第10話 肉薄
◇
「エル隊、突入してきます!」
本陣へ報告が飛び込む。
ホウアンが地図を見る。
「閣下」
「ああ」
今度のアムルはすぐに答えた。
「中央左翼を当てます」
「やれ」
「エル隊左側面へ!」
命令が飛ぶ。
中央左翼が向きを変える。
突出したエルの側面を叩き、エヴァンスも反転できれば、まだ挟み込める。
判断そのものは正しい。
だが。
「敵中央、圧力増大!」
次の報告が入った。
ホウアンが顔を上げる。
蒼い疾風旗。
モンド。
こちらがエルへ兵を向けた瞬間を見て、中央へ攻撃を強めてきた。
「モンド殿が来ます」
「分かってる」
「このままエル隊へ兵を回せば中央が薄くなります」
「中央左翼を半分戻せ」
「半分ではエル隊を止めきれません」
「ああ」
「全部戻せば、エル殿が通ります」
一瞬。
アムルが黙った。
どちらを選んでも、一方は捨てなければならない。
「正面を支える」
アムルが言った。
「承知しました」
一度左へ向けた兵が、再び正面へ戻る。
その間にモンド軍がぶつかった。
槍と盾の音が重なり、中央の戦列が大きく揺れた。
◇
「反転!」
エヴァンスが叫んだ。
「右を厚くしろ!」
その時。
正面のギルフォード隊が止まった。
それまで下がり続けていた兵たちが、一斉に足を止める。
「……やっぱりか」
エヴァンスが歯を食いしばった。
ギルフォードが剣を抜く。
「反撃!」
今度はリービッヒ兵が前へ出た。
エヴァンス隊は二方向を向かされることになった。
正面にギルフォード。
右後方にエル。
「前衛はそのまま! 第三、第四隊は右! 本隊への道を開け!」
命令に従い兵が動く。
まだ崩れてはいない。
だが、戻るべき道には紅い疾風がいる。
無理に突破しようとすれば、今度はギルフォードへ背を晒すことになる。
「本陣へ戻りますか!」
副官のコリントが叫ぶ。
エヴァンスは紅い疾風、その向こうにある碧い疾風を見た。
遠い。
「……無理だ」
「では?」
「東へ抜ける!」
決断は早かった。
「本陣は諦める! パウロのところへ行くぞ!」
「はい!」
「全隊、ラレド側へ! 隊列を崩すな!」
およそ四千。
打撃は受けている。
それでも、まだ軍として動ける。
「下がるな! 横へ抜けるだけだ!」
エヴァンス隊はギルフォードの圧力を受けながら、少しずつ戦場の東へ弾き出されていった。
◇
ロックも異変に気づいた。
正面からの圧力はまだ続いている。
だが、先ほどまでより明らかに薄い。
その分の兵が中央へ流れている。
左を見る。
蒼い疾風旗が中央へ寄り、その先では紅い疾風旗がすでにパドゥーラ軍の戦列へ深く入り込んでいた。
「そういうことか」
それまでの苦笑が消える。
「こっちが本命じゃなかった」
「モンド将軍が?」
副官が聞く。
「いや。あの人は本気で抜きに来てた」
ロックが耐えられなければ、そのまま突破するつもりだったのだろう。
陽動ではない。
ただ、本当に決着をつけるための攻撃が別にあった。
「中央へ五百回せ!」
「しかし、こちらも――」
「残りで耐える!」
ロックが怒鳴った。
「本陣まで行かせるな!」
「はい!」
五百の兵が中央へ向かって走る。
ロックは遠くの紅い疾風旗を見た。
「間に合えよ……」
そしてすぐに正面へ向き直る。
モンド軍はまだ目の前にいる。
「来るぞ! こっちは俺たちで持たせる!」
◇
エルはさらに前へ出ていた。
左では、残してきた部隊がアムル直属軍の攻撃を受け続けている。
「第一隊、押されています!」
「まだ持てる?」
「はい!」
「なら持たせて」
その向こう。
蒼い疾風が中央へ近づいている。
「モンド様の部隊、入りました!」
「うん」
父は来た。
約束通り。
こちらが抜けた場所を、そのままにはしなかった。
「父さんの部隊が入る。残した部隊は大丈夫」
エルは前を見る。
敵本陣が近い。
「進むよ」
「はい!」
紅い疾風旗がさらに奥へ入った。
◇
「敵、本陣方向へ!」
伝令が駆け込んでくる。
「紅い疾風旗です!」
ホウアンが顔を上げた。
アムルも、もう肉眼で見ていた。
紅い疾風旗。
その下の銀髪まで見える。
「中央右翼を寄せろ!」
「モンド隊と交戦中です!」
「予備は」
「残りわずかです!」
「ロックは」
「増援を送っています!」
だが、まだ来ない。
左翼のエヴァンスはすでに切り離され、東へ押し出されている。
右翼のロックは、モンドを受けながら中央へ兵を割いた。
そして中央には、蒼と紅の疾風旗。
二つが碧い疾風旗へ近づいていた。
◇
「通して」
エルが言った。
「押せ!」
ケントが槍を振るう。
本陣前の護衛兵へ、リービッヒ兵がぶつかった。
槍と盾が激突し、怒号が重なる。
その向こう。
碧い疾風の下に、一人の男が立っていた。
アムル。
エルの手綱を握る手に力が入る。
顔が見える。
昨夜、月明かりの下で見た顔が、今は兵たちの向こうにある。
『君のことは愛してる』
その声が蘇った。
『この手で君を斬る』
エルは剣を握り直した。
自分も答えた。
あなたを斬る。
そのために全力を尽くす。
ここまで来た。
なら。
「……行く」
「エル様?」
ケントが振り返る。
エルは答えず、アムルから視線を外さなかった。
◇
アムルにも見えていた。
紅い疾風旗。
銀の胸当て。
黒と紅のマント。
短い銀髪。
エル。
「閣下! 敵が本陣前まで!」
護衛の声は聞こえている。
それでも、視線はエルへ向いたままだった。
目が合う。
昨夜。
斬ると言った。
エルも同じことを言った。
そして、本当にここまで来た。
「……そうか」
アムルが剣の柄へ手を伸ばす。
エルも馬を前へ出した。
◇
「急げ!」
ロックが叫んでいた。
「走れ! 本陣まで行かせるな!」
五百の兵が中央を駆ける。
紅い疾風旗。
碧い疾風旗。
二つが、あまりにも近い。
◇
「エル様!」
護衛兵の一角が押し込まれる。
その向こうにはアムルがいる。
エルが馬腹を蹴ろうとした。
その瞬間。
「させるか!」
横から怒声が飛んだ。
パドゥーラ兵数百が、エル隊の側面へ一気に突っ込んでくる。
「敵増援!」
ケントが馬を返した。
「左!」
槍列が横腹へ激突し、紅い疾風が大きく揺れた。
「エル様!」
エルはまだアムルを見ていた。
近い。
あと少し。
だが、その間へ次々とパドゥーラ兵が入り、道を塞いでいく。
「こちらを!」
ケントが叫ぶ。
エルは一度だけ目を閉じた。
そして開く。
「……分かった」
馬首を返した。
「増援を止める」
「はい!」
紅い疾風旗が向きを変え、ロックから送られた兵へぶつかった。
◇
アムルはそれを見ていた。
紅い疾風旗が兵の向こうへ消えていく。
「……ロックか」
「そのようです」
ホウアンが答える。
アムルは剣の柄から手を離した。
だが、状況が戻ったわけではない。
左翼のエヴァンスはすでに戦線から切り離され、およそ四千を率いてラレド方面へ向かっている。
右翼ではロックがまだモンドを止めているものの、中央救援のために兵を割いた。
中央にはモンド軍とエル隊が食い込み、パドゥーラ軍の戦線は完全に裂けていた。
ホウアンも同じものを見ている。
「閣下」
「……ああ」
「この戦線は維持できません」
アムルは答えなかった。
「エヴァンス殿は切り離されました。ロック殿はまだ持っていますが、中央救援のため兵を割いています。このまま踏みとどまれば、次はロック殿まで巻き込まれます」
ホウアンが地図の中央を指す。
「本陣まで下げます」
アムルは地図を見た。
今度は長く迷わなかった。
「……分かった。退く」
「承知しました」
ホウアンはすぐに振り返る。
「全軍後退! 本陣まで退け! 隊列を崩すな!」
太鼓が鳴り、旗が振られる。
野戦は、ここで終わった。
◇
「後退だ!」
伝令を受けたロックが叫ぶ。
「第一隊から下げろ! 第二隊は残れ。一度に背中を向けるな!」
兵を一隊ずつ後ろへ送る。
モンド軍は当然、そこへ押し込んできた。
「来ます!」
「分かってる!」
槍列がぶつかり、ロック隊がまた数歩押される。
それでも止める。
後ろでは、味方が本陣へ向かっている。
「急げ! 俺たちは最後でいい!」
ロックは正面を向いたまま、最後まで戦列を支え続けた。
◇
「退くか」
モンドが言った。
「そうだね」
ヴァンが答える。
「追う」
モンドは即答したが、目の前のロック隊は後退しながらもまだ戦列を保っている。
「ヴィオラに伝えろ。無理はするな。崩せるなら崩せ。無理なら本陣まで押し込めと」
「はい」
中央を見る。
紅い疾風旗も、すでに攻撃方向を変えていた。
「エルにも伝えろ。深追いするな」
「よろしいのですか」
「ああ」
戦線は裂いた。
エヴァンスは東へ追い出した。
アムルとロックは本陣へ下がる。
今日の目的としては十分だった。
「ここで無理をする必要はない」
モンドはそう言って、下がっていく碧い疾風旗を見送った。
◇
東。
エヴァンスも、ギルフォードの圧力を受けながらラレド方面へ移動していた。
「味方の旗が見えます!」
「パウロか!」
「はい!」
「良いところまで出てきてくれている」
ラレド側には、再建途中の守備隊がいる。
今の状態では自力で野戦へ出せる軍ではない。
だが、エヴァンスの四千が加われば話は変わる。
「このまま合流する!」
「はい!」
「本陣には戻れない。だったらこっちは俺たちで持つぞ!」
エヴァンス隊は隊列を保ったまま東へ抜け、ラレド側へ向かった。
◇
日が傾き始めた頃。
アムルとロックの残存兵力、およそ七千は本陣まで後退した。
エヴァンスは約四千をまとめたままラレド方面へ退き、パウロのいる守備隊へ合流する。
パドゥーラ軍は壊滅していない。
打撃は大きい。
だが、まだ戦える。
それでも、この日の野戦に敗れたことだけは明白だった。
本陣では碧い疾風旗が風に揺れている。
その下に戻ったアムルは、何も言わず遠くの戦場を見ていた。
少し遅れて、最後まで敵を押さえていたロック隊も帰ってくる。
遠くには、まだ蒼と紅の疾風旗が見える。
アムルの視線は、そのうち紅い疾風旗から離れなかった。
野戦は終わった。
そしてパドゥーラ軍は、本陣まで押し込まれた。




