第5話 アムル(後)
◇
自分には、戦争の才能がある。
それは、もう認めざるを得なかった。
残念ながら、自分には他の人間には見えない一歩先が見えるらしい。
敵がどう動くか。
どこを突けば崩れるのか。
どの部隊を動かし、どこを守れば勝利に近づくのか。
すべてが分かるわけではないし、間違えることだってある。それでも、他の人間が悩んでいる時、自分にはその先の光景が見えていることがあった。
そして、それを実行できてしまう。
戦場では、その才能が何度も役に立った。
周囲は褒めてくれた。
英雄だと言われた。
天才だと言われた。
戦争の申し子だと評されたこともあった。
けれど、アムル自身はそんなものが欲しかったわけではない。
人より上手に人を殺せる才能。
そんなものを与えられて、どう喜べばいいのだろう。
できることなら、そんな才能など欲しくなかった。
それでも、受け入れることはできた。
エルを守るための力になるのなら。
あいつが笑っていられる場所を守れるのなら、どれほど嫌な才能であっても、使う意味はあると思えた。
だから戦った。
そして勝った。
何度も、何度も。
けれど、戦争の才能があるということと、正しい人間であるということは、まったく別の話だった。
それをアムルは一度、嫌というほど思い知らされている。
南北戦争。
エルバとの戦いだった。
◇
エルバが憎かった。
母シェリーの死の原因を作った男だった。
そのうえハイトを襲撃し、エルまで捕らえようとした。アムルとエルが故郷から逃げ出さなければならなくなったのも、あの男が原因だった。
母さんを奪った。
そして今度は、エルまで奪おうとした。
許せるはずがなかった。
母を失った悲しみが消えたことなど、一度もない。ハイトでエルを失いかけた時の恐怖も、決して忘れられるものではなかった。
あの男がいなければ。
何度そう考えたか分からない。
だから、何としてでもエルバを倒したかった。
南北戦争でエルバを討つ機会が訪れた時、アムルは一つの作戦を立てた。
成功すれば、エルバを倒せる。
だが、失敗した場合の損害は大きく、軍を率いる者として安易に選んでよい作戦ではなかった。
エルは反対した。
『アム、危険すぎるよ』
彼女は何度も止めようとした。
危険なのは分かっている。けれど、他にも方法があるはずだと、エルは最後まで譲ろうとしなかった。
しかし、アムルは聞かなかった。
危険であることなど、自分が一番よく分かっていた。それでも勝てると思った。
他の人間には見えない勝利への道筋が、自分には見えていた。
何より、この機会を逃せば、次にいつエルバを討てるか分からない。
母さんの仇だった。
エルまで奪おうとした男だった。
絶対に逃がしたくなかった。
だから、やった。
エルの反対を押し切り、作戦を実行した。
そして、勝った。
エルバを倒した。
長年抱えてきた憎しみを、ようやく晴らすことができたはずだった。
しかし、そこで終わらなかった。
復讐を果たしたというのに、胸の中にあった怒りは少しも収まらなかった。
エルバを倒した。
それなのに、母さんは戻ってこない。
ハイトで失ったものも戻ってこない。
エルバを倒せば、この憎しみも消えるのだと思っていた。
だが、消えなかった。
それどころか、行き場を失った怒りは、別の相手へ向かおうとしていた。
グランワルド。
エルバの親戚であり、その将として戦っていた男だった。
だが、グランワルドは自ら望んでエルバに従っていたわけではない。娘を人質に取られ、従わざるを得なかったのだ。
その事情は、アムルも知っていた。
知っていたはずだった。
それでも、あの時の自分にはどうでもよかった。
エルバの親戚であり、エルバの将として戦った。
それだけで十分だと思っていた。
捕虜となったグランワルドを前にして、アムルは処刑を命じようとした。
「グランワルドは処刑する。すぐに――」
「アムル!」
エルの声が響いた。
アムルは顔を向けたが、命令を撤回するつもりはなかった。
「グランワルドは娘を人質に取られていたんだよ。あの人だって、好きでエルバに従っていたわけじゃない!」
「分かってる」
「分かってない!」
エルの声が鋭くなる。
しかし、アムルは聞かなかった。
グランワルドがどんな事情を抱えていようと、エルバの将として戦った事実は変わらない。敵将をどう処分するか、それを決める権限は自分にある。
そんなことを考えていた。
エルがさらに何か言っている。
だが、その言葉は頭に入ってこなかった。
エルバを倒したのだ。
ようやく復讐を果たしたのだ。
ここで敵を許す理由など、アムルには見つけられなかった。
そんなアムルの前へ、エルが歩み出た。
次の瞬間。
ぱんっ。
乾いた音が響いた。
アムルの顔が横を向く。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
頬が熱い。
ゆっくり顔を戻すと、目の前にエルが立っていた。
「……エル?」
呆然と彼女を見つめる。
ひっぱたかれた。
エルに。
その事実が、どうしても理解できなかった。
「グランワルドとエルバを一緒にするな!」
エルは怒っていた。
アムルがこれまで見たこともないほど、激しく怒っていた。
「アムル、あなたは復讐するために戦っていたの?」
「…………」
「復讐心で人を殺すだけの人なの? アムルはそんな人なの?」
アムルは何も言えなかった。
反論なら、いくらでもできたはずだった。
エルバが何をしたのか。
母さんがどうなったのか。
ハイトで何が起きたのか。
あの男がエルを捕らえようとした時、自分がどんな気持ちだったのか。
全部、話すことができた。
けれど、目の前のエルを見た瞬間、その言葉が出てこなくなった。
エルが泣いていた。
「違うでしょ……」
震える声が聞こえた。
「私のアムは、そんな人じゃない」
涙が頬を伝っていた。
アムルは言葉を失った。
自分が正しいと信じていた。
エルバを倒すことは正しい。
エルバに従った者を罰することも当然だと思っていた。
けれど、目の前でエルが泣いている。
自分が泣かせたのだ。
それも、エルを守りたいと思って戦ってきた、その自分が。
アムルはゆっくりと視線を落とした。
そこには、捕らえられたグランワルドがいる。
娘を人質に取られ、望まぬ戦いを強いられた男だった。
その男を、自分は殺そうとしていた。
もう戦うことのできない捕虜を、エルバへの復讐心だけで処刑しようとしていた。
何のために。
何を守るために。
母さんのためだったのか。
エルを守るためだったのか。
違う。
少なくとも、今ここでグランワルドを殺したところで、母さんが戻ってくるわけでも、エルを守ることになるわけでもない。
そんなことは、少し考えれば分かるはずだった。
それなのに、自分は考えようともしなかった。
自分が正しいと信じて、疑わなかった。
「……処刑は」
ようやく声が出た。
しかし、その先が続かなかった。
アムルは唇を噛み、もう一度グランワルドを見た。
それから、エルへ視線を戻す。
「……取り消す」
それだけ言うのが精一杯だった。
エルは何も答えなかった。
ただ、涙を拭おうともせず、アムルを見つめていた。
アムルも、それ以上何も言えなかった。
あの時のエルの顔は、今でも忘れられない。
◇
アムルは、机の上に置いた自分の手を見つめた。
あの時エルが止めてくれなければ、グランワルドを処刑していただろう。それも、敵将への当然の処置だと考え、罪悪感すら覚えなかったかもしれない。
エルバを倒すために立てた危険な作戦も、エルの反対を押し切って成功させた。勝ったのだから自分の判断は正しかった。そう思い込んだまま、次は復讐心に任せて捕虜の命を奪おうとしたのだ。
止まれたのは、理屈を理解したからではない。自分が守ると決めたエルが、目の前で泣いていたからだった。
そして今、エルはいない。
ティーエやホウアン、ロックたちが間違いを指摘してくれることはあるだろう。だが、エルの忠告さえ聞かなかった自分が、再び何かに取り憑かれた時、彼らの言葉を聞けるという保証はどこにもなかった。
あの頃よりも多くの兵を動かし、町や領地の命運を左右する権限まで持っている。自分が命じれば、何千という人間が動き、その先で誰かが死ぬ。しかも、命令を実行できるだけの才能が自分にはある。
正しいと思い込んだまま、取り返しのつかないことをするかもしれない。
その恐怖を、今のアムルは知っていた。
◇
政務なら、まだいい。
書類を読み、人に尋ね、考え直す時間がある。この数年、パドゥーラ侯として働くうちに、以前なら感覚だけで処理していた事柄も、理由を考え、言葉にして判断するようになった。時間さえあれば、自分の決断を確かめられる。
だが、戦場ではそうはいかない。
昔なら敵の動きを見た瞬間、考えるより先に次の一手が分かった。失敗も無茶もあったが、決断すること自体を恐れはしなかった。
今は、命令を出そうとするたびに問いが浮かぶ。
――パドゥーラ侯なら、どうする。
その判断は正しいのか。勝てるとしても、やっていいことなのか。別の方法はないのか。
考えている間にも敵は動き、遅れた分だけ兵が危険にさらされる。だからといって、以前のように見えた勝機へ飛びつけば、グランワルドの時と同じ過ちを繰り返すかもしれない。
命令を下しても人が死ぬ。ためらっても人が死ぬ。
それを分かっていながら、アムルは自分の判断を信じ切れなくなっていた。
◇
ラレドでもそうだった。
紅旗を掲げたエルが中央を突破し、本陣へ迫ってくる。その狙いも、次にどう動くかも、アムルには見えていた。迎撃するのか、部隊を下げるのか、自ら剣を取るのか。答えを出さなければならない瞬間に、また考えてしまった。
――本当に、それでいいのか。
ほんのわずかな迷いだった。それでも、その間にエルは本陣のすぐ近くまで迫り、互いの顔が見える距離まで来ていた。
あんなエルの顔を、アムルは知らなかった。
笑った顔も、怒った顔も、涙を流した顔も知っている。だが、剣を握り、自分を殺すために向かってくるあの表情だけは、見たことがなかった。
迷いのない顔に見えた。けれど、今なら別のことを思う。
――俺を殺さなければ、自分が壊れてしまう人間の顔だった。
そこまでエルを追い込んだのは、自分だ。
みんなを守り、パドゥーラ侯として正しくあろうとした。その果てに、誰よりも守りたかった相手と剣を向け合っている。
「……何やってんだ、俺は」
声にしても、答えは返ってこなかった。
グランワルドを殺そうとした自分を、エルは涙を流して止めてくれた。その同じエルが、ラレドでは自分を殺そうとしたのだ。
あの剣が届いていたら、すべて終わっていたかもしれない。そう思い、ほんの一瞬、それでもよかったのではないかと考えてしまった。
アムルは長く息を吐いた。
◇
英雄。名君。パドゥーラ侯アムル。
周囲は今もそう呼んでくれるし、領民も兵も、自分なら何とかしてくれると信じている。アムル自身、彼らを見捨てる気はなかった。
何より、仕事はできてしまう。どれほど気が滅入っていても、書類を開けば必要なことが分かり、問題を聞けば対処法を考えられる。そうして働くたびに周囲は安心し、ますますパドゥーラ侯を頼るようになる。
その姿が嘘というわけではない。領地を守りたい気持ちも、培ってきた知識も、本物だった。
ただ、いつからかアムルは、みんなが求める「パドゥーラ侯」を演じているように感じていた。
英雄なら勝たねばならない。名君なら正しくあらねばならない。そう考えるほど、かつて迷いなく動いていた自分が遠くなっていく。
ふと、今朝の夢を思い出した。
魚は一匹も釣れず、エルに笑われ、バーナードにからかわれた。リオとバーナードが喧嘩を始め、それを面白がっていたら、今度はエルに叱られた。
誰かを救ったわけでも、立派な決断をしたわけでもない。ただ、くだらないことで笑っていた。それなのに、あんなに楽しかった。
あの夢の中では、英雄でも名君でもなかった。
ただのアムルだった。
だが、どの自分が本当なのだろう。戦場で勝利を重ねた自分も、復讐に駆られた自分も、領民のために働く自分も、どれも間違いなく自分だった。ならば、今の自分だけが偽物というわけでもないはずだ。
それでも、エルが隣にいた頃には、こんなふうに自分が分からなくなることはなかった。
『私のアムは、そんな人じゃない』
あの時、エルはそう言った。
彼女には、自分にも見えないアムルが見えていたのだろうか。
もう一度、あいつに名前を呼んでほしかった。パドゥーラ侯でも、英雄でもない、ただの「アム」と。
◇
扉が叩かれた。
「閣下。午後の会議のお時間です」
アムルは机の上に目を落とした。書類と地図と印章。どれも、今の自分が放り出すわけにはいかないものだった。
「閣下?」
「……入って」
扉が開き、若い官吏が頭を下げる。
「皆様、お待ちです」
「分かった。すぐ行くよ」
官吏がほっとしたように笑う。その顔を見ると、やはり自分がここにいる意味はあるのだと思えた。
アムルは立ち上がり、服を整えた。
自分が何者なのか、どうすれば昔のように決断できるのか。まだ答えは出ない。それでも、会議を待つ人々を前に、立ち止まっているわけにはいかなかった。
「じゃあ、行こうか」
いつも通りの声で官吏に告げ、アムルは執務室を出た。
廊下を歩く姿は、誰が見てもパドゥーラ侯アムルだっただろう。
ただ、その役を演じる本人だけが知っていた。
かつて自分を止めてくれたエルは、もう隣にいない。そして今の自分は、一人で自分を止めることも、迷わず進むこともできなくなっていた。




