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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第七章 君のいる場所へ

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第12話 夜を歩く

 ◇


 温かかった。


 エルは寝台の上で、アムルに抱きしめられていた。


 窓から差し込む月明かりが、二人の身体を淡く照らしている。


 二人が初めて結ばれた夜だった。


挿絵(By みてみん)


「……アム」


「ん?」


「もう少し、ぎゅってして」


「こう?」


「……うん」


 あの人の腕に力がこもり、エルは嬉しそうに胸へ顔を埋めた。


 ずっと、こうしていたかった。


 戦争も、政治も、面倒な仕事もない。ただ二人だけで過ごせる夜。


 誰にも邪魔されず、誰の目も気にせず、好きなだけ甘えていられる。


「ねえ、アム」


「今度は何?」


「……私のこと、好き?」


「好きだよ」


「どれくらい?」


「またそれ?」


 アムが困ったように笑った。


「何回聞くんだよ」


「何回でも聞きたいんだもん」


「わかったよ。愛してるよ、エル」


「……私も」


 エルは顔を上げ、アムルの頬へそっと手を添えた。


「私も、アムのこと愛してる」


 唇が重なった。


 優しく、確かめるような口づけだった。


 やがて唇が離れると、あの人は少し照れくさそうに笑った。


「……緊張した」


「アムでも緊張するんだ」


「そりゃ、するよ。初めてだったんだから」


 エルも笑った。


 自分だって緊張していた。胸が苦しいほど高鳴り、アムの顔をまともに見つめていられなかった。


 けれど、怖くはなかった。


 相手がアムだったから。


 幼い頃から、ずっと一緒にいた。


 誰よりも大切で、誰よりも愛していた人。


 その人と、ようやく一つになれた。


 嬉しかった。


 言葉では言い表せないほど幸せだった。


「……ねえ、アム」


「うん?」


「私、幸せだよ」


 アムが微笑んだ。


「俺もだよ」


 その言葉が嬉しくて、エルはもう一度抱きついた。


 ずっと夢見ていた。


 いつか二人で暮らし、同じ寝台で眠り、朝になれば隣にアムがいる。


 そんな何でもない日々を。


「……離さないでね」


「離さないよ」


「ずっと?」


「ずっと」


 エルはあの人の胸へ頬を寄せた。


 心臓の音が聞こえる。


 温かい。


 生きている。


 大好きな人が、自分を抱きしめてくれている。


 もう何もいらない。


 この人さえいてくれれば、それだけでいい。


 そう思った。


 ◇


 次に目を開けた時、あの人はいなかった。


 寝台も、月明かりも、温かな部屋も消えていた。


 エルは走っていた。


 どこを走っているのか、エルには分からなかった。


 辺りには何もなく、ただ暗闇だけがどこまでも続いている。


 それでも、立ち止まってはいけないことだけは分かっていた。


 何かが追ってくる。


 何から逃げているのかは分からない。


 ただ怖かった。


「なにが天使だ」


 不意に、暗闇の中から声がした。


「悪魔だ」


「この人殺し」


「ふしだらな女」


「裏切り者」


男とも女ともつかない声が、次々に重なっていく。


エルは耳を塞いだ。


けれど声は消えなかった。


むしろ耳を塞いだことで、頭の内側から響いてくるようになった。


「男をたぶらかした」


「何がパドゥーラの天使だ」


「悪魔だ」


「悪魔だ」


「この裏切り者」


「……違う」


 思わず呟いた。


 だが、何が違うのか、自分でも分からなかった。


 声から逃げるように走る。


 息が切れ、胸が苦しくなっても足を止めなかった。


 止まれば何かに捕まる。


 そんな恐怖だけが身体を動かしていた。


 そのとき、足首に冷たいものが絡みついた。


「――っ!」


 身体が前へ投げ出された。


 地面に手をつき、振り返る。


 一人の男がいた。


 泥と血に汚れた軍服。


 その顔を見た瞬間、エルは誰なのか思い出した。


 ラレド。


 燃える街。


 路地の奥。


 幼い子供の腕を掴んでいた兵士だった。


 エルが軍律違反として斬った、自分の兵。


 男は地面に這いつくばったまま、エルの足首を掴んでいた。


「……なんで俺を殺した」


「あなたが……」


 言いかけたところで、男の顔が歪んだ。


「お前が始めた戦争だろ!」


 エルの身体が強張った。


「俺たちをこんなところまで連れてきたのは、お前だろうが!」


「……」


「戦争を始めるのはお前らだ!」


 男の声が、あの夜と同じように震えていた。


「死ぬのは俺たち平民だ!」


 エルは何も言えなかった。


 違う。


 そう言いたかった。


 けれど声にならない。


「あんたに何が分かる!」


 男が叫んだ。


「生まれたときから身分があって、金があって、そんな顔まで与えられて! 何でも持ってるじゃねえか!」


「……違う」


「俺たちには何もねえんだよ!」


 声だけが暗闇の中へ広がっていく。


「土地もねえ! 金もねえ! 毎日働いて税を取られて、戦争になったら兵隊にされる!」


 エルは足を引こうとした。


 だが男の手は離れない。


「あんたらは、いつも俺たちから奪うだけだ!」


「……」


「金を奪って、飯を奪って、家族を奪って――最後には命まで奪う!」


 違う。


 私は、そんなことをしたかったわけじゃない。


 守ろうとした。


 あの子も。


 街の人たちも。


 自分の兵だって、できる限り死なせたくなかった。


 そう言えばいい。


 けれど、言えなかった。


 男をラレドへ連れてきたのは、自分だった。


 軍を率いてパドゥーラへ攻め込んだのも、自分だった。


 命令だった。


 そう言えばいい。


 けれど、それも言えなかった。


「お前が始めた」


 男の声が変わった。


 別の声だった。


 エルが振り向く。


 いつの間にか、もう一人の兵士がいた。


 パドゥーラ兵だった。


 胸から血を流している。


 見覚えのある顔だった。


 パドゥーラへ入城したあの日、倒れていた兵士。


「お前が来なければ、俺は死ななかった」


 また一人、暗闇から現れた。


「お前が殺した」


「違う……」


「お前が始めた」


「違う」


「お前に殺された」


「違う……!」


 声が増えていく。


 リービッヒ兵。


 パドゥーラ兵。


 顔を知らない者。


 顔を知っている者。


 血に濡れた手が、次々に地面から伸びてきた。


 身体中を掴む。


 エルは必死に振りほどこうとした。


「やめて……」


 誰もやめなかった。


「お前が始めた」


「お前が殺した」


「俺たちには何もなかった」


「お前は全部持っていた」


「違う……」


 違う。


 私だって、大切なものを失った。


 そう言いたかった。


 けれど、その言葉を飲み込んだ。


 そんなことを言う資格が自分にあるのだろうか。


 自分が苦しかったから何だというのだ。


 死んだ人間には、もう何も残っていない。


 そのときだった。


「殺さないで」


 小さな声が聞こえた。


 エルの動きが止まった。


 女の子だった。


 ラレドの路地。


 あの兵士に腕を掴まれていた子供。


 エルが助けたはずの少女。


 少女は壁際に立ち、怯えきった目でエルを見ていた。


「……違う」


 喉が震えた。


「殺さないで」


「私は……」


 助けた。


 あなたを助けた。


 そう言えばいい。


 けれど、少女はエルを見て震えている。


「怖いよ」


 エルは言葉を失った。


「殺さないで」


「……私……」


 何も言えなかった。


 助けたはずだった。


 守ったはずだった。


 それなのに夢の中の少女は、自分を恐れている。


 自分を見るその目は、兵士を見ていたときと何も変わらなかった。


 エルは首を振った。


 逃げなければ。


 ここから逃げなければ。


 そう思ったとき、身体を掴んでいた手が突然消えた。


 声も消えた。


 あまりにも急に静かになった。


 エルはゆっくり顔を上げた。


 少し離れたところに、一人の男が立っている。


 月明かりの下。


 見間違えるはずがなかった。


 何度忘れようとしても忘れられなかった人だった。


 あの人。


 エルは息を呑んだ。


 あの人は何も言わない。


 怒っていなかった。


 悲しんでもいなかった。


 憎んでもいない。


 ただ、何の表情もない顔でエルを見ていた。


 そのことが、何より怖かった。


「……」


 声をかけようとして、やめた。


 何と呼べばいいのか分からなかった。


 あの人は静かに剣を抜いた。


 エルは反射的に一歩下がろうとして――止まった。


 逃げる理由があるのだろうか。


 私も、ラレドであの人を斬ろうとした。


 自分の手で終わらせると決めて、剣を向けた。


 それだけではない。


 パドゥーラへ攻め込んだ。


 あの人が大事にしていた場所を壊そうとした。


 違う。


 あの人だけじゃない。


 私にとっても大事だった。


 あそこで暮らした。


 一緒に働いた。


 笑った。


 くだらないことで喧嘩をして、買い物をして、みんなと食事をして。


 そのパドゥーラを壊そうとしたのは、私だ。


 エルは剣へ手を伸ばさなかった。


 なら、斬られても仕方がない。


 私だって、あの人を斬ろうとした。


 大事なものを壊そうとした。


 だから、仕方がない。


 あの人がゆっくり近づいてくる。


 それでも表情は変わらない。


 エルはその顔を見つめた。


 怒ってほしかった。


 憎んでほしかった。


 せめて、悲しんでほしかった。


 けれど何もない。


 自分に向ける感情など、もう何も残っていないように見えた。


 剣が振り上げられる。


 エルは逃げなかった。


 むしろ、胸の奥にわずかな安堵が生まれた。


 これで終われる。


 もう逃げなくていい。


 もう誰にも責められなくていい。


 もう何も壊さなくていい。


 それなら――。


 仕方ない。


 私も、あなたを斬ろうとしたから。


 刃が振り下ろされた。


挿絵(By みてみん)


 ◇


「――っ!」


 エルは目を覚ました。


 暗い天井が見えた。


 身体中が汗に濡れ、胸が激しく上下している。心臓が痛いほど脈打ち、すぐには身体を起こせなかった。


 夢だった。


 また、夢だった。


 エルは震える手を胸元へ伸ばした。


 服の下にある細い鎖を辿り、その先にある指輪を掴む。


 何度も捨てようとした。


 その度に捨てられなかった。


 指輪を掌の中へ包み込み、痛いほど強く握りしめる。


 夢の中で、あの人は自分を斬った。


 あんなに優しく抱きしめてくれた人が。


 愛していると言ってくれた人が。


 何の表情も浮かべずに、自分を斬った。


「……もう嫌だ」


 掠れた声が漏れた。


「もう……消えたい」


 部屋には誰もいない。


 返事もない。


 その言葉だけが、暗闇の中に落ちた。


 エルはしばらくそのまま座っていた。


 もう一度眠ろうとは思わなかった。


 いつからまともに眠った記憶がないのか、自分でも思い出せない。


 眠れば夢を見る。


 死んだ人間が現れ、自分を責める。


 そして最後には、いつも何かに殺される。


 眠るのが怖かった。


 けれど眠らなければ身体が動かない。


 昼間は頭が重く、文字を追っていても内容が入ってこないことがある。


 食事も同じだった。


 いつから一食をきちんと食べ切ったのだろう。


 空腹だから食べるのではない。


 食べなければならないから口に入れるだけだった。


 味もよく分からない。


 何口か食べれば気分が悪くなり、残りは手をつけられなくなる。


 それでも食べる。


 眠れなくても横になる。


 そうしなければ周囲が心配するから。


 それだけだった。


 エルは寝台を降りた。


 上着を羽織り、部屋を出る。


 どこへ行こうと思ったわけでもない。


 ただ、このまま横になっていれば、また眠ってしまうかもしれない。


 それが嫌だった。


 真夜中の館は静まり返っていた。


 廊下に置かれた燭台の火が小さく揺れている。


 エルはゆっくり歩いた。


 階段を下り、廊下を曲がり、また歩く。


 自分でもどこへ向かっているのか分からない。


 目的もなかった。


 ただ歩いているだけだった。


 ふと、自分がしていることがおかしく思えた。


 徘徊。


 そんな言葉が頭に浮かんだ。


「……何してるんだろ」


 小さく笑った。


 けれど、その声には何の感情もなかった。


 廊下の窓の前で足が止まる。


 夜の闇を映した窓ガラスに、一人の女が映っていた。


 エルは一瞬、それが自分だと分からなかった。


 短くなった銀色の髪。


 青白い頬。


 以前より細くなった身体。


 目の下には濃い隈ができている。


 氷色の瞳だけが、暗い窓の中で不自然に浮かんでいた。


挿絵(By みてみん)


「……幽霊みたい」


 呟いて、口元をわずかに歪めた。


 ひどい顔だった。


 かつてパドゥーラの天使と呼ばれていた少女の面影など、ほとんど残っていない。


 けれど、不思議と悲しくはなかった。


 当然だと思った。


 こうなったのも、全部自分のせいだ。


「……私が、欲張りだったから」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。


 エルは窓に映る自分を見つめた。


 みんなは、自分のことを無欲だと言った。


 お金に興味がない。


 宝石や豪華な衣装を欲しがらない。


 名誉にも地位にも執着しない。


 だから欲のない、清らかな人間なのだと。


 天使。聖女。


 パドゥーラにいた頃も、そう言われることがあった。


 けれど。


「……違うんだよ」


 エルは小さく首を振った。


 私は、無欲なんかじゃない。


 ただ、みんなが欲しがるものに興味がなかっただけ。


 でも。


 欲しいものは、ちゃんとあった。


 誰よりも欲しくて、どうしても手放したくないものが。


「……アム」


 名前を口にしただけで、胸が苦しくなった。


 あの人が欲しかった。


 誰よりも近くにいたかった。


 誰よりも愛されたかった。


 あの人が見せる表情も、交わす言葉も、温もりも。


 何もかも、自分だけのものにしたかった。


 絶対、他の誰にも渡したくなかった。


「……本当に、強欲だよね」


 エルは自嘲した。


 一人の人間のすべてを欲しがった。


 まして、あの人は英雄……


 誰よりも欲深い女ではないか。


 しかも、それだけではなかった。


 父も失いたくなかった。


 カレリアも守りたかった。


 自分を育ててくれた人たちも、帰るべき故郷も、何一つ手放したくなかった。


 あの人の隣にいたい。


 でも父を見捨てたくない。


 親友も裏切りたくない。


 リービッヒも守りたい。


 パドゥーラも壊したくない。


 全部、全部。


 どれも大切だった。


 どれも失いたくなかった。


「……馬鹿だなあ、私」


 乾いた笑いが漏れた。


 そんな都合のいいことが、許されるはずがなかった。


 それなのに、最後まで何一つ手放そうとしなかった。


 自分が頑張れば何とかなる。


 自分が苦しめば、みんなを守れる。


 そんなふうに考えていた。


 何もかもを守れるほど、自分が特別な人間だとでも思っていたのだろうか。


 そして、結局。


 エルは窓に映る自分を見つめた。


 父はいる。


 カレリアもいる。


 リービッヒも、まだ残っている。


 守ろうとしたものが、すべてなくなったわけではない。


 でも。


「……アムは、いない」


 声が震えた。


 ほかの何を失っても、この人だけは失いたくないと思っていた人。


 その人だけが、もう隣にいない。


 父を、カレリアを守ろうとした。


 そのために、あの人を裏切った。


 パドゥーラへ攻め込んだ。


 誰にも渡したくないと思っていた人を。


 自分の手で殺そうとした。


「……何が、愛してる、だろうね」


 エルは自嘲した。


 あんなに欲しがっていたくせに。


 最後には、自分の手で壊そうとした


 もう、あの人の隣に立つ資格などない。


 そんなことは分かっていた。


 分かっているのに。


 エルは胸元の指輪を握った。


 まだ捨てられない。


 もう戻れないと知っているのに、あの人のことを考えてしまう。


 もう一度会いたい。


 もう一度、抱きしめてほしい。


 もう一度、愛していると言ってほしい。


 そんなことばかり考えている。


「……本当に、どうしようもない女だ」


 エルは小さく笑った


 救いようがない。


 そう思った。


 窓ガラスに映る女が、こちらを見つめていた。


 青白い顔。


 痩せた頬。


 生気のない瞳。


 眠ることさえできず、夜中に館を歩き回っている。


 まるで、生きながら死んでいるようだった。


「……罰なんだろうな」


 エルは呟いた。


 幸せだった頃の夢を見せられて、その直後に、自分が殺した人間たちに責められる。


 最後には、あの人に斬られる。


「……当然、だよね」


 もう一度、笑った。


 全部を欲しがった自分が悪いのだ。


 これが、その罰なのだろう。


 エルは窓に映る自分から目を逸らした。


 外ではいくつかの篝火が燃えていた。


 夜番の兵士たちが立っている。


 槍を持ったまま欠伸を噛み殺す者がいる。寒そうに手を擦っている者もいる。


 交代に来た兵と小さく言葉を交わし、笑っている者もいた。


 誰も、館の窓からエルが見ていることには気づいていない。


 当たり前の夜だった。


 あの兵士たちにも家族がいるのだろう。


 帰る場所があるのだろう。


 明日を待っているのだろう。


 エルはぼんやりと眺めた。


 疲れた。


 何も考えたくなかった。


 もう何も決めたくない。


 誰にも命令したくない。


 誰も死なせたくない。


 このまま消えてしまえたなら。


 最初から自分などいなかったことになればいいのに。


 そんなことを考えた。


 そうすれば、少なくとも自分が誰かを傷つけることはなくなる。


 もう誰も殺さずに済む。


 もう誰も裏切らずに済む。


 あの人のことだって、これ以上苦しめずに済む。


 エルは目を閉じた。


 けれど。


 まだ兵がいる。


 自分の命令を待つ人間がいる。


 自分が放り出せば、困る人間がいる。


 そんな人たちを見捨てることはできなかった。


 また、同じことを考えている。


 そう気づいて、エルは苦笑した。


 全部を守ろうとして失敗したくせに、まだ誰かを守ろうとしている。


 本当に懲りない。


 それでも、今さら変われなかった。


 生きたいから生きているわけではない。


 希望があるわけでもない。


 それでも、自分が今ここからいなくなれば、誰かが困る。


 そのわずかな責任だけが、どうにかエルをこの場所へ繋ぎ止めていた。


 そのときだった。


 遠くから蹄の音が聞こえた。


 エルが顔を上げる。


 夜の静寂を切り裂くように、音が急速に近づいてくる。


 一騎。


 速い。


 尋常ではない。


 篝火のそばにいた夜番の兵士たちも気づいた。


「誰だ!」


 声が飛ぶ。


 門の向こうから、一騎の馬が姿を現した。


 馬は全身を汗で濡らし、白い息を吐きながら駆け込んでくる。


 乗っている兵士も馬上へ伏せるような姿勢で、何かを必死に叫んでいた。


 夜番の兵たちが一斉に動き出す。


 静まり返っていた館が、急に騒がしくなる。


 エルは窓辺に立ったまま、その光景を見ていた。


 この時間に、あれほど馬を急がせてやって来る使者。


 よほどの急報なのだろう。


 また、王都で何かが起きた。


 そう理解した。


 握りしめていた指輪から、ゆっくりと手を離す。


 つい先ほどまで消えてしまいたいと思っていた女は、それでも窓から離れた。


 まだ、自分には仕事が残っていた。

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