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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第七章 君のいる場所へ

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第5話 アムル(後)

◇


 自分には、戦争の才能がある。


 それは、もう認めざるを得なかった。


 残念ながら、自分には他の人間には見えない一歩先が見えるらしい。


 敵がどう動くか。


 どこを突けば崩れるのか。


 どの部隊を動かし、どこを守れば勝利に近づくのか。


 すべてが分かるわけではないし、間違えることだってある。それでも、他の人間が悩んでいる時、自分にはその先の光景が見えていることがあった。


 そして、それを実行できてしまう。


 戦場では、その才能が何度も役に立った。


 周囲は褒めてくれた。


 英雄だと言われた。


 天才だと言われた。


 戦争の申し子だと評されたこともあった。


 けれど、アムル自身はそんなものが欲しかったわけではない。


 人より上手に人を殺せる才能。


 そんなものを与えられて、どう喜べばいいのだろう。


 できることなら、そんな才能など欲しくなかった。


 それでも、受け入れることはできた。


 エルを守るための力になるのなら。


 あいつが笑っていられる場所を守れるのなら、どれほど嫌な才能であっても、使う意味はあると思えた。


 だから戦った。


 そして勝った。


 何度も、何度も。


 けれど、戦争の才能があるということと、正しい人間であるということは、まったく別の話だった。


 それをアムルは一度、嫌というほど思い知らされている。


 南北戦争。


 エルバとの戦いだった。


◇


 エルバが憎かった。


 母シェリーの死の原因を作った男だった。


 そのうえハイトを襲撃し、エルまで捕らえようとした。アムルとエルが故郷から逃げ出さなければならなくなったのも、あの男が原因だった。


 母さんを奪った。


 そして今度は、エルまで奪おうとした。


 許せるはずがなかった。


 母を失った悲しみが消えたことなど、一度もない。ハイトでエルを失いかけた時の恐怖も、決して忘れられるものではなかった。


 あの男がいなければ。


 何度そう考えたか分からない。


 だから、何としてでもエルバを倒したかった。


 南北戦争でエルバを討つ機会が訪れた時、アムルは一つの作戦を立てた。


 成功すれば、エルバを倒せる。


 だが、失敗した場合の損害は大きく、軍を率いる者として安易に選んでよい作戦ではなかった。


 エルは反対した。


『アム、危険すぎるよ』


 彼女は何度も止めようとした。


 危険なのは分かっている。けれど、他にも方法があるはずだと、エルは最後まで譲ろうとしなかった。


 しかし、アムルは聞かなかった。


 危険であることなど、自分が一番よく分かっていた。それでも勝てると思った。


 他の人間には見えない勝利への道筋が、自分には見えていた。


 何より、この機会を逃せば、次にいつエルバを討てるか分からない。


 母さんの仇だった。


 エルまで奪おうとした男だった。


 絶対に逃がしたくなかった。


 だから、やった。


 エルの反対を押し切り、作戦を実行した。


 そして、勝った。


 エルバを倒した。


 長年抱えてきた憎しみを、ようやく晴らすことができたはずだった。


 しかし、そこで終わらなかった。


 復讐を果たしたというのに、胸の中にあった怒りは少しも収まらなかった。


 エルバを倒した。


 それなのに、母さんは戻ってこない。


 ハイトで失ったものも戻ってこない。


 エルバを倒せば、この憎しみも消えるのだと思っていた。


 だが、消えなかった。


 それどころか、行き場を失った怒りは、別の相手へ向かおうとしていた。


 グランワルド。


 エルバの親戚であり、その将として戦っていた男だった。


 だが、グランワルドは自ら望んでエルバに従っていたわけではない。娘を人質に取られ、従わざるを得なかったのだ。


 その事情は、アムルも知っていた。


 知っていたはずだった。


 それでも、あの時の自分にはどうでもよかった。


 エルバの親戚であり、エルバの将として戦った。


 それだけで十分だと思っていた。


 捕虜となったグランワルドを前にして、アムルは処刑を命じようとした。


「グランワルドは処刑する。すぐに――」


「アムル!」


 エルの声が響いた。


 アムルは顔を向けたが、命令を撤回するつもりはなかった。


「グランワルドは娘を人質に取られていたんだよ。あの人だって、好きでエルバに従っていたわけじゃない!」


「分かってる」


「分かってない!」


 エルの声が鋭くなる。


 しかし、アムルは聞かなかった。


 グランワルドがどんな事情を抱えていようと、エルバの将として戦った事実は変わらない。敵将をどう処分するか、それを決める権限は自分にある。


 そんなことを考えていた。


 エルがさらに何か言っている。


 だが、その言葉は頭に入ってこなかった。


 エルバを倒したのだ。


 ようやく復讐を果たしたのだ。


 ここで敵を許す理由など、アムルには見つけられなかった。


 そんなアムルの前へ、エルが歩み出た。


 次の瞬間。


 ぱんっ。


 乾いた音が響いた。


 アムルの顔が横を向く。


 何が起きたのか、すぐには理解できなかった。


 頬が熱い。


 ゆっくり顔を戻すと、目の前にエルが立っていた。


「……エル?」


 呆然と彼女を見つめる。


 ひっぱたかれた。


 エルに。


 その事実が、どうしても理解できなかった。


挿絵(By みてみん)


「グランワルドとエルバを一緒にするな!」


 エルは怒っていた。


 アムルがこれまで見たこともないほど、激しく怒っていた。


「アムル、あなたは復讐するために戦っていたの?」


「…………」


「復讐心で人を殺すだけの人なの? アムルはそんな人なの?」


 アムルは何も言えなかった。


 反論なら、いくらでもできたはずだった。


 エルバが何をしたのか。


 母さんがどうなったのか。


 ハイトで何が起きたのか。


 あの男がエルを捕らえようとした時、自分がどんな気持ちだったのか。


 全部、話すことができた。


 けれど、目の前のエルを見た瞬間、その言葉が出てこなくなった。


 エルが泣いていた。


「違うでしょ……」


 震える声が聞こえた。


「私のアムは、そんな人じゃない」


 涙が頬を伝っていた。


 アムルは言葉を失った。


 自分が正しいと信じていた。


 エルバを倒すことは正しい。


 エルバに従った者を罰することも当然だと思っていた。


 けれど、目の前でエルが泣いている。


 自分が泣かせたのだ。


 それも、エルを守りたいと思って戦ってきた、その自分が。


 アムルはゆっくりと視線を落とした。


 そこには、捕らえられたグランワルドがいる。


 娘を人質に取られ、望まぬ戦いを強いられた男だった。


 その男を、自分は殺そうとしていた。


 もう戦うことのできない捕虜を、エルバへの復讐心だけで処刑しようとしていた。


 何のために。


 何を守るために。


 母さんのためだったのか。


 エルを守るためだったのか。


 違う。


 少なくとも、今ここでグランワルドを殺したところで、母さんが戻ってくるわけでも、エルを守ることになるわけでもない。


 そんなことは、少し考えれば分かるはずだった。


 それなのに、自分は考えようともしなかった。


 自分が正しいと信じて、疑わなかった。


「……処刑は」


 ようやく声が出た。


 しかし、その先が続かなかった。


 アムルは唇を噛み、もう一度グランワルドを見た。


 それから、エルへ視線を戻す。


「……取り消す」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 エルは何も答えなかった。


 ただ、涙を拭おうともせず、アムルを見つめていた。


 アムルも、それ以上何も言えなかった。


 あの時のエルの顔は、今でも忘れられない。


◇


 アムルは、机の上に置いた自分の手を見つめた。


 あの時エルが止めてくれなければ、グランワルドを処刑していただろう。それも、敵将への当然の処置だと考え、罪悪感すら覚えなかったかもしれない。


 エルバを倒すために立てた危険な作戦も、エルの反対を押し切って成功させた。勝ったのだから自分の判断は正しかった。そう思い込んだまま、次は復讐心に任せて捕虜の命を奪おうとしたのだ。


 止まれたのは、理屈を理解したからではない。自分が守ると決めたエルが、目の前で泣いていたからだった。


 そして今、エルはいない。


 ティーエやホウアン、ロックたちが間違いを指摘してくれることはあるだろう。だが、エルの忠告さえ聞かなかった自分が、再び何かに取り憑かれた時、彼らの言葉を聞けるという保証はどこにもなかった。


 あの頃よりも多くの兵を動かし、町や領地の命運を左右する権限まで持っている。自分が命じれば、何千という人間が動き、その先で誰かが死ぬ。しかも、命令を実行できるだけの才能が自分にはある。


 正しいと思い込んだまま、取り返しのつかないことをするかもしれない。


 その恐怖を、今のアムルは知っていた。


◇


 政務なら、まだいい。


 書類を読み、人に尋ね、考え直す時間がある。この数年、パドゥーラ侯として働くうちに、以前なら感覚だけで処理していた事柄も、理由を考え、言葉にして判断するようになった。時間さえあれば、自分の決断を確かめられる。


 だが、戦場ではそうはいかない。


 昔なら敵の動きを見た瞬間、考えるより先に次の一手が分かった。失敗も無茶もあったが、決断すること自体を恐れはしなかった。


 今は、命令を出そうとするたびに問いが浮かぶ。


 ――パドゥーラ侯なら、どうする。


 その判断は正しいのか。勝てるとしても、やっていいことなのか。別の方法はないのか。


 考えている間にも敵は動き、遅れた分だけ兵が危険にさらされる。だからといって、以前のように見えた勝機へ飛びつけば、グランワルドの時と同じ過ちを繰り返すかもしれない。


 命令を下しても人が死ぬ。ためらっても人が死ぬ。


 それを分かっていながら、アムルは自分の判断を信じ切れなくなっていた。


◇


 ラレドでもそうだった。


 紅旗を掲げたエルが中央を突破し、本陣へ迫ってくる。その狙いも、次にどう動くかも、アムルには見えていた。迎撃するのか、部隊を下げるのか、自ら剣を取るのか。答えを出さなければならない瞬間に、また考えてしまった。


 ――本当に、それでいいのか。


 ほんのわずかな迷いだった。それでも、その間にエルは本陣のすぐ近くまで迫り、互いの顔が見える距離まで来ていた。


 挿絵(By みてみん)


 あんなエルの顔を、アムルは知らなかった。


 笑った顔も、怒った顔も、涙を流した顔も知っている。だが、剣を握り、自分を殺すために向かってくるあの表情だけは、見たことがなかった。


 迷いのない顔に見えた。けれど、今なら別のことを思う。


 ――俺を殺さなければ、自分が壊れてしまう人間の顔だった。


 そこまでエルを追い込んだのは、自分だ。


 みんなを守り、パドゥーラ侯として正しくあろうとした。その果てに、誰よりも守りたかった相手と剣を向け合っている。


「……何やってんだ、俺は」


 声にしても、答えは返ってこなかった。


 グランワルドを殺そうとした自分を、エルは涙を流して止めてくれた。その同じエルが、ラレドでは自分を殺そうとしたのだ。


 あの剣が届いていたら、すべて終わっていたかもしれない。そう思い、ほんの一瞬、それでもよかったのではないかと考えてしまった。


 アムルは長く息を吐いた。


◇


 英雄。名君。パドゥーラ侯アムル。


 周囲は今もそう呼んでくれるし、領民も兵も、自分なら何とかしてくれると信じている。アムル自身、彼らを見捨てる気はなかった。


 何より、仕事はできてしまう。どれほど気が滅入っていても、書類を開けば必要なことが分かり、問題を聞けば対処法を考えられる。そうして働くたびに周囲は安心し、ますますパドゥーラ侯を頼るようになる。


 その姿が嘘というわけではない。領地を守りたい気持ちも、培ってきた知識も、本物だった。


 ただ、いつからかアムルは、みんなが求める「パドゥーラ侯」を演じているように感じていた。


 英雄なら勝たねばならない。名君なら正しくあらねばならない。そう考えるほど、かつて迷いなく動いていた自分が遠くなっていく。


 ふと、今朝の夢を思い出した。


 魚は一匹も釣れず、エルに笑われ、バーナードにからかわれた。リオとバーナードが喧嘩を始め、それを面白がっていたら、今度はエルに叱られた。


 誰かを救ったわけでも、立派な決断をしたわけでもない。ただ、くだらないことで笑っていた。それなのに、あんなに楽しかった。


 あの夢の中では、英雄でも名君でもなかった。


 ただのアムルだった。


 だが、どの自分が本当なのだろう。戦場で勝利を重ねた自分も、復讐に駆られた自分も、領民のために働く自分も、どれも間違いなく自分だった。ならば、今の自分だけが偽物というわけでもないはずだ。


 それでも、エルが隣にいた頃には、こんなふうに自分が分からなくなることはなかった。


『私のアムは、そんな人じゃない』


 あの時、エルはそう言った。


 彼女には、自分にも見えないアムルが見えていたのだろうか。


 もう一度、あいつに名前を呼んでほしかった。パドゥーラ侯でも、英雄でもない、ただの「アム」と。


◇


 扉が叩かれた。


「閣下。午後の会議のお時間です」


 アムルは机の上に目を落とした。書類と地図と印章。どれも、今の自分が放り出すわけにはいかないものだった。


「閣下?」


「……入って」


 扉が開き、若い官吏が頭を下げる。


「皆様、お待ちです」


「分かった。すぐ行くよ」


 官吏がほっとしたように笑う。その顔を見ると、やはり自分がここにいる意味はあるのだと思えた。


 アムルは立ち上がり、服を整えた。


 自分が何者なのか、どうすれば昔のように決断できるのか。まだ答えは出ない。それでも、会議を待つ人々を前に、立ち止まっているわけにはいかなかった。


「じゃあ、行こうか」


 いつも通りの声で官吏に告げ、アムルは執務室を出た。


 廊下を歩く姿は、誰が見てもパドゥーラ侯アムルだっただろう。


 ただ、その役を演じる本人だけが知っていた。


 かつて自分を止めてくれたエルは、もう隣にいない。そして今の自分は、一人で自分を止めることも、迷わず進むこともできなくなっていた。

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