第4話 誕生日
276年10月18日。
「早く行って事情を話そう」
アムルへの召還令を読み終えたエルが最初に口にしたのは、その一言だった。
パドゥーラ侯庁舎会議室。
長机を囲んでいた者たちの視線が、一斉にエルへ向けられた。
「ライプニッツで何があったのか、ちゃんと説明すればいい。アムがトーマを殺そうとしたわけじゃないし、私たちがリービッヒに逆らおうとしたわけでもない。だったら――」
「お止めなさい」
エルの言葉を冷たい声が遮った。
壁際に立っていたホウアンである。
「なんで?」
「行けば、生きて帰れる保証がありません」
あまりにも淡々とした物言いだった。
エルが眉を寄せる。
「私たちは何もしてないでしょ。事情を説明すれば無罪だって分かる」
「何もしていないというもはや問題ではありません」
ホウアンは即答した。
「すでに宮廷内では侯を糾弾し、いかに断罪するべきかが論じられております。さらに、あのラレド侯ですら兵を集めております」
「パウロ君が?」
「はい」
エルの表情が変わった。
ラレド侯パウロ=フランツベルク。
南北戦争以来の戦友であり、隣領ということもあって友好的な関係を築いてきた。
そのパウロまでが、フランツベルク家の責務を果たすべく兵を集め始めている。
しばらく黙っていたエルは、やがて顔を上げた。
「だったら、余計に早く行かないと手遅れになるよ」
「……」
「このまま放っておいたら、本当にパドゥーラとリービッヒで戦争になっちゃうよ」
エルは机へ両手をついた。
「私ももちろん同行する。パウロ君にも父さんにも話す。カレリア様にも事情を説明する。その上で、みんなに何があったのかちゃんと分かってもらえば私たちに離反の意思がないことなんて誰でもわかる」
「エル様」
「だって、そうでしょ? それに何もしなかったら、もっと悪くなるだけ」
ホウアンは答えなかった。
代わりに、ずっと腕を組んで黙っていたロックが口を開いた。
「……俺は反対だ」
エルが意外そうな表情を浮かべ振り返る。
「ロック?」
「俺とエヴァンス、二人の意見だと思って聞いてほしい」
隣のエヴァンスも静かに頷いた。
ロックは一度アムルを見てから言った。
「アムルをリブロフへ戻すのは反対だ」
「たしかに――」
「嬢ちゃんなら殺されねえかもしれない」
その言葉に、エルが口を閉じた。
「嬢ちゃんはモンド将軍の実の娘だ。カレリア様とも親しい。向こうだって、いきなりお前をどうこうするとは普通なら思えない」
そしてロックはアムルを指した。
「でも、大将は違う」
「……俺?」
「お前だよ」
ロックはいつになく真剣だった。
「お前が行ったら、確実に殺される」
室内が静まり返った。
「トーマが死んだ。フランツベルク家は怒ってる。召還令まで出た。そんなところへノコノコ行ってみろ。何をされるか分かったもんじゃねえ。むしろ何もなかったらそれこそおかしい」
「ロック……そんなこと、私がさせない」
「嬢ちゃん」
ロックの声が低くなった。
「貴族ってやつらは違うんだよ。あいつらは俺たち平民を人だなんて思っちゃいない。嬢ちゃんはそれなりの生まれで、能力もある。だから理解しにくいかもしれねえが、俺たちは生まれた時からずっと虐げられてきた。嬢ちゃんだってこいつが野良犬とかなぜ揶揄されているか知っているだろ」
「……」
「それにな」
ロックはエルを見る。
「もし大将が死んだら、俺たちはどうなる?」
エルは答えられなかった。
「俺やエヴァンスだけじゃねえ。兵士も、市民もだ。今までこいつについてきた奴らはどうなる? パドゥーラにいる奴らは多くはリービッヒじゃ生きにくい奴らだ。そいつらはどうなる?」
その問いに答えたのはティーエだった。
「ボクからもいい?」
丸眼鏡を押し上げる。
「アムルが仕事をしなくても、パドゥーラは回るよ」
「おい」
「でもね」
ティーエは笑わなかった。
「アムルが仕事をしないのと、アムルがいないというのは全然違う」
アムルも黙る。
「アムルがいたから多くの人が集まった。機会が得られなかった人間に機会が与えられた。ボクだってそうだよ。ボクは大貴族の生まれでもない。家を継ぐ人間ですらない。パドゥーラじゃなかったら、こんなに仕事を任せてもらえなかったと思う」
主計を預かり、今ではパドゥーラの行政そのものに深く関わっている。
それは能力だけで得られた地位ではない。
能力を使わせる仕組みを、この土地が作ったからだ。
「アムルがいなくなって、それが全部そのまま残るわけなんてないよ。そして、それはアムルとエル分かってて進めていたはずだろ」
誰も続かなかった。
アムルは椅子に深く腰掛けたまま、しばらく天井を眺めていた。
「……エル」
「うん」
「今回は行かない」
「アム」
「みんなの言う通りだと思う」
エルの顔が曇った。
「でも、このままじゃ――」
「分かってる」
「戦争になるかもしれないんだよ?」
「それでも」
アムルは首を振った。
「今は戻らない。召還には応じられない」
エルは何か言おうとして――やめた。
それ以上、会議の席でアムルを説得することはなかった。
リービッヒ中央からの召還令を黙殺することが決定された。
◇
10月26日。
エルのもとへ一通の書状が届いた。
差出人の名を見た瞬間、エルは息を呑んだ。
「カレリア様……」
短い手紙だった。
召還に応じてほしい。
事態をこれ以上悪化させないためにも、まず話し合わなければならない。
それがカレリアの願いだった。
そしてまずは私のところにきてほしいと。
「……やっぱり」
エルは書状を胸元へ抱いた。
まだ間に合う。
カレリアがいる。
父もいる。
パウロもいる。
話せば分かってくれる人は必ずいる。
けど、アムルを行かせる必要はない。
だから自分が行けばいい。
「大丈夫」
誰に言うでもなく、エルは呟いた。
「私なら、なんとかできる」
◇
同じ頃。
「エル様の動きには、注意された方がよろしいかと」
ホウアンの報告に、アムルは露骨に嫌そうな顔をした。
「エルを疑えって?」
「私はそのようなことは申し上げておりません」
「同じだろ」
「では、何もせずに放置なされますか?」
「……」
アムルは頭を掻いた。
「エルは勝手なことしないし、今の状況は理解してくれている」
「そうであれば、それに越したことはありません」
「嫌な言い方する」
「事実を申し上げているだけです」
アムルはしばらく考え込んだ。
「……護衛を増やす」
「承知いたしました」
「監視じゃないからな」
「無論です」
「エルの身辺警護だ」
「そのように手配いたします」
ホウアンは表情一つ変えなかった。
◇
10月30日。
「先生」
ヴァンは顔を上げた。
そこに立っていたエルを見て、穏やかに目を細める。
「どうしたんだい?」
「相談したいことがあります」
いつになく真剣な表情だった。
「うん。座りなさい」
エルは椅子へ腰掛けた。
それから、カレリアから届いた書状を差し出した。
ヴァンはそれを受け取り、最後まで読み、静かに机へ置いた。
「エルは行きたいんだね」
「……うん」
「アムルには?」
「言ったら絶対に止められます。それにすでに監視も……」
「そうだろうね」
「けれど、今回の件は私が行くしかないと思います」
エルは膝の上で手を握った。
「アムを行かせてはいけない。それは私も分かります。自分はいままでアムと私は同じだと思ってました。でもそれはロックが言った通りです。私とアムは違う。」
「………」
「だからこそ私がカレリア様と父さんとパウロ君に直接会って話す。ライプニッツで何があったのか全部説明します。そうすれば、誤解が解ける可能性があるはずです。」
「……」
「先生はどう思う?」
ヴァンはすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
「このまま何もしなければ、いずれ双方とも引けなくなるかもしれないね」
「じゃあ――」
「私も行こう」
エルが目を見開いた。
「先生も?」
「君一人を行かせるわけにはいかないよ。今はこんな状態だ。君一人でリブロフに向かわせたら、モンドに叱られる」
「でも、アムが――」
「だから、アムルには内緒だ」
ヴァンは少し困ったように笑った。
「怒るだろうね」
「……絶対怒る」
「私もずいぶん怒られるだろうな」
「ごめんなさい」
「まだ何もしていないよ」
ヴァンは机の引き出しを開けた。
「一週間後にしよう」
「一週間後?」
「色々と準備がいる。それに、その日は君たちの誕生日だろう?」
エルが黙った。
「その日なら、アムルもエルと二人で過ごしたいはずだ。君についている護衛を遠ざける理由も作りやすい」
「……うん」
「それと」
ヴァンは小さな包みを取り出した。
「これを使いなさい」
エルは受け取らない。
「……なに?」
「眠ってもらうためのものだよ」
エルの顔が強張った。
「アムに?」
「そうだね」
「……」
「嫌なら、別の方法を考えよう」
長い沈黙のあと。
エルは手を伸ばした。
「……貸して」
小さな包みが、その手の中へ落ちた。
◇
11月5日。
事情を詳しく知らないパドゥーラの町中は、朝からちょっとした祭り騒ぎになっていた。
去年はラレドだった。
今年こそはパドゥーラで祝える。
そんな空気が町中に溢れていた。
侯爵とエルの誕生日。
市民たちにとっては、それだけで十分な祝い事だった。
夜になると、アムルは人を遠ざけた。
この日くらいは二人で過ごしたい。
そう言えば、誰も反対しなかった。
皮肉にも、それはエルとヴァンが待っていた状況そのものだった。
「エル」
「ん?」
「誕生日おめでとう」
「アムもね」
二人だけだった。
久しぶりだった。
誰もいない部屋で、誰にも邪魔されずに食事をした。
くだらない話をした。
昔のことを話した。
たくさん笑った。
「そういえばさ」
「なに?」
「俺、ほんとに今日が誕生日でいいのかな」
「今さら?」
「だって知らないし」
「もう何年同じ日に祝ってると思ってるの」
「じゃあいいか」
「いいよ」
エルが笑った。
「今日がアムの誕生日。そういえば私が決めたんだったよね」
「そうだよ。同じ日にすれば忘れないって」
「そうだったね」
アムルも笑った。
その顔を見るたびに、エルの胸が痛んだ。
服の内側には、あの小さな包みが隠されている。
「エル」
「なに?」
「ちょっと手出して」
「こう?」
「左」
言われるまま、エルが左手を差し出す。
アムルが小さな箱を取り出した。
「……なに、それ」
「開けてみて」
エルが蓋を開ける。
中にあったものを見た瞬間、動きが止まった。
「……アム」
「うん」
「これ……」
「指輪」
「それは見れば分かるよ」
「じゃあ聞くなよ」
「そうじゃなくて」
エルの頬が赤くなる。
「なんで、今年はリボンじゃなくて指輪なの?」
「……」
今度はアムルが黙った。
「アム?」
「いや、その……」
頭を掻く。
「本当は、こんな面倒なことが全部終わってからにしようと思ってたんだけど」
「うん」
「いつ終わるか分からないし」
「……うん」
アムルは少しだけ視線を逸らした。
「だから、その……これからも一緒にいようかなって」
「……今も一緒にいるじゃん」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
「分かってるだろ」
「ちゃんと言って」
「エル」
「言って」
アムルはしばらく黙った。
やがて諦めたように息を吐く。
「……結婚しよう。してください」
エルの表情が止まった。
「ずっとエルのことが好きだった。だから、これからも一緒にいてほしい」
エルは黙った。
思わず涙が溢れててくる。
「……嫌?」
首を振った。
何度も振った。
「嫌じゃない………」
声が震えた。
「嫌な訳なんかない。だってきみのこと大好きだもん」
アムルが指輪を取った。
エルの左手を握る。
指輪がゆっくりと指に収まった。
「……ぴったり」
「ちゃんと調べたから」
「どうやって?」
「それは秘密」
「気持ち悪い」
「なんでだよ」
エルは笑った。
笑いながら、指輪を見た。
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
だからこそ。
胸が痛かった。
その夜、エルは何度も迷った。
このまま何もせずに朝を迎えようと思った。
全部アムルに話そうとも思った。
ここに残ったほうが幸せなんじゃないかと。
けれど。
それでは何も変わらない。
戦争になるかもしれない。
アムルが殺されるかもしれない。
自分が行けばいい。
自分なら、きっと話せる。
きっと分かってもらえる。
そして――戻ってくればいい。
アムルの隣へ。
必ず。
夜が深くなった。
二人は初めて、本当の意味で互いを求めた。
唇を重ねあわせ。
身体を重ね合わせる。
長い間、兄妹のように育った二人が。
いつの間にか、それとは違うものになっていたことを確かめるように。
やがて部屋は静かになった。
隣にはアムルがいる。
エルはその胸元へ頬を寄せた。
「アム」
「ん?」
「……好きだよ」
「うん」
「それだけ?」
「俺も大好きだよ」
「ほんと?」
「ほんと」
エルは目を閉じた。
もう一度だけ、このまま眠ってしまおうと思った。
けれど眠らなかった。
しばらくして、エルは身体を起こした。
「喉乾かない?」
「ん……少し」
「待ってて」
エルは飲み物を用意した。
手が震えた。
アムルに背を向けて、小さな包みを開く。
――ごめん。
声には出せなかった。
アムルへ渡す。
何も知らずに、それを飲む。
「エル」
「なに?」
「来年も一緒に」
「……うん」
「再来年も」
「うん」
「その次も」
「しつこいなぁ」
エルは笑った。
「ずっと一緒だよ」
「そっか」
「うん」
しばらくして、アムルの呼吸が深くなった。
「アム?」
返事はない。
「……アム」
エルはその頬へ触れた。
「ごめんね」
眠っているアムルの唇にへ、自分の唇を重ねた。涙が溢れ出てくる。
「すぐ戻ってくるから」
左手の指輪が月明かりを受けて光った。
「全部ちゃんと話して……全部終わらせてくるから」
エルは立ち上がった。
一度だけ振り返った。
そして部屋を出た。
屋敷の外ではヴァンが待っていた。
「……いいのかい?」
「うん」
エルは頷いた。
「行こう、先生」
二人は夜のパドゥーラを後にした。
◇
11月6日。
「……エル?」
返事がない。
アムルは重い頭を押さえながら身体を起こした。
「エル?」
部屋には誰もいなかった。
寝台から降りる。
昨日の服がある。
食器も残っている。
だが、エルはいない。
「……?」
扉を開ける。
「誰か!」
すぐに護衛が駆けつけた。
「エルは?」
「エル様……ですか?」
「どこにいる?」
「それが――」
嫌な予感がした。
「ヴァン先生を呼んで」
兵士が動かない。
「早く」
「ヴァン殿も……昨夜からお姿が確認できません」
「……」
頭の中が真っ白になった。
昨夜。
飲み物。
異常な眠気。
エル。
「……嘘だろ」
その場へホウアンが現れた。
アムルの顔を見る。
それだけで何が起きたか理解したようだった。
◇
「……兵を出せというのか?」
「その通りです。こうなった以上、エル様とヴァン殿に対して、侯が何もしないのであればどうなるか。それはお分かりでしょう」
冷たく言い放ったホウアンを、アムルは組んだ手の上に顎を乗せながら憮然として見つめるしかなかった。
「それとも、このまま放置いたしますか? それはそれで我々にとって最も有益な結果を招来し、奴らの命脈を縮めるだけです。私はそれを望みますが……」
「貴様!!」
黙って聞いていたロックが、とうとう我慢できずホウアンに食って掛かった。
胸倉を掴もうと伸ばされた手を、ホウアンは払い除ける。
そして逆に、ロックへ鋭い視線を向けた。
「では代案を示していただきたい」
「なんだと?」
「このまま手を拱いていれば、奴らはいずれモンド殿、そしてエル様を害しますぞ」
ロックの動きが止まった。
「私はそれを望む者です。ですが――侯は、それだけは避けたいのでしょう?」
「……」
誰一人、言葉を発しなかった。
発しなかったのではない。
何も言えなかった。
エルをこのまま行かせる。
それは彼女をリービッヒへ返すということだった。
そして今のリービッヒ宮廷が、パドゥーラ侯を断罪するために動いている以上、エルもまた無関係ではいられない。
モンドも同じだった。
ホウアンは静まり返った一同を見渡した。
「侯は、力を持った時から考えなければならなかったことを、考えなかったのです」
アムルの眉がわずかに動いた。
「パドゥーラ侯となり、軍を持ち、リービッヒ王国すら無視できぬ力を手にした。それでもなお、何も失わず、誰とも敵対せず、以前と同じ関係のままでいられると考えた」
「……」
「それが、このツケではないのですか?」
「言いたいことを言う奴だ……」
アムルは力なく笑った。
否定はしなかった。
「まさに、その通りだ」
絞り出すような声だった。
「それでも俺は国を失っても、エルだけは失いたくない……」
ロックも、エヴァンスも、ティーエも黙っていた。
「それが甘い考えだってことくらい、分かってる……」
力なく落とされた言葉の一つ一つが、静かな部屋に痛々しく響いた。
数瞬の沈黙が辺りを支配した。
やがてアムルは顔を上げた。
「……追手を差し向けてくれ」
「承知いたしました」
ホウアンはただそれだけ答えた。
アムルは説得に応じたわけでも、ホウアンの考えに賛同したわけでもなかった。
エルを捕らえたいわけでもない。
ましてや罰したいなどと思っているはずもなかった。
ただ一つ。
このまま行かせれば、二度と帰ってこないかもしれない。
その可能性だけは、受け入れることができなかった。
「ただし」
アムルがホウアンを睨んだ。
「絶対に傷つけるな」
「無論です」
「ヴァン先生もだ。二人とも無傷で連れ戻せ」
「承知いたしました」
ホウアンは一礼した。
すぐに部屋を出ていく。
扉が閉まった。
アムルはそのまま椅子に沈み込んだ。
◇
11月8日。
ラレド侯爵領。
長い道を越え、エルとヴァンはようやくラレドへたどり着いた。
城門を抜けたところで、二人を待っていた一団があった。
その先頭に立つパウロを見て、エルが目を見開く。
「……どうして?」
パウロは馬を降りると、まっすぐエルの前まで歩み寄った。
「ご無事で何よりです。エル様がパドゥーラを追われたと聞き、すぐさま駆けつけて参りました」
「追われた……?」
エルには、一瞬その言葉の意味が分からなかった。
「パドゥーラ侯は、エル様とヴァン殿に追手を差し向けました。すでにそのことは、こちらにも伝わっております」
「……アムが」
エルは左手を見た。
三日前にもらったばかりの指輪が、そこにある。
アムルは自分を追った。
自分を連れ戻すために。
けれど――それだけではない。
数瞬の後。
その意味を理解したエルの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
アムルは身を切ったのだ。
自らの命令に背いてリービッヒへ逃れた者。
パドゥーラ侯の意志とは無関係に行動した者。
追手を差し向けることで、エルとヴァンが自分と示し合わせてリービッヒへ戻ったのではないことを、自ら示した。
それは同時に、モンドもアムルと通じているのではないかという疑いからも遠ざける。
エルは唇を噛んだ。
「……馬鹿」
涙が止まらなかった。
「アムの……馬鹿……」
ヴァンもパウロは何も言わなかった。
ただ静かに、泣いているエルを見守っていた。
エルは左手を胸元へ引き寄せた。
指輪を強く握る。
昨日までなら。
追手を出されたと知れば、アムルが自分を信じてくれなかったのだと思ったかもしれない。
だが、今は違った。
アムルは自分を切り捨てたのではない。
自分を守ろうとしている。
そして、それでも自分を連れ戻そうとしている。
「……ちゃんと話してくるから」
エルは小さく呟いた。
「全部終わったら、ちゃんと帰るから……」
その言葉が誰に向けられたものなのか。
聞く者はいなかった。
エルは涙を拭った。
そしてラレドの先にあるリブロフへと、視線を向けた。




