第12話 離間
パドゥーラ軍本陣へ、再び鬨の声が迫っていた。
斜面の下から押し寄せてくるリービッヒ兵の数は、先ほどまでより明らかに多い。
中央を押すのはギルフォード。
その後方で全軍を動かしているのは、モンドだった。
「右翼、第二防柵まで突破されました!」
駆け込んできた伝令の声に、本陣の空気が張り詰める。
だが。
本来ならば、即座に命令を下すべき男が動かなかった。
アムルは椅子に腰を下ろしたまま、戦況図を見ている。
見ている。
ただ、それだけだった。
「侯爵閣下、右翼への増援を――」
「……」
返事がない。
伝令が困惑したようにロックを見る。
「予備隊の半分を右翼へ回せ!」
ロックが怒鳴った。
「はっ!」
伝令が走り出す。
その背中を見送ると、ロックは大股でアムルのところまで歩いた。
「アムル」
「……何だ」
次の瞬間。
ロックはアムルの胸倉を掴んだ。
「しゃっきとしろ」
アムルは抵抗しなかった。
「聞こえてんのか」
「……聞こえてる」
「だったら、しゃっきとしろ!」
怒声が本陣に響く。
周囲の兵士たちが一斉に振り向いた。
だが、ロックは構わなかった。
「お前はパドゥーラ侯だ」
アムルの目が、わずかに動く。
「今のお前がどうだろうと関係ねえ。兵はお前の旗の下で戦ってる」
「……」
「ここで座り込んでる暇はねえぞ」
アムルは何も言わない。
ロックはさらに顔を近づけた。
「エルがいねえから何だ」
その名前に。
アムルの顔が僅かに歪んだ。
「お前には、まだ背負ってるもんがあるだろ」
「……」
「見ろ」
ロックは周囲を顎で示した。
「こいつらは、お前が何とかしてくれると思って戦ってるんじゃねえ」
アムルがロックを見る。
「お前のために戦ってる奴もいる。家族を守るために戦ってる奴もいる。パドゥーラを守るために戦ってる奴もいる」
胸倉を掴む手に力が入った。
「だから、お前も自分の仕事をしろ」
長い沈黙のあと。
アムルが小さく息を吐いた。
「……分かった」
「本当か?」
「ああ」
ロックが手を離す。
アムルは乱れた襟元を直し、もう一度戦況図へ目を落とした。
敵の配置。
右翼への圧力。
中央に残るギルフォード。
そして。
モンドなら次に何をするか。
しばらく盤面を追う。
やがて。
先ほどまでとは違う声が出た。
「右翼への増援は、そのままでいい」
ロックが見る。
「中央の予備は残せ」
「理由は?」
「父さんは右翼を押して、こっちの予備を引きつけるつもりだ」
アムルの指が戦況図の中央へ動く。
「そのあと、ギルフォードが中央を割りに来る」
ロックも地図を見る。
「……なるほどな」
「ただ」
アムルは顔を上げた。
「本陣はお前に任せる」
「俺に?」
「ああ」
「お前がやらなくていいのか」
「今ここで指揮するなら、お前の方がいい」
ロックは少しだけ黙った。
アムルはかなり戻っている。
戦場も見えている。
モンドの意図も読めている。
だが。
この危機の中で、一瞬一瞬の決断を積み重ねるには、まだ鈍い。
そして。
本陣を守り切ることだけを考えるなら。
ロック以上の適任者はいなかった。
「分かった」
ロックは剣を担ぎ直した。
「なら、ここは俺が守る」
「ああ」
「お前は総大将の仕事をしろ」
「分かってる」
それだけ言うと、ロックは前線へ向かった。
完全に元へ戻ったわけではない。
それでも。
アムルはようやく椅子から立ち上がった。
◇
攻撃は、日が傾くまで続いた。
「押せ! 止まるな!」
ギルフォードの号令とともに、リービッヒ兵が再び防柵へ殺到する。
槍がぶつかる。
矢が飛び交う。
一度は第二防柵まで食い込んだ兵たちも、ほどなくして押し戻された。
「また駄目か」
モンドは遠くから、その様子を見ていた。
「はい」
戻ってきた伝令が息を整える。
「第二防柵の一部までは確保しました。しかし、敵の増援が早く……」
「分かった。下がって休め」
「はっ」
伝令が去る。
モンドは再び敵陣へ視線を向けた。
午前中までとは、明らかに守り方が変わっている。
アムルの指揮ではない。
アムルなら。
ここまで一か所に兵を集めない。
守る場所。
捨てる場所。
敵へ渡しても構わない場所。
それらを選び、敵を動かし、戦場そのものを使って勝とうとする。
だが。
今のパドゥーラ軍は違う。
一度守ると決めた場所から動かない。
柵を一つ奪えば、その後ろにまた兵がいる。
そこを抜いても、さらに次が待っている。
敵を罠へ誘うでもない。
大きく回り込むでもない。
ただひたすら。
本陣へ通さない。
「ロックか」
モンドが呟いた。
隣にいたギルフォードが頷く。
「おそらく」
「さすがは鉄壁だな」
モンドはわずかに目を細めた。
「よく守る」
だが。
攻略できないわけではない。
むしろ。
この戦い方ならば、やることは単純だった。
ロックは退かない。
ならば、押し続ければいい。
一度で崩れないなら二度。
二度で崩れないなら三度。
こちらにも損害は出る。
だが、兵力では勝っている。
同じように削り合えば、先に尽きるのはパドゥーラ軍だ。
「明日も、このまま押しますか」
「ああ」
モンドは頷いた。
「休ませる暇を与えるな。こちらも削られるが、向こうの方が先に尽きる」
「承知しました」
ただし。
一つだけ警戒すべきものがある。
背後。
モンドは少し離れた場所にいる娘へ声をかけた。
「エル」
「なに?」
「エヴァンスはどうだ」
「問題ないよ」
エルは即座に答えた。
「エヴァンスの部隊は、パドゥーラ侯の部隊と動きが似てるから」
平坦な声だった。
「問題なくさばける」
「そうか」
「うん」
それだけだった。
実際。
エヴァンスの部隊は何度かモンド軍の背後へ食い込もうとしている。
だが、そのたびにエルが先回りしていた。
突破するために兵を集めれば、その先を厚くする。
エヴァンスが攻撃点を変えれば、こちらも兵を動かす。
無理に正面からぶつかる必要すらない。
相手が何を狙っているのか。
次にどこへ動くのか。
それを読んで、先に塞ぐ。
エヴァンスの部隊は強い。
パドゥーラ軍の中でも間違いなく精鋭だった。
だが。
その戦い方は、アムルから多くを学んでいる。
そして。
アムルの戦いを誰よりも長く見てきたのが、エルだった。
「敵、右翼へ移動を始めました」
副官が報告する。
エルは一度だけ、そちらを見る。
「行かせて」
「よろしいのですか?」
「うん」
「第五隊だけ残して」
「はっ」
「次は中央に寄せてくるから」
副官は僅かにエルを見る。
「承知しました」
それから間もなく、右翼で戦闘が始まった。
しばらくして。
エヴァンスの部隊が下がる。
そして。
予想どおり、中央へ兵を寄せ始めた。
「……」
エルは何の感慨も見せなかった。
モンドも、それ以上は聞かなかった。
背後は任せていい。
ならば。
自分は正面のロックを崩す。
「今日はここまでだ」
西の空が赤く染まり始めていた。
「兵を休ませろ。夜明けからまた攻める」
「承知しました」
一日目。
パドゥーラ軍本陣は落ちなかった。
だが。
モンドに焦りはない。
ロックはよく守る。
しかし。
守るだけなら、いつかは尽きる。
明日も押す。
その次も。
鉄壁であろうと。
削り続ければ、いつかは崩れる。
◇
「このままじゃ、もたねぇ」
その夜。
パドゥーラ軍本陣で開かれた軍議は、重苦しい空気に包まれていた。
ロックの鎧には何本もの傷がつき、腕には新しい包帯が巻かれている。
「今日一日は何とかした。明日も、たぶん何とかする」
そこで言葉を切る。
「だが、その次まで同じことをやれと言われたら、保証できねぇ」
誰も答えなかった。
「エヴァンスに期待したいところだが」
ロックは戦況図を見る。
「そっちも厳しいだろうな」
全員が分かっていた。
エヴァンスは本陣救援のため、モンド軍の背後を突こうとしている。
だが。
エルに阻まれていた。
突破できる保証などない。
机を囲む誰もが口を閉ざしていた。
そんな中。
一人だけ、普段と何も変わらない男がいる。
ホウアンだった。
「一遍の書簡と、わずかばかりの金があれば十分な話です」
いつも通り。
抑揚のない声。
アムルが顔を上げる。
「何の話だ」
「この状況を打開する方法です」
ロックが眉をひそめた。
「あるのか?」
「あります」
ホウアンは平然と答える。
アムルが短く言った。
「続けろ」
「では」
ホウアンは頷いた。
「離間の策を使いましょう」
「離間?」
ロックが聞き返す。
「はい」
「現在、リービッヒ王国が最も恐れているものを利用します」
アムルが見る。
「何を恐れてる」
「モンド様とエル殿の裏切りです」
アムルの眉が動いた。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味です」
ホウアンは淡々と答えた。
「今、お二人はリービッヒの将として侯と戦っている」
「……」
「では、もしお二人が侯と手を結んだら、どうなるでしょう」
「そんなことはしない」
アムルが即座に言った。
「父さんもエルも、そんなことはしない」
「承知しています」
「二人とも、そういう人間じゃない」
「私もそう思います」
ホウアンは少しも動じない。
「ですが、我々がそう思っていることに何の意味があります?」
「……」
「重要なのは、王宮がどう思うかです」
ホウアンは戦況図へ視線を落とした。
「パドゥーラ侯アムル」
「軍務尚書モンド=ドゥットゥカース」
「エル=リージェット」
指がそれぞれの位置をなぞる。
「この三人が再び同じ側へ立つ」
誰も口を挟まなかった。
「王宮から見れば、悪夢でしょうな」
アムルの表情が険しくなる。
「父さんは裏切らない」
「もちろん、そうでしょうな」
ホウアンはあっさり認めた。
「ですが、リブロフ王宮の連中はそんなことには関心がありません」
「……」
「彼らが興味を持つのは、自分たちの保身だけです。そのために侯は有害なのです」
アムルがホウアンを見る。
「そして、仮に我々が敗れ、侯がここで死ぬことがあれば――」
ホウアンの指がモンドとエルの位置へ動く。
「モンド殿とエル殿は用済みになります」
「……」
「二人は凱旋と同時に、その運命が決まるでしょう」
アムルの顔が強張った。
「門閥貴族どもにしてみれば、侯の勢力が削がれればそれでよい」
「……」
「そして、モンド殿とエル殿にも常に疲弊していてもらうのが一番都合がいい」
ホウアンの声は変わらない。
「侯を削る」
「……」
「モンド殿の軍も削る」
「……」
「エル殿も疲弊する」
誰も口を挟まなかった。
「それが理想でしょうな」
ロックも黙っている。
「ですが」
ホウアンは続けた。
「勝ちすぎるのも困る」
「……」
「侯を破れば、モンド殿とエル殿の名声はさらに高まる」
「……」
「軍からの支持も増す」
「……」
「それはそれで、門閥貴族自身の破滅を招きますからな」
アムルは何も言わない。
「モンド殿は、パドゥーラ侯を破った軍務尚書として凱旋する」
「……」
「エル殿も、この戦いで侯の軍を破った将として名を上げる」
「……」
「しかも二人とも、侯と深い繋がりを持っている」
ホウアンがアムルを見る。
「侯がいなくなった後、門閥貴族どもがその二人をいつまでも手元に置いておくと、本気でお思いですか」
「……」
アムルの拳が握られた。
「侯が生きている間は違います」
ホウアンは淡々と続ける。
「侯がいる」
「……」
「強大なパドゥーラがある」
「……」
「だから、モンド殿とエル殿が必要になる」
アムルは俯いた。
「モンド様とエル殿の生命を支えるのは」
ホウアンは言った。
「侯の生命と、強大なパドゥーラであるということをお忘れなく」
「くっ……」
アムルは返す言葉がなかった。
正論だった。
父とエルが。
自分を抑えるために必要とされているのであれば。
ここで戦い続け。
自分が倒れることもできない。
自分が死ねば。
二人は役目を終える。
勝者として名声だけを持ってリブロフへ帰る。
その先に何が待つのか。
これまで自分が見てきたリービッヒという国、門閥貴族達のことを思えば。
考えるまでもなかった。
「侯」
ホウアンが続ける。
「私は、モンド様とエル殿を救うために、この策を申し上げているのではありません」
アムルが顔を上げる。
「お二人がどうなろうと、私には関係ありません」
「ホウアン」
低い声だった。
だが。
ホウアンは構わない。
「私が生かさねばならないのは侯です」
「……」
「侯にここで死んでもらっては困る」
軍議にいる者たちを見る。
「ここにいる者は、侯以外、皆そう思っております」
「……」
「もちろん私にも、まだ侯に果たしていただかなければならないことがあります」
アムルは何も言わなかった。
ホウアンにとって。
リービッヒ王国は守るべき国ではない。
復讐すべき相手だった。
そのためにも。
アムルには生きてもらわなければならない。
「モンド様とエル殿が裏切る可能性がある」
ホウアンは言った。
「そう王宮に思わせます」
書簡を使う。
宮廷内には金をばらまく。
それだけだった。
どう仕掛けるかはホウアンの仕事だ。
アムルが細部まで聞く必要はない。
そして。
今のアムルに。
そんな余裕もなかった。
アムルは戦況図を見つめた。
今日。
ロックは耐えた。
明日も。
恐らく耐える。
だが。
その先は分からない。
戦い続ければ。
誰かが死ぬ。
自分が死ねば。
父とエルまで危うくなる。
逃げ道はなかった。
しばらくして。
アムルが低く言った。
「……やれ」
ホウアンが頭を下げる。
「御意」
それだけだった。




