二人だけの言葉
「涼しいね」
日陰で、風を感じながら私は呟く。
「何言ってんの。超暑いでしょ」
日向で、太陽に照らされながら友人は言った。
「涼しいの」
アスファルトの上。
頭上から容赦なく照りつける太陽を浴びながら、私はもう一度言う。
「暑すぎて頭おかしくなったんじゃないの?」
その隣で、手を額にかざして日差しをさえぎる友人が、呆れたように言った。
頭がおかしい。そう言われるのも無理はない。
風、日陰。
どれ一つない炎天下の道路で、誰が「涼しいね」なんて、笑顔で言えるだろうか。
世界中を探しても、きっと私しかいない。
それでも、「暑い」と口にしてしまえば、一瞬で暑さというものにやられてしまう。
だから、涼しい環境を想像しながら、それを言葉にする。
『気持ちで負けるな』
幼い頃に見た映画の主人公が言った言葉だ。
暑くても涼しいと思え。
寒くても暖かいと思え。
他にもいろいろあるけれど、とにかく口に出すことが大事なんだそう。
一緒に映画を見た母は、「変わった主人公」だと笑っていた。
けれど私は、いつも前向きで、どんな出来事も楽しそうに笑い飛ばすその主人公に惹かれ、自分もそんな人になりたいと思った。
だから高校生になった今も、友人から奇妙なものを見るような目を向けられても、私は迷わず「涼しい」と口にする。
「アイス食べたい」
隣からふと聞こえてきたその一言に、思わず頷く。
口にはしないものの、感じるものはある。
「最近彼氏からの返事が遅いんだよね」
一瞬、思考が止まる。
アイスの話かと思えば、次の瞬間には彼氏の話へと移っていた。
「そっちは?彼氏できた?」
だからさっきの話は?
返事をする前に次々と話題を変えられて、本当に頭がおかしくなりそうだった。
なんて、これが彼女の通常運転。もう慣れている。
「できてない。ていうか別にいなくていいかな」
正直、恋愛には興味がない。
「つまんないのー」
「聞く相手、間違ってるって」
「それもそうだね」
私は未だかつて、恋人がいたことも、好きな人ができたこともない。
できないわけじゃない。ただ、本当に興味がない。
こうして友達と何気ない話をしながら登校する時間の方が、ずっと好きだった。
「告白されたことは?」
「ない」
私が興味を持たないだけじゃない。
男子も、私を恋愛対象として見ていない。
そもそも、女子として見ていない。
私はただ普通に話しているだけなのに、「変人」だとからかってくる。
「今はしてないだけだったりして」
「え?」
「されるかもよ、告白。案外身近な人に」
「そんなこと……」
――「好きだ。俺と付き合って欲しい」
あった。
昼休み。
クラスの男子から急に呼び出された。
いつものようにからかってくるのかと思った。
けれど、彼の表情は真剣だった。
その瞬間、嫌な予感とも違う、言葉にできない何かが胸をよぎった。
そして、校舎裏。人気のないその場所で、告げられた。
あまりにも予想外の出来事に、どうすればいいのかわからず、私はただ立ち尽くしていた。
「返事は今じゃなくていいから」
そう言い残して、彼は校舎裏を後にした。
…………
…………
え、何があった?
「告白されたんだよ!」
「だよね……」
下校中。
まだ頭の整理がつかない私とは対照的に、友人はやけに楽しそうだった。
「しかも相手が!あの!」
「そうなんだよね……」
一番ありえないと思っていた。
男子は私を恋愛対象として見ていない。
そう思ったとき、真っ先に浮かんできた相手だった。
「返事は?」
「してない」
「悩んでるの?」
「……うん」
想像すらしていなかったことが、突然目の前に転がってきた。
自分の気持ちに嘘はつきたくない。
でも、本当の気持ちを伝えたら、彼との関係は変わってしまう。
……いや。告白された時点で、もう変わってしまっているのかもしれない。
中学から一緒で、いつも私をからかっては、反応を見て笑って。
そんないつも通りの関係は、もう……
「付き合ってみれば?」
……え。
その一言に、思考が止まる。
「もしかしたら、友達みたいな感じで付き合るかもしれないじゃん」
友達みたいな感じ?
私は首を傾げる。
「結構いるよ。付き合ってるけど友達みたいな人たち」
友達と恋人。
私の中では、どうしても結びつかない。
「どっちにしろ、付き合ってみないとわかんないね」
……そういう考え方もあるのか。
けれど、すぐには飲み込めなかった。
「私は今それで、結構上手くいってるよ」
朝は返事遅いとか言ってなかったっけ?
嬉しそうに話す友人にはとても言えない疑問だった。
「今の彼氏が一番長く続いてるんだー」
「どれくらい?」
「一ヶ月」
相談する相手、間違えたかも。
一瞬そう思ったけど、ほかに相談できる人もいない。
………一人だけ、浮かぶ人はいる。
けれど、絶対に言いたくない。
間違いなく、面倒くさいことになる。
絶対に言わない。
何があっても、自分からは。
「何かあった?」
家に帰るなり、母が開口一番そう聞いてきた。
……母親というものは、どうしてすぐに娘の異変に気づけるのだろう。
「もしかして告白された?」
しかも当ててくる。
本当に、なんで?
「え、ほんとに?」
もう隠しても仕方ない。そう思って、頷いた。
「えーー!!」
声が大きい。
「あなたまさか、振ってないよね?」
「まだ」
「まだ!?振ろうとしてるの!?」
「……わかんない」
ああ。
「あなたみたいな変わった子を好きになってくれる人なんて、滅多にいないよ!?」
わかっていた。
「いい?絶対に断っちゃだめ。さもないと十年後、二十年後に後悔するよ」
だから言いたくなかったんだ。
「あなたのために言ってるんだからね。絶対に……」
「学校に忘れ物した」
私は母の言葉を遮るようにそう言うと、そのまま家を出た。
扉を閉め、大きく息を吐く。
――『あなたみたいな変わった子……』
そんなの、言われなくてもわかってる。
クラスメイトには、何度も「変わってる」だの「変人」だの言われてきた。
今さら傷つくような言葉じゃない。
それでも私は、今の自分を変えたいとは思わない。
誰かに好かれるために、自分を変えるつもりもない。
私は私だ。それでいいと思っている。
……なのに。
クラスメイトに言われるときは笑って流せる。
でも、母に言われた言葉だけは、妙に胸に残っていた。
……気持ちで負けるな。前向き、前向き。
そう自分に言い聞かせて顔を上げた、その瞬間。
「よっ!」
今、一番会いたくない人がいた。
家の前の道路で自転車にまたがったまま彼は、私と目が合うなり、にっと笑って人差し指を向けた。
「ナイスタイミング!」
……最悪だ。
「今日暑くね?」
額の汗を左手で拭いながら、彼は言った。
「涼しいけど?」
汗で額に張りついた前髪をかき上げながら、私は言った。
毎回同じやり取り。
それでも彼は、「まじ?」と言って、飽きもせず私の反応を見て笑う。
「やっぱ変わってんな」
……そう。
この感じ。いつもの感じ。
普段ならうざったいだけなのに、今は何だか嬉しかった。
「ちょっとさ」
さっきまで笑っていた彼の表情が、少しだけ緩んだ。
「付き合ってくんね?」
え?
「付き、つき、月?」
「落ち着けって。出かけるから一緒に来てってこと」
落ち着け?よく言えたものだ。
「嫌」
「なっ、ちょっとだけ!」
「ちょっとでも嫌」
「なんだよ付き合い悪いなー」
彼は自転車の後ろを親指で示しながら、肩をすくめた。
「せっかく後ろ乗せてやろうと思ったのに」
……後ろ。
その言葉に、思わず心が揺れた。
二人乗り。それは、私が密かに憧れているものだった。
幼い頃見た、あの映画。
一番印象に残っているのは、主人公が自転車で二人乗りをする場面だった。
いつか私も。ずっとそう思っていた。
……一度だけ。
気づけば、足は彼の方へ向いていた。
自転車の後ろへ回り、荷台に腰を下ろす。
「しっかり捕まれよ」
彼のシャツの裾をそっとつまむ。
「じゃ、行くぞ」
彼がペダルを踏み込むと、自転車がゆっくりと前へ動き出した。
流れていく景色。
足ではなく、車輪が進めてくれる景色。
いつも歩いている道なのに、どこか違って見える。
映画の二人も、こんな景色を見ていたのだろうか。
少しずつ、速度が上がる。
頬を撫でる風が、次々と通り過ぎていく。
……涼しい。
心の底から、そう思えた。
「どうだ?乗り心地は」
背中越しに、声が届く。
私は思いきり息を吸い込んで、答えた。
「最っ高!」
「ははっ、だろ?」
彼の表情は見えない。
それでも、その笑い声だけでわかった。
同じ風を感じて、同じ景色を見て。
今、この瞬間だけは、きっと同じように笑っている。
――
「どこ、ここ」
自転車を止め、少し進んだ先。
そこには木々と畑が広がるばかりで、建物は一つもなかった。
ただ一つ。山肌にぽっかりと開いた、大きな暗闇だけが目の前にあった。
奥は何も見えない。
本当に出口があるのか疑いたくなるほど、先は暗く、長く続いている。
「ここ入るからな」
彼は、その暗闇を指さした。
できれば、違っていてほしかった。
……もしかして。
嫌な予感を振り払えないまま、私はおそるおそる聞いた。
「肝試し?」
その言葉に、彼は一瞬きょとんとした。
私の視線を追うように暗闇へ目を向けた。
「あー!」
思い当たったように笑う。
「いや、違うって」
「……ややこしい」
彼はおかしそうに笑った。
「怖いのか?」
「いいや?」
私は首を横に振った。
「もしそうだったら楽しそうだなって思って」
「ほんとかー?」
にやにやと覗き込んでくる。
「うざい。行くんでしょ?置いてくよ」
彼は「はいはい」と軽く返事をすると、先に歩き出した。
私もその隣に並ぶ。
中に足を踏み入れると、響くのは二人分の足音だけだった。
壁や天井には、何かわからない傷跡のようなものが無数に残っている。
……やっぱり少し。
「楽しいね」
「わかる。楽しいよな」
思わず足を止めそうになった。
絶対に笑われると思っていた。
からかわれると思っていた。
……共感された。
そんなの、初めてだった。
「ここ知ってるか?」
彼が不意に聞いてきた。
知っていたら、きっと忘れない。そう思って私は「初めて来た」と答えた。
けれど次の瞬間、隣を歩いていた彼の足音が聞こえなくなる。
振り返ると、少し後ろに彼が立っていた。
「何、どうしたの?」
いつもとは違う空気。今日、二回目だった。
さっきまでいつも通りだったから、すっかり忘れていた。
この人は私のことを……
「ここさ、俺らが初めて会った場所なんだ」
目を見開く私に、彼は続けた。
「まあ忘れるよな。小学一年の時だったし」
彼は目を細め、話し始めた。
「夏休みだった。俺は、家族とはぐれてここで迷子になってたんだ」
――
「お母さん……お父さん……」
暗闇の中。
どこにいるかもわからず、俺は一人しゃがみ込んで泣いていた。
「どうしたの?」
一人の少女が声をかけてきた。
「お母さんとお父さんいない……」
少女はにこっと笑った。
「一緒に探そうよ!」
小さな手が、目の前に差し出される。
でも俺は、その手を見つめることしかできなかった。
「……怖い」
小さくつぶやいて、顔をうずめる。
「ダメだよ!」
びくりと肩が跳ねた。
顔を上げると、少女はまっすぐ俺を見つめていた。
「怖くても、それを言ったらダメなんだよ!気持ちで負けちゃダメ!」
はっきりとそう言うと、少女は俺の隣に腰を下ろし、楽しそうに話し始めた。
「想像するの。怖いんだったら、楽しいものを。遊園地とか、動物園とか!」
暗いはずなのに、その声だけは、一筋の光が差し込んだように明るく響いていた。
「私はね、映画が大好きなの。
映画で見たことをね、いつか私もやってみたい!って考えるだけで、わくわくするんだ!」
目を輝かせながら話すその姿を見ていると、聞いてみたくなった。
「どんな?」
「あのね!」
――そのあと、少女は夢中になって映画の話をしてくれた。
どれくらい時間が経ったのかはわからない。
気づけば俺は、迷子だったことも忘れるくらい、その話に引き込まれていた。
――
「……それって」
「二人乗りって言ってたな」
今日、二人乗りに誘ってくれたのはただの思いつきだと思っていた。
ちゃんと、意味があったんだ。
「……ありがとう」
「全然。好きな人の憧れを叶えられるなんて、俺の方こそありがたい」
「……」
「何黙ってんだ?」
「うるさい」
「照れてんの?」
「黙れ」
顔をしかめる私を見て、彼は「悪かったって」と笑う。
それから、少しだけ得意そうに続けた。
「俺、結構わかりやすかったと思うけどな」
「どこが」
「毎日声かけてたし」
「からかってきただけじゃん」
「他の女子とは、ほとんど話さないし」
「そうだっけ?」
「みんな気づいてたよ」
「……うそ。でも、友達は意外だって」
「他クラスだろ?同じクラスの奴らな」
「……そうだね」
今は何を言っても、言い返せる気がしない。
「俺、映画見たんだ」
「え?」
「あんだけ楽しそうに話すから気になってさ」
……そこまで。
「まあ、見たは見たけど、本人には全然会えなかったな」
「……そう」
「だから、次に会えたら映画の話をしようと思って、何回も見返した」
……次に会った時。
全然会えなかったということは、中学の時で間違いないはずだけど。
「してくれたっけ?」
「いや。なんつーか、中学ん時は無理だな。せめて小学生だったら……」
「なんだそれ」
思わず拍子抜けする。
「結局、そのまま高校生になっちゃったし」
彼は照れくさそうに笑った。
「でも今日さ、あんな暑いのに朝から『涼しい』なんて言ってるの見て、やっぱ好きだなって思った」
「変わってるとか言ってたのに?」
「そりゃあ、変わってるもんは変わってる」
迷わず言い切る。
「そんなとこが好きってこと」
「……あのさ」
これ以上は耐えられない。
「さっきから、それ、無理なんだけど」
「好きって?」
わざわざ避けて聞いたのに、全部わかった上で聞いてきてるであろう彼に腹が立った私は、本気で顔をしかめた。
すると彼も察したようで、「ごめん」と今度は申し訳なさそうに言った。
「……それでさ、俺あん時主人公の話ばっか聞いたから、一緒に二人乗りした相手の方気になっててさ」
相手。
そうだ。あの頃主人公ばかり見ていたからあまり見れていなかったけど、相手は確か……
「めっちゃ良い友達だよね」
「めっちゃ良い恋人だよな」
声はぴったり重なったはずなのに。
その言葉は、明らかに別のものを示していた。
顔を見合わせる。
「今、なんて言ったの?」
「……俺は、めっちゃ良い恋人って」
「……私は、友達」
やっぱり、違う。
「いや!あの人は友達だよ!?同じ学校の仲の良い友達!」
「違うだろ!たしかに仲は良いけど恋人だって!」
「は!?なんでそうなるの!?」
「そっちこそどうなってんだ!?」
あまりの勢いに、二人とも黙り込む。
息を整えてから、もう一度、今度は冷静に話し始めた。
「なんで友達だと思うんだ?」
「だって、別に恋人って感じじゃなくない?」
「たしかにあの二人は距離感も会話も友達っぽいけどさ」
彼はきっぱりと言った。
「恋人だよ。あらすじにも書いてあった」
「え?うそ」
「まじ。俺、ちゃんとあらすじ読んでから見るタイプだし」
「……私見てない。ていうかあの映画見たの、ちっちゃい時に一回だけなんだよね」
「嘘だろ。俺なんて、もう何十回も見てる」
彼の発言にこそ嘘だろ、と言いたいところだけど、それよりも衝撃が強かった。
一度しか見ていないとはいえ、ずっと友達だと思っていた。
「あらすじってどんな感じ?」
「確か……」
主人公は、いつも前向きで笑っている。
真夏でも「涼しい」と笑い、怖いことがあっても「楽しい」と笑う。
周りからは「変わっている」と言われ、家族にさえ理解されない。
そんな彼女を、ありのまま受け止めてくれた恋人。
少しずつ心を通わせながら、本当の「強さ」と「幸せ」を見つけていく、ちょっぴり変わった純愛ラブストーリー。
「そんな感じ」
「結構がっつり覚えてるんだね」
思わず苦笑する。
「ちゃんと恋人だし、てかラブストーリーだったんだ……」
「恋愛苦手な人も見やすいタイプだな」
「知らなかった……」
落ち込む私に、彼は言った。
「俺さ、あの映画ラストが好きなんだよ」
「ラスト?」
「ナレーションが流れてさ。二人が……」
彼の話を聞きながら、私は必死に考えていた。
ラスト、どんなだったっけ?
頭を抱える私に、彼は柔らかな声で聞いてきた。
「覚えてないか?」
「……うん」
あんなに色々語っておいて。
……恥ずかしいな。
「よし。行くか」
「え?」
「行くぞ!」
そう言って彼は駆け出した。
「え、ちょっと!どこ行くの?」
「いいから、早く!」
私も慌てて、その背中を追いかける。
長い長い暗闇を抜ける。
ようやく見えた光の先には、綺麗な青。
大きくて、広くて。
その瞬間。
やっと、思い出した。
夏休み。
母と来た海で、私ははぐれた。
一人で迷い込んだ暗闇。
そこで、一人の少年と出会った。
どうしようもなく心細かったはずなのに、一人じゃないと思えた。
それがたまらなく嬉しかった。
私の話を、少年はずっと聞いてくれた。
「話しすぎた。ごめん」
そう言うと、少年は「楽しい」と笑ってくれた。
私はずっと、あの映画の主人公みたいにはなれていないと思っていた。
前向きでいるつもりでも、本当は無理をしているだけなんだと。
でも、今日。
あの日出会った少年が、ずっと憧れだった二人乗りに誘ってくれた。
「涼しい」と言う私に、笑って共感してくれた。
変わっている私を、「好き」だと言ってくれた。
私はなんて、幸せ者なんだろう。
「行こーぜ!」
彼は手を差し伸べる。
私はその手を握った。
二人で砂浜を駆け出す。
彼と一緒にいたい。
友達でも、恋人でも。
彼と、いられるなら。
猛暑日のことだった。
二人は肩を並べ、「涼しいね」と笑い合っていた。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
この夏のどこかで、「涼しいね」という言葉を思い出していただけたら、とても嬉しいです。




