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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第七章 君のいる場所へ

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第8話 セントハイムに帰りたい

 ◇


 279年4月。


 アスナム公城。


「……つまらない」


 リオは頬杖をついたまま、机の上に積み上げられた書類を眺めていた。


挿絵(By みてみん)


 麦の収穫量、河川や街道の補修状況、領内で起きた訴訟、税収、南部諸侯との折衝。どれも領主にとって重要な仕事であり、それくらいはリオにも分かっている。分かっているからこそ、余計につまらなかった。


「お嬢様。手が止まっております」


 向かい側では、秘書官のマルタが別の書類を手際よく束ねている。


「叔父さんは?」


「工房です」


「また?」


「本日は朝から」


「これ、ほとんど叔父さんの仕事じゃない?」


「ジンド様は、お嬢様の経験になると仰っております」


「絶対、自分が仕事したくないだけでしょ」


 リオは迷いなく言い切った。


 叔父である現アスナム公ジンドは、昔から政治よりも絵や音楽を好む人物だった。本人はできることなら一日でも早く公爵の座を退き、芸術だけに囲まれて暮らしたいらしい。


 そこへリオが帰ってきた。


 ドゥットゥカース本家の血を引き、領政にも交渉にもそれなり以上の能力がある。ジンドからすれば、これ幸いだったのだろう。帰ってきた姪を領主見習いに据え、最初は少しずつ仕事を渡し始めた。


 少しずつ。


 最初は、確かにそうだった。


「私、まだ公爵じゃないんだけど」


「よい経験になるかと」


「マルタまで叔父さん側につくの?」


「私は事実を申し上げているだけです」


 部屋の隅では、大きな木箱を運び終えたロルフが苦笑していた。彼はリオの護衛を務めている。腕は立つのだが、実際には荷物持ちや書類運びをさせられている時間の方が長い。


「でも、お嬢様は普通に処理できてますよね」


「できるのと、やりたいのは別」


「なるほど」


「納得しないでよ」


 リオはため息をつきながら、次の報告書を手に取った。


 南部の状況は、今のところ比較的落ち着いている。農村は機能し、街道も維持され、商人も動いている。ラレドの戦い以降、中央への不満が強くなっているのは事実だが、少なくとも今日明日に何かが崩れるような状態ではない。


 ところが、北へ行けば行くほど報告の内容は悪くなった。


「また麦が上がってる」


「北部ですか?」


「うん。塩も油も上がってるし、鉄はもっと酷い」


 リオは一枚を机に置き、別の報告書を開いた。


「商隊の数も減ってる。街道の治安だけが理由じゃないね。北へ商品を持っていっても、次に何を仕入れられるか分からないから、商人そのものが行きたがらなくなってる」


「交易が細れば、さらに物価が上がりますね」


「そういうこと」


 戦争が続けば人が死ぬ。畑は荒れ、道は壊れ、輸送に必要な馬も失われる。そこへパドゥーラとの交易縮小まで重なったことで、北部では以前なら外から入っていた物資が十分に届かなくなっていた。


 品物が減れば値段が上がる。値段が上がれば買えない者が増える。買えない者が増えれば商人はさらに寄りつかなくなり、市場そのものが痩せていく。


「流民も増えております」


 マルタが別の報告書を差し出した。


「南まで来てる?」


「一部は。ただ、まだ北部の都市周辺に留まっている者も多いようです」


「仕事があると思って?」


「それか、配給を期待しているのでしょう」


「ないのにね」


 リオはあっさり言った。


 冷たく聞こえるが、実際その通りだった。兵士だった男が職を失い、農民だった一家が土地を捨て、職人は材料がなければ仕事を続けられない。そうして人が都市へ集まれば、今度は食料と寝床が足りなくなる。


「こっちは街道襲撃。盗賊が増えてる」


「兵を増やした方がよいのでしょうか」


 ロルフが尋ねると、リオは首を振った。


「兵を増やせば一時的には静かになると思う。でも、ここに書かれてる『盗賊』が最初から盗賊だったとは限らないでしょ」


「と申しますと?」


「食べる物がなくなった農民とか、給金をもらえなくなった兵士とか。捕まった連中の経歴を見ると、そういうのが混じってる」


 リオは報告書の一部を指で叩いた。


「食べられないから盗賊になったなら、そいつを捕まえても次が出る。原因が残ってるから」


 マルタが少し意外そうに顔を上げる。


「お嬢様、かなり真面目ですね」


「失礼だなぁ」


「いえ」


 リオは鼻を鳴らし、机の上に広げられた地図へ視線を移した。


「北の領主たちも苦しいね。税は取れない。でも兵は置かなきゃならない。物資は高い。中央からは兵を出せ、税を納めろ、秩序を守れって要求だけ来る」


「中央政府への不信も強まっています」


「そりゃそうなるよ」


 地方の人間からすれば、当然の疑問が生まれる。


 自分たちは税を払い、兵を出し、命令に従っている。


 では、中央は何をしてくれるのか。


 それに答えられなくなった時、国家に対する不満は単なる愚痴では済まなくなる。


「これ、市場で中央批判をした商人がいたって」


「以前なら珍しい話でした」


「今は?」


「最近は増えています」


「じゃあ、もう数字だけの問題じゃないね」


 物価が上がる。


 交易が減る。


 流民が増える。


 治安が悪化する。


 それらが同時に進み、最後には中央政府そのものへの信頼まで失われる。


 リオはしばらく地図の北側を眺めた。


「北、だいぶ酷いね」


「そのようですね」


「数字でこれなら、実際はもっと悪いんじゃない?」


「ジンド様も同じことを仰っておりました」


「叔父さん、ちゃんと報告書読んでるんだ」


「たまには」


「そこは否定してあげなよ」


 政治そのものに熱意があるわけではない。


 それでも、やれと言われればできる。


 どの諸侯が中央に近いのか。どこが距離を置き始めているのか。誰が本当に困っていて、誰が不安を利用して利益を得ようとしているのか。


 書類を読み、人と話せば、それなりに見えてくる。


 パドゥーラにいた頃にも交渉事は何度も経験した。人と話すのも嫌いではない。むしろ堅苦しい会議より、宴席で相手の本音を引き出す方が得意なくらいだった。


 だからこそ、ジンドも安心して仕事を押しつけてくる。


「……つまらない」


「本日五回目です」


「パーティーもないし」


「政務とは関係ありません」


「いい男もいない」


「もっと関係ありません」


 リオは椅子の背にもたれ、大きく息を吐いた。


「セントハイムに帰りたい」


 その一言で、マルタの手が止まった。


「お嬢様。セントハイムは帰る場所ではありません」


「でも楽しかったじゃん」


「それは……」


 一瞬だけ言葉に詰まったマルタを見て、ロルフがすかさず振り向いた。


「マルタさん」


「何ですか」


「同意しないでください」


「しておりません」


「今、しましたよね?」


「しておりません」


 リオは二人のやり取りを眺めながら、少し笑った。


 セントハイム。


 大陸東岸最大の商都であり、東岸一の歓楽街を持つ都市。


 あの街へたどり着いたのは、もう二年近く前になる。


 アスナムへ帰るだけだったはずの旅が、一年近く続くことになった理由は、思い返してみればひどく単純だった。


     ◇


 276年12月8日。


 リオはパドゥーラを離れた。


 アムルがエル=リージェットの追放と、ドゥットゥカース家との絶縁を宣言した直後のことだった。


 出立前、アムルには会った。


 酷い顔をしていた。


 だから悪態をつき、最後に一度だけ唇を重ねた。


 初恋の人との、最初で最後の口づけだった。


 その後、マルタとロルフを連れ、リービッヒ中央を避けるため都市同盟側へ抜けた。


 セイレンまでは、確かに逃亡だった。人目につく宿は避け、街道でも長居をせず、リオ自身も酒場へ行こうとは言わなかった。


 ところが都市同盟領へ入った途端、その緊張感は急速に薄れた。


 逃亡は、いつの間にか旅行へ変わった。


 カーライルでは、若い兵士の恋路に首を突っ込んだ。


 本来なら、傷ついている青年を慰め、そのまま自分がいただくつもりだった。


 しかし、まったくうまくいかなかった。


 ニコスでは、さらに長居した。


 文芸の都にマルタは大喜びだったが、リオは最初、


「文芸? なにそれ美味しいの?」


 とまるで興味を示さなかった。


 ただし、劇場は別だった。


 毎晩のように芝居を見て、酒場へ行き、役者を眺める。

 

 そこで出会ったティファの双子の姉をだしにして、男を捕まえるつもりだったが、うまくいかなかった。


 そして。


 セントハイムへたどり着いた。


     ◇


 セントハイムでは


 一週間。


 一か月。


 三か月。


 三人は遊び続けた。


 酒場へ行き、劇場へ行き、競馬場へ通い、賭場でも遊んだ。


 それだけではない。


 夜の酒場で興行師と飲み、賭場の用心棒と顔見知りになり、金貸しや港の怪しい連中まで同じ卓を囲むようになった。


 やがて歓楽街では、


 ――チビとメガネの女が、今日も好き勝手やっている。


 そんな話まで知られるようになった。


 しかし、半年近くが過ぎた頃。


 あまりのリオの放蕩ぶりにあきれ果てたジンドによって、強制的にアスナムへ連れ戻されることになった。


 サウスウィンドから船に乗せられ、277年12月。


 パドゥーラを出てからほぼ一年後、三人はようやくアスナムへ戻った。



     ◇


「お嬢様」


 マルタの声で、リオは現実へ戻った。


「何?」


「また手が止まっております」


「昔のこと思い出してた」


「仕事中です」


 机の上には、相変わらず報告書が積まれている。


「……セントハイムに帰りたい」


「ですから、あそこは帰る場所ではありません」


「私の心の故郷なんだけど」


「アスナム公家の後継者が何を仰っているんですか」


「酒場も少ないし」


「仕事をしてください」


「競馬場もない」


「必要ありません」


「劇場ももっと欲しい」


「仕事をしてください」


「いい男も――」


「仕事をしてください」


 リオはまた大きくため息をつき、窓の外へ目を向けた。


 静かなアスナムの街。


 悪い街ではない。


 暮らすには穏やかで、商売もあり、食べ物にも困らない。


 だが。


 あの夜のセントハイムとは、比べものにならない。


 もっと楽しい街を。


 もっと人が集まる街を。


 誰もが遊ぶために訪れるような街を。


 そして何より、毎日自分が心ゆくまで遊べる街を。


 いつか。


 自分の手で作ってみたい。


「……何を笑っているんです?」


「別に」


 リオは報告書へ視線を戻した。


 大陸の北では、物価が上がり、商人が減り、土地を捨てる者が増えている。街道では人が襲われ、地方では中央政府への信頼が少しずつ失われ始めていた。


 まだ国が崩れたわけではない。


 王都は存在し、役人も動き、軍も残っている。


 だが。


 以前なら当たり前だったものが、一つずつ機能しなくなり始めている。


 その兆候は、もう書類の上にはっきりと現れていた。


 一方。


 南部アスナムは、今日も平穏だった。


 そしてリオにとって。


 その平穏こそが、何より退屈なのであった。

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