である第一王子アルベルトが握っていた。セオドアは第二王子でありながら諸外国からの信頼が厚く、地方の産業改革を次々と成功させてきた実績がある。そのため、貴族院の一部からはセオドアを次期国王に望む声も上がっていた。当然、アルベルト派との軋轢は深い。
そこへ、隣国の――しかも王太子直々による婚約破棄騒動の当事者である――公爵令嬢を連れて帰ってきたセオドアに対し、アルベルト派は格好の攻撃材料を得たと言わんばかりに騒ぎ立てる。
「他国で捨てられた女を後宮に招くとは、セオドア殿下の見識を疑う」
「もはや政略的な価値もない、ただの醜聞まみれの令嬢ではないか」
そうした声が、王城の廊下を這うように広がっていることを、エマニュエラは知っていた。だが動じることはない。この程度の悪意などルーカスの元でとうの昔に慣れきっている。小鳥のさえずりにも等しい。
「気にすることはない」
セオドアは眉を寄せた。
「あの者たちはいずれ黙らせる」
「殿下」
エマニュエラは静かに首を振った。
「黙らせる必要はございません。結果で示せばよいのです。そうすれば自然と口を閉じましょう」
その言葉通り、エマニュエラは行動に出た。
まず着手したのは、アルベルト派が長年放置していた国境地方の水路整備だった。故国で幾度も手掛けた治水事業の知見を活かし、エマニュエラは現地の官吏や技師たちと直接対話しながら、半年足らずで灌漑計画を立て直した。
次いで、税制の不備を突いて私腹を肥やしていた地方領主の不正を、証拠を積み上げて暴き出す。有力貴族相手だろうと容赦はしなかった。不当に取り立てられていた税は庶民に戻し、国に収められていなかった分は徴収、国庫は潤った。
その手際は、かつて故国で「公爵令嬢は次期王太子妃に相応しい賢才」と称賛された頃と、何一つ変わっていなかった。
「あれが、他国で捨てられただけの女だと?」
「噂には聞いていたが、まさかこれほどとは……」
王城内での評価はじわりと、しかし着実に変わっていった。
セオドアもまた、エマニュエラの存在によって変わっていった。それまでは一人で全てを担おうとしていた彼が、初めて対等に相談し、意見を交わせる相手を得たのだ。二人で夜通し政策について語り合うことも珍しくなかった。互角の知性がぶつかり合う時間は、エマニュエラにとって何よりも心地よいものだった。
「あなたと話していると、自分の考えに至らない点が残されていたと、よく分かる」
ある夜、書類を挟んで向かい合いながら、セオドアがふと笑った。
外で見せる礼儀正しいものではなく、心を開いた者にだけ見せる、優しい笑み。
「私も、何度も思い至らなかった可能性を指摘されて、とても刺激的です」
「それは良かった」
セオドアは真剣な顔で言った。
「隣国の誇る賢人を満足させられないのでは、と不安だったものでね」
エマニュエラは思わず笑ってしまった。
ルーカスとの婚約時代、こんなふうに笑ったことが、最後にいつあったかはもう思い出せなかった。
アルベルト派との対立は、国王の崩御を境に決定的な局面を迎えた。
アルベルトは強引に即位の儀を進めようとしたが、その裏で行われていた不正――地方の税収を私的に流用し、有力貴族への賄賂に用いていた事実が、エマニュエラの調査によって白日の下に晒された。貴族院はこれを重く見て、緊急の評議を開く。
その場で証拠を提出したのは、セオドア自身だった。エマニュエラが夜を徹して纏め上げた資料を手に、彼は淡々と、しかし一切の容赦なく、兄の罪状を並べていく。堂々とした姿は数多の貴族を唸らせた。
「私は、兄を陥れたくてこの事実を公表しているのではありません」
セオドアは静かに言った。
「ただ、この国の民が、必要以上の負担を背負わなくても良いと申し上げているだけです」
その言葉に、貴族院の空気が動いた。
数日後、支持を失ったアルベルトは王位継承権を剥奪され、セオドアが正式に王太子として立てられることが決まった。焦って不正に手を染めなければ立派な君主となっていただろうに、とセオドアは悲しかった。
戴冠の日、エマニュエラは玉座の間の隅で、静かにその様子を見守っていた。セオドアが跪き、王冠を戴く瞬間、彼はふと顔を上げ、群衆の中のエマニュエラを見つけて微笑んだ。それは政治的な勝利の笑みではなく、ただ、彼女がそこにいてくれることへの感謝を込めてだった。
式典の後、セオドアはエマニュエラの前に跪き、故国の夜会でしたのと同じように、彼女の手を取る。前回より更に感情をこめて、情熱的な眼差しと共に。
「エマニュエラ。もう一度、正式に申し上げたい。私の妻となり、この国の王妃として、共に歩んでくれないか」
周囲の貴族たちが息を呑んで見守る中、エマニュエラは迷わず答えた。
「謹んで、お受けいたします」
その声には、あの夜会での落胆も、義務感も、何一つ含まれていなかった。あるのはただ、これから始まる未来への確かな喜びだけだった。
賢王セオドアと賢妃エマニュエラの治世は、後に隣国の歴史上全盛期と讃えられるほどの安定と繁栄をもたらすことになる。
エマニュエラの立案した治水事業は数年のうちに国境地方の穀物生産量を倍増させ、セオドアの外交手腕によって周辺諸国との関係も改善されていった。宮廷内では王と王妃が対等に議論を交わし、互いの意見を尊重しながら政策を決定していく様が、これまでの王政にはなかった新しい統治の形として評判を呼んだ。
こうしてエマニュエラは、かつて夢見た「対等な絆」を、今度こそ本当の意味で手に入れたのだった。
「お前の意見を聞きたい」
セオドアがそう口にする度に、エマニュエラは確かな満足感を覚えた。彼から求められているのは都合の良い労働力ではない。ただの、エマニュエラという一人の人間としての意見だった。
やがて二人の間には子も生まれ、宮廷はさらなる賑わいを見せるようになった。エマニュエラは母として、王妃として、そして何より、セオドアの対等な伴侶として、幸福な日々を送っていった。
一方、故国からは、時折思いも寄らぬ……いや、どこか予想していた報せが届いていた。
エマニュエラが去った王宮は、彼女がこなしていた膨大な政務の重みを、身をもって思い知ることになった。次第に政治が様々な所で立ち行かなくなり、エマニュエラを事実上追い出したルーカスの支持率は坂道を転がるように落ちていった。
そして、ついにはルーカスが王太子の座から廃され、有能な第二王子が新たな王太子として立てられることとなった。
廃嫡されたルーカスの行く末について、エマニュエラの耳にも、いくつかの噂が流れ込んできていた。だが、それはもう、彼女にとって遠い異国の、遠い過去の物語でしかなかった。
窓辺で我が子を抱きながら、エマニュエラは故国の方角に一度だけ視線を向けた。
――どうか、その先で、それぞれが相応しい場所を見つけられますように。
それだけを思い、エマニュエラは静かに窓を閉めた。彼女の人生は、もうここに、この国に、この人と共にあるのだから。
◆◆◆
シャンデリアの光を反射する涙を、レベッカは頬に一筋、実に見事な間に挟んで流してみせた。それは絶大な効果を発揮し、周りで成り行きを見守る貴族たちの心に訴えかける。
「殿下……そこまで仰らなくても」
声を震わせながら、ルーカスの腕にそっと縋りつく。
周囲からは同情の眼差しが集まっていた。可哀想なレベッカ様、あの高慢な公爵令嬢にきっと酷い仕打ちを受けていたのだろう――そんな空気が広間を満たしていくのを、レベッカは俯いた顔の下で、実に冷静に観察していた。
(……本当に、我ながら口から出まかせがよくもまあ、こんなにも滑らかに出てくるものだこと)
ルーカスが声高に語る「エマニュエラによるいじめ」などでっちあげた。正統性を得るために噂がばらまかれるよう、エマニュエラの取り巻きに注意された事実をこれでもかと誇張したに過ぎない。
そもそもレベッカとエマニュエラの間にまともな接点などほとんどない。彼女本人からは指一本触れられたこともなければ、嫌味の一つも言われたことがない。エマニュエラにとってはレベッカなど歯牙にもかけない存在だったのは明白だ。
だが、それを訂正するつもりはレベッカには毛頭ない。
膝を折り静かに一礼するエマニュエラの姿を、レベッカは涙に濡れた睫毛の隙間から窺った。その表情には怒りも、悲しみも、驚きすらもない。ただ、遠くを見るような、諦めにも似た静けさがあった。
(やっぱりね。この人はとっくの昔にルーカス様のことを見限っていたんだわ)
その様子に、レベッカは内心でわずかに眉を寄せた。安堵と、それから、ほんの少しの不快感を味わいながら。
王太子ルーカスによる公爵令嬢エマニュエラへの婚約破棄騒動。
このすべての茶番はレベッカが仕組んだものだ。
半年ほど前まで、レベッカにとってルーカスとエマニュエラの婚約など、まるで縁のない他人事に過ぎなかった。
男爵家の娘として王城に出仕していたレベッカは、遠目にエマニュエラの活躍を眺めては、素直に感心していたものだ。王宮内に蔓延っていた汚職の芽を次々と摘み取り、地方の水害対策や不正の摘発、圧政に苦しむ領地の税制改革――エマニュエラが手掛ける政策は、どれも民の暮らしに直結する堅実なものばかりだった。
(大した御方だこと。あんな殿方の婚約者だというのに)
社交界の噂話などにさして興味のないレベッカでも、さすがにその評判は耳に入ってくる。自分が彼女の立場だったら三日どころか三秒で音を上げていただろうに、と思いつつ、世の中には自分とは比べ物にならない凄い人間がいるんだなぁ、と関心した。
だが、ある夜会の席で、レベッカはふと違和感を覚えることになる。
ルーカスがエマニュエラに向ける視線に、隠しきれない不機嫌さが滲んでいたのだ。
エマニュエラが何気なく他国の情勢について的確な意見を述べただけで、ルーカスの表情がわずかに歪む。それは、婚約者への誇らしさというより、明らかに苛立ちに近いものだった。
(何かあるわね、これは)
それからというもの、レベッカは何とはなしに二人の様子を気に留めるようになった。すると案の定、エマニュエラの元に積み上げられる政務の量が、目に見えて増えていった。本来であれば王太子自身がこなすべき書類仕事が、次から次へと彼女の執務室に運び込まれていく。
さすがのエマニュエラでも耐えきれまい、と思っていら、なんとエマニュエラは順応した。仕事を効率化させ、王太子としての執務、そして王太子から押し付けられる他部署の雑務を滞りなく回し始めたのだ。
それを見てレベッカが抱いた感想は、実にあっさりとしたものだった。
(すごいなぁ。もう全部彼女一人でいいんじゃないかしら?)
ただそれだけだった。この時までは。
転機は、ある昼下がりの茶会で訪れた。
招かれた庭園の茶会で、レベッカは絨毯の縁につまずき、大きくよろめいた。そのまま倒れ込んだ先が、たまたま隣に座っていたルーカスの腕の中だった。
「だ、大丈夫か!?」
慌てて支えるルーカスの顔を見上げながら、レベッカは内心で冷静に考える。
(あら、もしかして……これは使えるかしら)
が、それは打算というより、その場で頭の中に浮かび上がったとっさの反射的な考えだった。少なくともこの瞬間には馬鹿馬鹿しいと思い直した。所詮は数多の数ある茶会での些細な一幕に過ぎないのだから。
ただ、その日を境に、ルーカスは驚くほど頻繁にレベッカへ声をかけてくるようになった。
ある日は、
「今度、庭園で茶会をしよう」
また、ある日は、
「新しい菓子を取り寄せたんだ、一緒に食べないか」
誘いは日に日に増えていき、レベッカが少し困ったふりをして微笑むだけで、ルーカスは分かりやすいほど嬉しそうな顔をした。
贈り物も次々と届くようになった。宝飾品、ドレス、香水――どれもこれも、男爵家の娘には分不相応なほど豪奢な品々だった。
レベッカはそれを、ありがたく受け取った。だが、その使い道には、レベッカなりに明確な線引きをすることにした。
(いや、こんなのをホイホイ贈られて素直に喜ぶほど世間知らずじゃないわよ。王家や公爵家を敵に回すなんてどうかしてるわ!)
一体この贈り物の資金源はどこから捻出されてくる? ルーカスの懐からならまだいい。だが、もし本来エマニュエラのために使われるべきお金がレベッカに横領されているとしたら、レベッカまで共犯になってしまうではないか。
宝飾品やドレスといった、後で金に換えられる品は丁寧に保管する。だが、劇場での観劇や高級レストランでの会食など、後に何も残らない浪費には、決して深入りしなかった。
「殿下、今日は屋敷でゆっくり過ごしとうございます」
そう言って甘えるレベッカに、ルーカスは疑うことなく相好を崩した。レベッカでも内心で若干引いてしまうほどにルーカスは実に単純でちょろい男だった。こんな男を掴まされてエマニュエラも可哀そうに、と同情してしまった。
そうしてルーカスに甘え、ルーカスの心を掴み、やがて彼の思いのたけ、つまり愚痴を聞く時間が積み重なっていくにつれ、レベッカはある事実に気づいていく。
ルーカスがこぼす愚痴の中身は、決まって同じだった。
「エマニュエラは僕を馬鹿にしているんだ。自分が一度聞いただけで分かることをどうして何度も丁寧に説明しないと分からないのですか、てな」
「それは酷すぎます! 頭の構造の違いを加味しないなんて、エマニュエラ様の方が馬鹿なんですよきっと!」
「あいつがいると自分が惨めに思える。家臣は皆がエマニュエラを褒め称える。僕だって別に馬鹿でも愚図でもないのに、どうして及第点じゃ駄目なんだ?」
「比較対象がいるのがいけないんですって」
「挙句の果てにエマニュエラを見習えだって? 僕がどれだけ苦しいか、あいつには分からないのさ」
「何でも出来てしまうから、彼女は人の心が分からないんでしょう」
そういったルーカスの言葉……いや、もはや嘆きにも近い悲鳴を何度も聞かされるうちに、レベッカの中でエマニュエラという人物に対する見方が変わっていった。
(ああ、そうか。エマニュエラ様にとっては寄り添うべき相手はあくまで「王太子殿下」。その立場にある存在であってルーカス様個人ではないのだわ)
優秀であるがゆえに、ルーカスはエマニュエラに次々と仕事を押し付ける。いずれは「もう無理です」と訴えてくるのを期待していたルーカスだったが、エマニュエラはその全てを完璧にこなした。
やがて押し付けるだけ押し付けたルーカスの手元に残る仕事は無くなった。余った時間で何かを成そうとも頭の片隅には常にエマニュエラが引っかかる。どうせ何をしようがエマニュエラには及ばないなら、別に頑張らなくてもいいじゃないか。
やがて、ルーカスは怠惰を貪り、責任からも努力からもいよいよ縁遠くなっていく。それでも仕事だけは、エマニュエラの能力によって、表面上は滞りなく回り続けてしまう。あまりにも異質で、異常で、しかし問題の無い状況が続いていった。
(いや、これヤバいってもんじゃないわ。このままだと……いずれこの国は詰む)
レベッカの脳裏に、ふとそんな懸念がよぎった。
確かにエマニュエラが現れてからこの国の治世は格段に良くなった。けれど逆に言えば今の繁栄はエマニュエラによってもたらされたもの。いつの間にかこの国は彼女に依存してしまっているではないか。
エマニュエラ一人の有能さに寄りかかった統治体制は、彼女がいなくなった瞬間に瓦解する。それは決して健全な国の形ではない。エマニュエラが優秀であればあるほど周囲はその歪さに気づかず、彼女に責任が集中するばかりだった。
(エマニュエラ様がこの国の陰の支配者になる、ですって? そんな優れた一個人におんぶ抱っこなんて危うい均衡が許されるわけないじゃないの。誰かがこの状況を崩さないと……)
レベッカの中で、ある一つの考えが、静かに固まり始めていた。
もっとも、だからと言ってすぐに効く処方箋を出せる程レベッカは賢くない。レベッカ自身は勿論のこと、他の誰かにエマニュエラの後釜に座ってもらおうなどという意志は、欠片ほどもなかった。
未来の王太子妃という重責も、それに伴う魑魅魍魎が跋扈する社交界のしがらみも、レベッカにとっては真っ平御免だ。ルーカスとこうして茶をしばくのも、立場を無視した単に気が合う個人的付き合いに過ぎない。実際、レベッカは日頃から周囲に対して、ルーカスのことを「大切なお友達」以上の言葉で語ったことは一度もなかった。
(さて。どうしたものかしら)
茶会でルーカスの愚痴を聞き流しながら、レベッカは扇の陰で、ひそかに次の一手を思案し始めていた。
◆◆◆
次の一手を思案し始めてからレベッカが動くまでに、さして時間は要らなかった。
もっとも、レベッカが選んだ方法は陰謀と呼ぶにはあまりにも単純なものだ。何しろ相手はレベッカがしなだれてから少し眉を下げて見せるだけで、いくらでも都合よく物事を解釈してくれる男なのだから。
「殿下は、いつも私に良くしてくださいます」
ある夜、庭園の東屋でルーカスと二人きりになった時、レベッカはそっと切り出した。いつも以上にか細く、弱く、儚く聞こえるよう、声をわずかに震えさせつつ。涙を滲ませればより完璧だが、あいにくそこまでの名女優にはなれない。
「けれど……時々、怖くなるのです。私といることで殿下が……周りから何か言われているのではないかと」
「な、何を言われたんだ! 僕がお前と一緒にいて、誰が文句を言うと――」
「エマニュエラ様に、ですわ」
その名を口にした瞬間、ルーカスの表情が分かりやすく強張る。レベッカは「かかった」と心の中で笑みをこぼす。無論、魚釣りとは違うので餌に食いついたからと感情を表に出す真似はしなかったが。
「先日、廊下ですれ違った際、エマニュエラ様が私を一瞥なさって……何と申しますか、蔑むような目で見られた気がして。取るに足らない存在だと、そう思われているのだろうなと」
これは半分本当で半分嘘。エマニュエラがレベッカに向けた視線など、レベッカ自身には思い当たる節すらない。ここで重要なのは完璧な嘘としないこと。今の発言の場合、エマニュエラがレベッカを全く気にも留めていない取るに足らない存在、という一点のみが真実で、後はレベッカの憶測を並べているに過ぎない。
だが、ルーカスの中ではその言葉は瞬く間に「嘘偽りの無い事実」へと変換されていく。ルーカスとて他の者からの発言は鵜呑みにしたりしないが、エマニュエラの件でレベッカが訴えた、という点で疑うという選択肢は存在しない。
「エマニュエラ……! やはりアイツは僕のことも、僕が大切に思う人間のことも、何とも思っていないんだ!」
(あら、随分と早く食いついてくれること)
あまりにもちょろすぎて、レベッカは扇の陰で小さく息を吐いた。
あとはこの不信感という火種に少しずつ薪をくべていくだけでいい。
後に糾弾された際に重い罪にならないよう、火加減を調整しながら。
それから幾度となくレベッカは似たような話を繰り返した。
エマニュエラの何気ない一言をあたかも棘のある皮肉であったかのように、大げさに仕立て直す。エマニュエラの多忙さをあたかも「自分より能力で劣る者に頼る必要など無い」であるかのように想像を膨らませる並べる。
事実のほんの少しの脚色を加えるだけで、ルーカスの中の被害妄想は面白いように膨れ上がっていった。
その一方で、レベッカは決してルーカスとエマニュエラの婚約関係については口にしなかった。あくまで自分はルーカスの理解者という立ち位置を崩さない。期待させるだけ期待させ、向こうから道を踏み外してもらう。その決断をルーカス自身にさせるための材料だけを、丁寧に積み上げていった。
結末を口にするのは必ずルーカス自身でなければならない。それがレベッカの綴った絶対に譲れない筋書きだった。
そして迎えたあの夜会の日、ルーカスは自らの意志で――少なくとも本人はそう信じ切って――エマニュエラへの婚約破棄を宣言する。
シャンデリアの下で交わされる茶番を、レベッカは涙を流しながら、実に冷静な目で見届ける。なお、この日のために涙を流せるよう頑張って訓練したのはルーカスにも内緒だ。
(さて。ここまでは予定通りね)
エマニュエラが淡々と婚約破棄を受け入れる様子にもレベッカはさして驚かない。周囲の反応も概ね同じようだ。今まで良く我慢してきたものだ、縁の下で不甲斐ない王太子を支え続けたエマニュエラが受け入れるのは当然だ、と半分以上の貴族は思っただろうし、そりゃああのエマニュエラと比較され続けてたら捻くれて当然だ、王太子という責任に目を瞑れば同情する余地が少しはある、と思った貴族だって少なくないだろう。
だが、その後の展開はその場に居合わせた多くの者にとって予想しなかったものだった。逆に、満を持しての展開にレベッカは「キター!」と内心で歓喜の声を上げてその登場を歓迎した。
ルーカスがエマニュエラを側室に留めようとし、それをエマニュエラが理路整然と拒絶するまでは予定調和のようだった。だが、隣国の第二王子セオドアが進み出て、エマニュエラに求婚するという展開は、誰もが羨むほどの逆転劇だろう。
セオドアがエマニュエラに懸想を抱いているとの噂をレベッカは耳にしたことがある。決して結ばれることの無い恋路、と同年代の令嬢で話し合われていた。現にセオドアは決してエマニュエラとルーカスの婚約関係にヒビを入れるような真似はせず、あくまでエマニュエラの友人として交流していた。
しかし、エマニュエラが婚約破棄されたなら、もはやセオドアが引き下がる理由、そして障害は何も無くなる。だったらセオドアが名乗りを上げることは簡単に予想できたことだ。予想「は」出来たが……、
(それにしたって今この場で求婚するのは早すぎよね。でも、すっごく効果的。この場があっという間にエマニュエラ様を祝福する空気に変わったわ)
エマニュエラがセオドアの手を取り、堂々と広間を後にする姿を見送りながら、レベッカは内心で拍手を送りたい気分になった。これが最良の結末と断じていいだろう。
(セオドア殿下。エマニュエラ様を連れて行ってくださって本当にありがとうございます。国にお戻りになってお二人で幸せに暮らしてください)
もとよりエマニュエラには退場してほしかったが破滅してほしかったわけではない。ただ、彼女に依存しきった今の統治体制そのものが危ういと考えていただけのこと。その根本原因たるエマニュエラが、こうしてあっさりと国外へ去ってくれる結末は、最良と評価してよかった。
夜会の翌日、レベッカのもとには、当然のようにルーカスの新たな婚約者候補としての打診が舞い込んでくる。ルーカスは公然と、レベッカを次の婚約者に据えるつもりでいるようだった。
無論、男爵令嬢という身分からも、教養や気品といったあらゆる能力においても、彼女が新たな王太子妃となるに相応しい材料は何一つ無い。ルーカスの強い意志が働いているに過ぎない。そして、レベッカは現実と妄想を混同していないし、不相応な苦労を背負うほどお人よしでもない。
レベッカはルーカスからの打診をにべもなく、しかし表向きは実に丁重に固辞した。
「殿下のお気持ちは身に余る光栄でございます。ですが、私のような者が王太子妃という大役を務めるなど、あまりにも荷が重うございます」
その言葉に嘘は無い。無いが、拒否する理由はもっと単純だ。
レベッカはそもそも身に余る権力や財力が全く興味がない。
身分相応。人生なんて余力を持ちつつのんびりと過ごせればいい。
そんな夢を覆すだけの強い気持ちを結局ルーカスには持てなかった。それだけだ。
レベッカは常日頃から、周囲に対してルーカスのことを「大切なお友達」以上に語ったことは一度もない。恋愛感情があるそぶりをしたことは否定しない。が、自分がエマニュエラに成り代わる、などといった大それた発言は決してしていない。あくまでもエマニュエラ排除のために彼の好意を利用しただけだ。
目的を達成した今、これ以上ルーカスの傍にいる理由は、レベッカにはもはや何一つない。
巻き込まれる前に逃げる。
レベッカはそそくさと領地に引っ込む算段をとっくの昔に整えている。
「しばらく、領地の視察に専念したく存じます。お世話になりました」
そう届け出て、王城を後にするレベッカの足取りは、驚くほど軽かった。
ルーカスには当たり障りの無い別れの手紙を残したが、彼に届けられるかはもはやレベッカの知ったことではない。もう彼と道が交わることなどありはしないのだから。
レベッカは領地の屋敷でのんびりと茶を啜りながら、王都から届く報せに時折目を通す。それは約束された混乱がつらつらと綴られていた。
エマニュエラが去った王宮は、案の定というべきか、みるみるうちに機能不全に陥っていった。地方との調整、根回し、税制の管理といった、これまで当然のように処理されていた業務の一つ一つが、実はエマニュエラ一人による膨大な下地作業の上に成り立っていたのだと、王宮の誰もが今更ながらに思い知らされている様子だった。
ルーカスがこれまで自らの功績として誇っていた成果も、大半がエマニュエラによるものだったと露見し、彼の評判は坂道を転がるように落ちていった。今更エマニュエラを捨てたことを後悔したってもう遅い。
(このままいけば、殿下は遠からず責任を負って廃嫡されるでしょうね。順当にいけば有能な第二王子殿下が次の王太子になる。あの方ならきちんと立て直せるでしょう)
窓の外に広がる領地の畑を眺めながら、レベッカはそう予測を立てている。対策は簡単で、エマニュエラが一人でこなしていた仕事を人海戦術で処理出来るよう、エマニュエラがいなかった頃の体制に戻せばいいだけ。エマニュエラが政務に携わった期間は多く見積もっても十年ほど。それならノウハウはまだ残っているだろう。
しかし、それはもうレベッカにとってさして重要な問題ではない。ルーカスがどうなろうともう知ったことじゃない。自分はただ自分の枠に収まる次期女男爵という役目さえ果たせばいい。あとは王都の顛末を遠くから眺める観客の一人として見届けるだけだ。
そう、この時のレベッカは、まだそう思っていた。
だが、その予測は、そしてレベッカ自身の未来は、間もなく、思いもよらぬ形で覆されることになる。
◆◆◆
その報せが領地に届いたのは、婚約破棄騒動から季節が1つだけ移り変わった頃、レベッカがその日の執務を追えて優雅に茶を飲んでいた時のことだった。
「――は?」
王都から遣わされた使者の口上を聞き終えたレベッカは、目を見開きつつ思わず素の声を漏らしてしまった。あまりに動揺したため、手にしていたティーカップを危うく取り落とすところだった。
王太子の座から退いたルーカスとの婚姻を、正式に命ずる。
王命はそう告げていた。
(ルーカス殿下と私が? しかもルーカス殿下がどこか地方に封ぜられたから嫁入りしろ、じゃなくて、我が男爵家に婿入りさせる、ですって?)
レベッカの脳裏に思い描いていた計算がすべて音を立てて崩れていく。どうしてこうなった、と現実を受け入れられない。しかし自分の頬をつねったところで痛みが襲ってくるだけで、夢のように現実は覚めやしない。
巻き込まれる前にさっさと領地に退いたはずだった。ルーカスの新たな婚約者になる気など欠片もないと、あれほど明言していた。ルーカスを扇動した点だって彼が乗りやすかっただけの話で、自分に非はあまり無かったのに。
だが、事態は、レベッカの想定を大きく超えて動いていた。
レベッカの誤算は二つあった。彼女の想像を超えてエマニュエラを失った影響が王国にとって深刻で、ルーカスがレベッカを深く愛してしまったことだ。
ルーカスは正当にエマニュエラを評価せぬままに放逐した責任を取り、王太子の座を第二王子に譲ることとなった。そして、どうしてエマニュエラを不当に扱ったか、何故この国を捨てさせる決断をさせるまでに至ったか、これまでの顛末が整理され、王国として一つの結論が出された。
男爵令嬢レベッカは、王太子ルーカスを結果的に誑かした責任を取ること。
第一王子が男爵家に婿入り。これは王家の嫡男としては重い罰として充分に機能する。そしてその原因が男爵令嬢と添い遂げるためだというなら、その願いだけは叶えてやろうではないか。そんな中央の考えが透けて見えた。
悲しいかな、レベッカにはこうなった顛末も簡単に想像出来た。大方ルーカスはレベッカがいなくなってからも彼女への愛を日々公言していたのだろう。そしてレベッカとエマニュエラを比較していたに違いない。ルーカスがここまで強い思いを抱くのなら、レベッカはもう無関係ではいられなかった。
(拒否権は……無いわよね)
レベッカは幸せが逃げてしまいそうなほどに深いため息を漏らした。
輿入れの日、いや、この場合は婿入りの日というべきか。男爵邸にやってきたルーカスの姿は、レベッカの記憶にある傲慢な王太子とは似ても似つかないものだった。レベッカが思わず自分の目を擦るほどに。
王宮での地位、権威、これまで当然のように享受していた栄華など、全てを失ったルーカスはすっかり自信をなくし、覇気の抜けた顔をしていた。かつては輝いていたはずの瞳には、今や自嘲と怯えばかりが浮かんでいる。
「……こんな、無様な男を婿になど迎えたくはなかっただろう」
馬車から降り立ったルーカスはしばらくの沈黙の後、ぽつりと呟いた。レベッカを真正面から見ていられないのだろう。ルーカスは俯き加減で決して彼女と目を合わせようとしない。声もか細く、かつ沈んでいて、危うく聞き逃すほどだった。
こんなのルーカスらしくない。
レベッカはそう思わずにはいられなかった。
(本当に、世話の焼ける人)
レベッカは微笑を浮かべ、ルーカスに対して優雅に一礼する。
それは決して押し付けられた厄介者に対するものではない。
これから生涯を共にする伴侶を歓迎するための礼儀だ。
「ようこそいらっしゃいました、婿殿。男爵家一同、貴方様を迎え入れる日を心待ちにしておりました。長旅でお疲れでしょう。早速中に案内いたしますわ」
「レベッカ、僕は……むぐっ」
「ルーカス様は体も心も癒さなきゃ駄目です。積もる話はゆとりを取り戻してから聞きますので」
「……。分かった。ありがとう」
レベッカはルーカスを新しい家族として受け入れた。一緒に食事をし、共に庭園を散策し、気兼ねなく語り合う。婚約破棄騒動前とは違った落ち着いた関係。レベッカは夫婦としての絆を速やかに構築するようにした。
そしてレベッカはルーカスにまず小さな役割を与えた。難しすぎることは求めない。ただ、彼の仕事には必ず彼の名前を残した。そして、ルーカスが成果を上げる度にレベッカはルーカスのことを褒めちぎった。
「さすがですわ、ルーカス様。丁寧な仕事ぶりにうちの文官達も尊敬の眼差しを送ることでしょう。これで村の者の生活も改善します」
「昨日のルーカス様のご提案ですが、採用しようと思います。私も手伝いますので、完遂出来るようこれから一緒に頑張りましょう」
王太子だった頃は出来て当たり前だった執務が感謝される。これがルーカスのやる気と自信、そして責任感を刺激する。余裕が生まれるとルーカスの方がレベッカに対して更に役割を増やすよう進言してくるようになった。
(当り前よね。ルーカス様はあくまでエマニュエラ様と比較すれば見劣りしていただけだもの。本来のこの方の能力は決して低くないわ)
ルーカスに必要だったのは彼を認めることだった。
エマニュエラを筆頭に王宮の者達はそれが出来ていなかった。
本音を知ったところで才女たるエマニュエラには彼の気持ちは分かるまいが。
半年ほどが過ぎる頃にはルーカスは怯えや自信の消失を克服した。
無論、かつてのような尊大さが戻ったわけではない。むしろ、王太子であった頃には無かった地に足のついた落ち着きがルーカスに芽生えつつあった。
「レベッカ」
ある晩、屋敷の縁側で並んで月を眺めながら、ルーカスがふと口を開く。
「僕は、ずっと勘違いをしていたんだと思う」
「何をですか?」
「誰かに認められることと誰かより優れていることを、同じだと思い込んでいた。エマニュエラより劣っていることが、自分の価値の全否定されたみたいに感じられていたんだ」
「……無理もありません。あの方は太陽のような方でしたから。無くてはならない存在ですけど、直視すれば目が潰れてしまいます」
違いない、とルーカスは自嘲気味に笑う。
過去を見つめなおし、受け入れる。それは以前のルーカスからは考えられなかった。
大人になったものだ、とレベッカは感想を抱く。
「でも、レベッカは違った。僕にできることを、僕のやったことを、ありのままに認めてくれた。だから僕はレベッカに惹かれたんだ。そして……それは決して間違いなんかじゃない。僕は……レベッカに救われたんだ」
レベッカは少しの間、何も言わずにルーカスの横顔を見つめる。
端正な顔立ちはレベッカの好みど真ん中。
そんな王子様は言動で補正がかかって男友達の域を超えなかった。
それが今や、レベッカにとってもかけがえのない存在になっていた。
(本当に単純な人。……人のことは言えないけれど)
それでも、その単純さが今のレベッカにとっては悪いものだとは思えない。むしろ、そんな裏表の無い素直さがいっそ好ましいとさえ思えた。
「私は、あなたの隣であなたにできることを、共にやっていくだけですわ」
レベッカがそう微笑みながら答えると、ルーカスは面食らった顔をした。
そして、彼は真剣な、しかし熱を帯びた眼差しをレベッカに向ける。
それはまるで情熱的な恋を抱く青年のようで、レベッカに青春を想起させる。
「レベッカ。僕は一生、君だけを愛すると誓う。今度こそ、間違えない」
その言葉に、レベッカは苦笑を浮かべながらも、ルーカスの手をそっと握り返した。
「ええ。どうぞ、末永くよろしくお願いいたしますね、ルーカス様」
窓の外では、収穫を控えた畑が、月明かりの下で静かに揺れていた。
◆◆◆
それから数年の月日が流れた。
レベッカとルーカスの治める男爵領は、周辺でも指折りの豊かな土地へと変貌を遂げていた。水路は整備され、収穫量は着実に増えた。領民たちの表情には、以前にはなかった余裕が浮かぶようになっていた。
そんな繁栄をもたらしたのは、間違いなくレベッカだった。
「男爵様、今年の収穫祭の準備ですが……」
「ええ、こちらで確認しますわ。ルーカス様には集まる村長達への挨拶回りをお願いしましょう。あの方はそういう場での気配りが得意ですから」
レベッカは屋敷の執務室で次々と運び込まれる書類に目を通しながら、的確に指示を出す。かつて王宮で取るに足らない男爵令嬢と見なされた娘は、今や誰もが一目置く女男爵として、その手腕を存分に振るっていた。
ルーカスもまた、レベッカの隣で自分の役割をこなす日々を送っている。領民との顔合わせ、地方行事での挨拶、帳簿の管理……それはかつての王太子としての栄光には程遠い仕事ではあったが、彼はそれを率先してこなすようになった。
「レベッカ、今日の視察は無事に終わったよ。あの地区の開拓は順調に進んでいる。これなら来年の収穫は期待出来そうだ」
「よろしゅうございました。ルーカス様が顔を出してくださると、皆さん安心なさいますもの」
その言葉にルーカスは嬉しそうに笑った。
かつて、エマニュエラと比較され続けることに追い詰められていた男の面影は、もうそこにはない。等身大の自分を、等身大のまま認めてもらえる場所で、ルーカスはようやく、心穏やかな日々を手に入れていたのだった。
それを婚約者だったエマニュエラではなく、男爵令嬢風情の自分が果たしてしまうのは運命のいたずらだったのか。それとも巡り合わせによる必然だったか。どちらにせよ、ルーカスとの相性という一点に限っては自分の方がエマニュエラより勝っていたようだ、とレベッカは独りごちた。
王都からの報せは、その後も時折領地に届けられた。
第二王子改め新王太子のもとで王国は着実に立て直しを進めているという。エマニュエラが去った直後こそ政務の停滞や混乱が巻き起こったものの、優秀な官吏たちが力を合わせ、また新王太子自身も地道に組織改革を進めた結果、王国は数年をかけて、かつてのような安定した統治体制を築きつつあるという。
その報せを読みながら、レベッカは静かに頷く。
(さすがに傑物抜きだと立て直しに数年も要するのね……。でも、ちゃんと元通りになれた)
エマニュエラという一人の傑出した人材に依存しきっていた統治は、確かに彼女の下で盤石だっただろう。しかしそれは彼女に依存しきった脆いものだ。儚くなるばかりでなく、例えば病欠になったり子宝に恵まれたら? たちまちにたちいかなくだろう。
残された者たちの手で立て直せたのは彼らが優秀だったのもあるだろう。しかし、それ以上にエマニュエラの台頭する期間が長くなく、それより前を知る者がまだ多く残っていたのが大きい。もしルーカスがエマニュエラとの関係を割り切っていたら……次の世代は暗黒期に突入していたかもしれない。
もっとも、その評価は決してエマニュエラ個人の価値を貶めるものではない。ただ、一人の人間にすべてを背負わせ続けることの危うさを王国は身をもって学んだ。それが今回の顛末だったというだけのことだ。
(エマニュエラ様はこの再建を耳にした時、どう思うのかしら? 安堵? 何の感慨も湧かない? それともご自分が及ぼした影響度に衝撃を受ける?)
いや、きっと違う。隣国で王妃として思う存分腕を振るっているエマニュエラにとって、この国での経験はもう過去のものだ。あくまで今の立場として見解を述べる程度で、次の瞬間にはもう別のことを考えていることだろう。
エマニュエラを失ったこの国の行く末は、エマニュエラを迎えた隣国がどう発展するか、その結果は未来が見届けることになるだろう。エマニュエラを失う日を迎えた時、隣国の次世代がこの国の二の舞にならなければいいのだが。
ただ一つ言えるのは、どう転ぼうがエマニュエラはその叡智と共に名を遺すだろうことぐらいか。
(そして……その時、私はどう伝わっているのかしらね?)
エマニュエラを追放した稀代の悪女として記録されるか。それともただのありふれた男爵として忘れられるか。
出来れば後者であってほしいものだ。悪評とはいえ、名を轟かせるなんて身の丈に合っていないから。
夕暮れ時、レベッカは執務室の窓辺に立ち、金色に染まる領地の畑を眺めていた。
隣国で賢王と賢妃が築いた繁栄も、この国で新王太子が立て直しつつある王政も、そしてこの小さな男爵領でレベッカとルーカスが少しずつ育て上げてきた豊かさも。それぞれの場所でそれぞれが己の手で幸福を育んでいる。
レベッカはエマニュエラを排除したことに後悔はない。
もしやり直せたとしても同じ選択をするだろう。
この国はエマニュエラのような才媛を必要とするほどまだ困っては……、
(いえ、そんなの建前ね)
もっと穏便な手を講じなかったのは、単にムカついたのだ。
やれば出来る筈のルーカスが妬み、僻みで狂っていくほど眩かった彼女が。
……どうやら自分が考える以上にルーカスが心の中を占めているようだ。
「レベッカ、夕食の支度が整ったそうだ」
ルーカスの声に、レベッカは振り返った。かつて王太子であった男性は今はただのレベッカの夫として、穏やかな笑みを浮かべている。
「ええ、すぐに参りますわ」
窓の外に広がる壮大な景色を一瞥してからレベッカは静かに歩き出す。
その足取りは婚約破棄騒動よりも前、ルーカスと愚痴をこぼし合っていた頃から変わらず、活気にあふれていた。
お読みいただきありがとうございました。
今回は執筆方法をがらっと変えてみました。以前よりも文章がだいぶ自然になったので楽になったと思う反面、1から推敲したい方には向いてないかもしれません。
ご意見、ご感想お待ちしています。




