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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第七章 君のいる場所へ

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第9話 皇帝

 275年5月。


 レミーラ皇帝カール=ハインツが死去した。


 長く帝国を治めた皇帝の死は、ただ一人の老人の死では終わらなかった。


 カール=ハインツは偉大な皇帝だった。


 その治世に帝国は領土を広げ、軍事力を増強し、周辺諸国に対する影響力を強めた。誰もがその功績を認めていた。


 しかし、長すぎる治世は、帝国に別の問題を残していた。


 晩年のカール=ハインツは猜疑心を強め、幾人もの貴族や重臣を粛清した。


 かつて忠誠を誓った者であっても、一度疑いを向けられれば容赦されない。宮廷では誰もが互いの顔色をうかがい、皇帝の機嫌を損ねることを恐れるようになっていた。


 そのような状況にあっても、最後まで皇帝の信頼を失わなかった人物が二人いた。


 帝国主席宰相リシュリュー。


 そして、前ケルン公アレンである。


 二人は古くからの親友であり、カール=ハインツが最後まで疑うことのなかった数少ない重臣だった。


 だが、彼らであっても、皇帝の老いそのものを止めることはできなかった。


 本来であれば、皇位を継ぐべき皇太子がいた。


 穏健で、聡明で、政治にも明るい人物だった。


 その人柄を慕う貴族も多く、次代の皇帝として大いに期待されていた。


 しかし、皇太子は父よりも先に世を去った。


 その死を惜しむ者は多かった。


 あの方が皇帝になっていれば。


 そう語る貴族は、皇太子の死後も少なくなかった。


 そして275年5月。


 カール=ハインツが死去したことで、長く抑え込まれていた皇位継承問題が一気に表面化した。


 皇位を求め、いくつもの勢力が動き始めた。


 その中にフィリップ=ハイマンもいた。


 亡き皇太子の子。


 血統だけを見れば、決して弱い立場ではない。むしろ先帝の嫡流という点では、フィリップを推す理由は十分にあった。


 だが、皇帝とは血だけでなれるものではなかった。


 候補者としてのフィリップは三番手。


 二人の有力候補には、それぞれ自らを支える貴族と軍勢があった。


 それに対し、フィリップには宮廷に支持者こそ多かったものの、自らの意志だけで動かせる軍隊がなかった。


「殿下には正統な血がございます」


 そう言ったのは、帝国主席宰相リシュリューだった。


 幼いころからフィリップの守役を務め、その成長を見続けてきた男でもある。


「だが、血だけでは戦には勝てません」


 フィリップは、その言葉を今でも覚えている。


 当時は腹が立った。


 自分こそ正統な皇位継承者である。ならば諸侯も軍も当然、自分に従うものだと思っていた。


 だがリシュリューは、そんな若者の理屈には付き合わなかった。


 必要なのは軍だった。


 それも、単に数を集めればよいという話ではない。


 皇位継承争いが帝国全土を巻き込む内戦に発展すれば、たとえ勝利しても、その後に残るのは疲弊した国家である。


 リシュリューは、それを何よりも警戒していた。


 彼は穏健派として知られていた。


 しかし、決断をためらう人物ではなかった。


 戦わなければならないのであれば戦う。


 ただし、戦争は必要最小限に抑えなければならない。


 そのためにリシュリューは宮廷工作を進めた。


 各地の諸侯に働きかけ、中立を約束させる。皇位候補への支持を表明している貴族にも接触し、戦争になった場合の利害を説いた。


 中央軍の全面的な分裂も避けなければならない。


 有力候補を支持する者たちが、帝国の正規軍を勝手に動かす事態だけは防ぐ必要があった。


 その一方で、フィリップには確実に勝利を収められるだけの軍事力が必要だった。


 そこでリシュリューが目をつけたのが、帝国東部の辺境軍である。


 東部辺境軍。


 帝国中央から遠く離れた辺境領を守り続けてきた軍団であり、精強ではあったが、宮廷での扱いは決して良いものではなかった。


 東の田舎者。


 宮廷貴族たちは、彼らをそう呼んだ。


 帝国の東端を守っているという自負がありながら、中央で地位を得ることもなく、戦功を挙げても評価は低い。


 だが、リシュリューにとって彼らは見知らぬ存在ではなかった。


 前ケルン公アレン。


 その親友が築いた軍事的基盤は、今も東部辺境領に受け継がれていた。


 リシュリューは、アレンの後継者たちに接触した。


 その中心にいたのが、当時ルートビッヒ=シュナイダーと呼ばれていた男だった。


 傍流とはいえ皇族の血を引く男。


 若くして軍事的な才能を発揮し、東部辺境軍の将校たちから厚い信頼を得ていた。


 リシュリューは、この男に強い関心を抱いた。


 彼が求めていたのは、目先の戦争に勝つための将軍だけではなかった。


 フィリップはまだ若い。


 皇帝としての経験もなければ、帝国全体を統治するための知識も十分ではない。


 一方のルートビッヒも、軍事的な才能は卓越していたが、中央政治の経験は浅かった。


 ならば、二人を育てればよい。


 リシュリューには次の時代への構想があった。


 フィリップを一人前の皇帝に育てる。


 ルートビッヒには中央政治を学ばせ、皇帝を支えられる人物にする。


 その間は、自分と次席宰相フルーリーが政務を支えればよい。


 やがて二人が十分な経験を積んだとき、若い世代に帝国の未来を託す。


 それがリシュリューの描いた次期政権の姿だった。


 もちろん、その構想が実現するかどうかは、まず皇位継承戦争に勝たなければ分からない。


 リシュリューはルートビッヒとの交渉を進めた。


 そして東部辺境軍を、フィリップ陣営に引き入れることに成功した。


 ◇


 東部辺境軍でも、すぐに結論が出たわけではなかった。


 ルートビッヒを中心に、マリー、オスワルトら主要な将校が集められた。


 フィリップを支援する。


 それがリシュリューから持ち込まれた話だった。


「中央の皇位争いに首を突っ込むのか?」


 誰かがそう尋ねた。


「首を突っ込まなければ、今までと何も変わらん」


 別の者が答えた。


 東部辺境領は広大だった。


 軍事的にも帝国にとって重要な地域である。それでも中央の人間たちから見れば、所詮は辺境だった。


 ならば、その扱いを変える方法は一つしかない。


 自分たちの手で皇帝を作る。


 フィリップを皇位につけることに成功すれば、東部辺境軍は単なる地方軍ではなくなる。


 帝位を決した軍として、中央も無視できなくなる。


 それに、今回の話を持ち込んできたのはリシュリューだった。


 前ケルン公アレンの親友であり、先帝カール=ハインツが最後まで信頼した主席宰相である。


 中央の貴族たちとは違い、東部辺境領の事情にも理解がある。


 ルートビッヒ自身も、リシュリューの政治的な能力を高く評価していた。


 問題は勝てるかどうかだった。


 候補者としてフィリップは三番手。


 軍勢も少ない。


 失敗すれば反逆者としてすべてを失う。


 集まった者たちの視線が、ルートビッヒへ向けられた。


 彼はしばらく机上の地図を見ていた。


 二人の候補者の領地、軍勢、その配置。フィリップを支持する宮廷勢力。東部辺境軍が投入できる兵力。


 やがてルートビッヒは顔を上げた。


「勝てる」


 その一言で、東部辺境軍の進む道は決まった。


 275年7月。


 後にレミーラ継承戦争と呼ばれる戦いが始まった。


 ◇


 戦争が始まった当初、フィリップの勝利を予想する者は多くなかった。


 それでも戦況は、少しずつ覆っていった。


 ルートビッヒが東部辺境軍を率い、有力候補の軍勢を次々と破った。


 その中でも、鉄騎兵の働きは凄まじかった。


 重装の騎兵が戦列へ突入するたびに、敵軍の陣形が崩れた。そこへ東部辺境軍の各部隊が続き、破れた戦線を押し広げる。


 数で上回る敵を破り、有力諸侯を離反させ、昨日までフィリップを見向きもしなかった者たちが、次々と旗を変えていった。


 だが、この戦争にはもう一つの特徴があった。


 帝国全土を巻き込む大規模な内戦には、発展しなかったのである。


 皇位継承を巡る争いでありながら、実際の戦闘は有力貴族の私兵と中央軍の一部を中心とする、限られた範囲にとどまった。


 それはリシュリューの政治工作によるところが大きかった。


 彼は戦争が始まってからも、各地の諸侯との交渉を続けていた。


 中立を守る者には中立を認め、降伏を申し出た者には寛大な条件を示した。


 敵対勢力のすべてを滅ぼす必要などない。


 皇位が決まれば、それでよい。


 重要なのは、戦争が終わったあとも帝国が帝国として機能することだった。


 ルートビッヒが戦場で勝利を重ねる一方、リシュリューは政治によって戦う相手を減らしていった。


 戦わずにフィリップへ恭順する諸侯が増え、最後まで抵抗する者はルートビッヒに敗れた。


 こうして戦争は、当初の予想よりも限定されたものとなった。


 フィリップも戦った。


 逃げなかった。


 決断を迫られれば決断し、皇帝候補として軍の前に立った。


 昨日まで自分より上にいた者たちが、一人、また一人と消えていく。


 三番手だったはずの男が、少しずつ帝位へ近づいていった。


 だが、戦いの途中で一つの事件が起きた。


 リシュリューが暗殺されたのである。


 帝国主席宰相にして、フィリップ擁立の中心人物。


 幼いころからフィリップを育て、皇位継承戦争を政治面から支えてきた男は、彼が皇帝になる姿を見ることなく死んだ。


 犯人は捕らえられた。


 しかし、その背後に誰がいたのかが明らかになることはなかった。


 フィリップには悲しむ暇もなかった。


 戦争は続いていた。


 リシュリューがいなくなっても、東部辺境軍は戦い続けた。


 ルートビッヒは軍を率い、残る敵を一つずつ排除していった。


 宮廷では次席宰相フルーリーが政務を支え、戦争の終結に向けた仕事を進めた。


 そして276年8月。


 フィリップ=ハイマンは帝冠を戴いた。


 歓声が響いていた。


 大勢の貴族が頭を垂れていた。


 そこにはルートビッヒもいた。オスワルトも、東部辺境軍の将たちもいた。


 ただ一人、リシュリューだけはいなかった。


 戦後、空席となっていた主席宰相の座には、それまで次席宰相を務めていたフルーリーが就いた。


 そしてルートビッヒが、新たに次席宰相となった。


 帝国は新たな時代を迎えた。


 少なくとも、誰もがそう信じていた。


 そしてフィリップも思った。


 自分は勝ったのだ、と。


 三番手だった。


 自前の軍すらなかった。


 誰もが二人の有力候補のどちらかが皇帝になると思っていた。


 そのすべてを覆した。


 自分は戦い、勝ち、帝冠を手にした。


 あのときの歓声を、フィリップは三年が過ぎた今でも鮮明に覚えていた。


 ◇


 279年。


 レミーラ帝国皇宮。


 皇帝フィリップ=ハイマンは、執務机に肘をついていた。


 皇帝になって三年。


 望んでいたものは、すべて手に入れたはずだった。


 帝冠もある。


 宮殿もある。


 命令すれば何万人もの兵が動く。


 自分の前では、帝国中の貴族が頭を下げる。


 それなのに、フィリップには満たされないものがあった。


 功績がない。


 大きな失敗をしたわけではなかった。


 帝国を傾けるような失政もない。反乱が相次いでいるわけでもなければ、財政が破綻したわけでもない。


 だが、何も残していなかった。


 祖父カール=ハインツ。


 フィリップにとって皇帝とは、あの男だった。


 巨大な帝国を率い、その名を周辺諸国にまで知らしめた皇帝。


 自分も、そうなりたかった。


 いや。


 なるつもりだった。


 そのために皇帝になったと言ってもよかった。


 ところが三年が経っても、自分の名とともに語られるものがない。


 反対に、別の男の名声だけが高まっていた。


 ルートビッヒ=シュナイダー。


 継承戦争の英雄。


 東部辺境軍の名将。


 軍人たちは彼を信頼し、官僚たちもその意見を重く見る。


 あの戦争で自分を皇帝にした将軍。


 その男の名声が上がること自体、最初は悪い気はしなかった。


 自分の臣下が評価されているだけなのだから。


 だが、限度というものがある。


「陛下」


 その本人が、今日もフィリップの前に立っていた。


「常備軍の規模について、改めて申し上げます。現状のまま維持する必要はありません。平時の兵力としては過大です」


「また軍を減らせという話か」


「はい」


「先月も聞いた」


「先月もお聞きいただけませんでしたので」


 フィリップの眉間に皺が寄った。


「軍は帝国の力だ」


「軍を維持するにも金がかかります」


「分かっている」


「でしたら――」


「分かっていると言っている」


 ルートビッヒは黙った。


 その顔に反抗的な色などない。


 そこがまた、フィリップには腹立たしかった。


 しばらくして、ルートビッヒは別の書類を取り出した。


「それから、もう一点」


「まだあるのか」


「後宮についてです」


 フィリップの顔が露骨に歪んだ。


「……何だ」


「規模を縮小なさるべきです」


「お前は私の後宮にまで口を出すのか」


「維持費の問題です。警備、侍女、衣服、食費。これ以上増やす必要もないでしょう」


「皇帝の威光というものがある」


「後宮の人数と皇帝の威光に、どの程度の関係があるのでしょうか」


「ルートビッヒ」


「はい」


 ルートビッヒは本気で疑問に思っているようだった。


「そもそも、女性とはそれほど必要なものですか?」


 フィリップはしばらく彼を見つめた。


「……もうよい。下がれ」


「では、後宮縮小については」


「検討する」


「常備軍についてもお願いします」


「分かったから下がれ!」


「失礼いたしました」


 一礼して、ルートビッヒが退出する。


 扉が閉まるまで待ってから、フィリップは小さく舌打ちした。


「何が『女性とはそれほど必要なものですか』だ」


 まったく理解できない男だった。


 軍事については認めている。


 認めざるを得ない。


 あの男がいなければ継承戦争を勝ち抜くことは難しかっただろう。


 だが、それとこれとは別だった。


「あんな珍妙な女と婚約する男には分からんか」


 本人の前で口にするほど愚かではない。


 だが、ケルン公マリーについて、フィリップは本気でそう思っていた。


 髪はいつ見ても妙な具合に広がっている。女らしい華やかさもなければ、愛嬌があるわけでもない。何を話しているのかと思えば、麦だの灌漑だの土だのと、そんなことばかり。


 あれをケルン公にしたのも、フィリップがその能力を認めたからではない。


 ルートビッヒが強く推した。


 だから継承戦争以来の功臣の顔を立ててやった。


 それだけだった。


「まったく……」


 フィリップは椅子へ深く身体を沈めた。


 リシュリューが死んだ時、少しだけ思ったものだった。


 これでもう、口うるさく言われることもなくなる。


 幼いころから、あれをするな、これをするな。皇族として振る舞え、勉学を怠るな、女遊びを控えろ、金を使いすぎるな。


 もちろん、リシュリューには恩がある。


 あの男がいなければ、皇帝になることは難しかっただろう。


 その死を悲しまなかったわけでもない。


 だが、幼いころから自分を叱り続けた守役がいなくなったことに、どこか安堵していたのも事実だった。


 そして、ようやく自由になったと思った。


 戦後、主席宰相となったフルーリーは、リシュリューほど小うるさくはなかった。


 皇帝の意向を理解し、命じればそのために官僚を動かす。


 政治に関する知識も豊富で、仕事も速い。


 それでいい。


 臣下とは、本来そういうものではないのか。


 なのに今度はルートビッヒがいる。


 あれをするな。これをするな。


 フィリップは、先ほど閉じられた扉を睨んだ。


「……これでは、どちらが皇帝なのだ」


 もちろんルートビッヒが帝位を狙っているなどとは思っていない。


 そんな素振りを見せたことは一度もない。


 だからこそ余計に苛立つのだ。


 皇帝に逆らうつもりもない男が、当然のように皇帝へ意見をする。


 そもそも、あの男は血統というものを理解していない。


 皇族の傍流に生まれながら、家柄よりも実力を重視する。


 貴族であろうと平民であろうと、能力があれば登用する。


 その考え自体は分からないでもない。


 だが、帝国には守るべき秩序がある。


 皇帝は皇帝だからこそ尊いのであり、貴族はその血筋と家格に応じた責務と特権を持つ。


 それを単純な能力だけで測ろうとするルートビッヒの考えは、フィリップには理解しがたかった。


 自分を皇帝にしたのは、あの男ではない。


 自分が勝ったのだ。


 あの戦争で。


 三番手から。


 誰もが無理だと思った状況から。


 ならば、もう一度できる。


 フィリップは立ち上がり、壁に掛けられた祖父の肖像を見た。


 カール=ハインツ。


 偉大な皇帝。


 祖父が歴史に名を残したのは、帝都の椅子に座っていただけではない。


 帝国を広げた。


 敵を破った。


 勝利した。


 皇帝の威光とは、結局そこにあるのではないか。


 フィリップはそう考えていた。


 だから、すでに命じてあった。


 参謀本部に。


 新たな軍事作戦の計画を作れ、と。


 ◇


 1か月後。


 レミーラ帝国皇宮。


 皇帝の執務室には、主席宰相フルーリーをはじめ、参謀本部の高級将校たちが集まっていた。


「完成いたしました」


 分厚い書類の束が、皇帝の執務机へ置かれた。


 フィリップは表紙を見た。


 参謀本部が兵力、補給路、進撃経路、敵軍の配置、占領後の統治まで検討した作戦計画。


 机の上には巨大な地図が広げられていた。


 国境線。


 主要な街道。


 要塞と都市。


 そこには無数の線が引かれていた。


 軍団の進撃路。


 補給線。


 想定される敵の移動。


 占領予定地域。


 フィリップは一枚ずつ書類をめくった。


「必要兵力は?」


 参謀が答える。


「現有兵力で実行可能です。ただし、作戦開始に先立ち、必要な戦力を集結させる必要があります」


「期間は」


「順調に推移した場合、主目標の達成まで数か月」


「敵が抵抗した場合は?」


「それも想定しております」


 フィリップは地図を見下ろした。


挿絵(By みてみん)


 何本もの矢印が国境を越え、その先にある都市や要塞へ向かって伸びている。


 敵軍は分断され、主要拠点は順番に陥落し、最後には帝国軍の支配地域を示す線が大きく広がっていた。


「できるのだな」


 一瞬だけ、参謀は答えるまでに間を置いた。


「計画上は可能です」


 フィリップはその言葉を聞いて笑った。


 計画上は。


 十分だった。


 継承戦争の時も同じだった。


 勝てると言われて始めた戦争ではない。


 三番手だった。


 兵もなかった。


 それでも勝った。


 ならば、今回も勝てばよい。


「フルーリー」


「はい、陛下」


「お前はどう思う?」


 主席宰相は、机の上に広げられた地図を見た。


「参謀本部が十分に検討した計画です。必要な準備を整えれば、実行は可能でしょう」


「そうか」


「ただし、軍の移動と補給には相応の費用が必要となります。各部署との調整も進めなければなりません」


「それはお前に任せる」


「承知いたしました」


 フルーリーは静かに頭を下げた。


 フィリップは満足そうに頷いた。


 こうでなくてはならない。


 皇帝が方針を示し、宰相がそれを実現する。


 それこそ正しい君臣の関係というものだ。


 ふと、フィリップは室内を見回した。


「そういえば、ルートビッヒは?」


 側近の一人が答えた。


「現在、ケルンにて正式な婚約手続き、および現地での式典などのため不在です。あと一か月ほどはお戻りにならない予定です」


「ああ、そうだったな」


 フィリップは思い出したように頷いた。


 この年の初頭、ルートビッヒとケルン公マリーの婚約が突然発表された。


 帝国の有力な将軍と大貴族の婚約である、必要な手続きも多い。


 本人たちはあまり興味がなさそうだったが、周囲がそうはいかない。


 フィリップは小さく笑った。


「好都合だな。奴がいると何かと文句をつけてくる」


 参謀たちは顔を見合わせた。


 誰も何も言わなかった。


「軍を減らせ、支出を減らせ。あれほど軍縮を主張している男だ。今回の計画を見せたら、また長々と反対意見を述べるに決まっている」


 フィリップは書類を机へ置いた。


「だが、今はここにいない」


「陛下」


 フルーリーが口を開いた。


「次席宰相は不在ですが、議決を進めることに問題はございません」


「そうだろうな」


「正式に決定されれば、各部署への準備命令も発することができます」


「よし」


 フィリップは椅子に座り直した。


「では、採決を行う」


 皇帝フィリップ。


 主席宰相フルーリー。


 次席宰相ルートビッヒ。


 本来なら三人が参加する会議だった。


 だが、この場にルートビッヒはいない。


「私は賛成する」


 フィリップが言った。


「フルーリー、お前は?」


「賛成いたします」


 フルーリーは即座に答えた。


 フィリップは満足そうに笑った。


「では、決まりだな」


 反対する者はいなかった。


 こうして、新たな軍事作戦は正式に承認された。


 ◇


 会議が終わり、参謀たちが退出したあとも、フィリップは執務室に残っていた。


 机の上には、先ほど承認された作戦計画が置かれている。


 フィリップは、もう一度その表紙を見た。


 祖父カール=ハインツは、偉大な皇帝だった。


 誰もがそう言う。


 貴族たちも、軍人たちも、民衆も。


 そして今もなお、皇帝とはどうあるべきかを語るとき、人々は自分ではなく、死んだ祖父の名を口にする。


 フィリップはそれが気に入らなかった。


 いつまで自分は、カール=ハインツの孫でいなければならないのか。


 皇位継承戦争を勝ち抜き、帝冠を手にしたのは自分だ。


 今、この帝国の頂点に立っているのも自分である。


 フィリップは地図の向こうに掛けられた祖父の肖像へ目を向けた。


「じじいを超えれば、貴族どもは俺を認めざるをえん」


 口元がわずかに歪む。


「アーネムの歴史に名を刻むのは誰か、教えてやる」


 祖父のような皇帝になる。


 もう、それだけでは足りなかった。


 祖父を超えフィリップ=ハイマンという皇帝の名を、歴史そのものに刻みつける。


 そのために必要なのは、三年間積み上げることのできなかった何かではない。


 一つの大きな勝利。


 それだけでいい。


 フィリップは羽根筆を取った。


 朝議で承認された計画に基づく命令書に、自らの名を記す。


 そして筆を置いた。


「発動準備を進めよ」


「はっ」


 控えていた側近が頭を下げた。


 誰も声を発しなくなった部屋で、フィリップはもう一度、机上の地図を眺め満足そうに笑った。


 地図の上では、すでに一つの国が呑み込まれていた。

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