第八十四話「境を越える水」
〖前書き〗
前回まで:
河原に残された、互いにつながっていない短い土手。
一本で水を受け止めるのではなく、
受けた力を次へ渡し、
さらに次の線へ渡していく。
「一つで守ろうとしない」
龍地で六人が学んだ理は、
甲斐の大きな水の中でも、
新たな形を持ちはじめていた。
三本目の土手を越えたところで、
一鶴が足を止めた。
「ここだけ、崩れてる」
土手の端が大きく欠けていた。
積まれていたはずの石は散り、
土も雨に削られている。
三那兜が崩れた部分へ近づいた。
「直さないのか?」
近くで草を刈っていた男が顔を上げた。
「あそこは、うちの村じゃない」
「でも、この土手は続いてるだろ」
「向こう側は、隣の村の土地だ」
男は当たり前のように答えた。
六嗣が首を傾げる。
「水は、村の境で止まるんですか?」
男は言葉に詰まった。
勘助が小さく笑う。
「止まれば、話は簡単なのですがな」
崩れた土手の先には、
別の畑が広がっている。
さらにその向こうには、
別の集落。
四糸乃が周囲を見比べた。
「この線が崩れれば、次の線へ渡る前に、水が人のいる方へ向かうかもしれません」
男が眉を寄せる。
「だが、向こうの連中だって直せるだろ」
「向こうも同じことを言っていたら?」
一鶴の問いに、男は黙った。
五風が崩れた土手から、川の方へ視線を向ける。
「川から見たら、どこまでが誰の村かなんて分からないよな」
「分からないんじゃない」
二羽花が言った。
「たぶん、最初から関係ない」
風が河原を抜けていった。
人が引いた境。
村の境。
畑の境。
土地を治めるためには必要な線だ。
だが、水は、その線を知らない。
信玄は崩れた場所へ歩いた。
「この土手を作ったのは誰だ」
「昔の者たちだ。こっちの村も、向こうの村も手を出したと聞いてる」
「一緒に?」
「ああ。大水の後だったらしい」
信玄は土手へ手を置いた。
作る時は、
二つの村が手を重ねた。
だが年月が過ぎれば、
どこからどこまでが誰のものかという話だけが残る。
守るために作った線が、
今度は人の境によって途切れようとしていた。
三那兜が崩れた石を拾う。
「これくらいなら、直せる」
「直して終わりではありません」
樹玄が静かに言った。
三那兜が振り返る。
「また崩れる?」
「それもあります」
樹玄は二つの集落を見た。
「誰が見続けるのかを決めなければ、また同じ場所で止まります」
六嗣が紙を開いた。
龍地で書いた言葉が残っている。
託す。
見続ける。
土地の者へ渡す。
一鶴がその紙を見てから、崩れた土手へ目を戻した。
「一つの村に任せるんじゃない」
四糸乃が頷く。
「流れにつながる者すべてで見る必要があります」
信玄は河原を振り返った。
最初の線。
次の線。
さらにその先の線。
土手だけではない。
それを作る人。
直す人。
異変を知らせる人。
次の村へ伝える人。
それらもまた、
一つにつながっていなければならない。
「川に、境はない」
信玄が呟いた。
勘助が横へ並ぶ。
「人にはありますな」
「ならば」
信玄は二つの集落を見た。
「水を治める時だけは、その境を越えねばならぬ」
勘助の口元が、わずかに上がった。
「ようやく、川だけではなく国の話になって参りましたな」
信玄は答えない。
だが、その目はもう、
目の前の一つの土手だけを見てはいなかった。
山から流れ出す水。
河原。
畑。
村。
その先にある、また別の村。
水はすべてをつないでいく。
ならば。
線を重ねるだけでは足りない。
その線を守る人の手もまた、
境を越えて重ならなければならない。
甲斐の水を守るということは、
一つの村を守ることではなく、
流れの中で暮らすすべての人を、
一つにつないで考えることなのかもしれなかった。
〖後書き〗
今回のまとめ:
・複数の土手を追った一行は、一部だけ補修されず崩れている場所を見つける
・そこは村と村の境にあり、互いに「自分たちの土地ではない」と考えていた
・水は人間が決めた村の境とは関係なく流れていく
・信玄は、治水には土手だけでなく、村を越えて維持し続ける人のつながりも必要だと気づく
作者ノート:
これまで信玄たちは、水の流れをどう受け、分け、逃がすかを見てきました。
しかし、どれほど良い形を作っても、それを維持する人がつながっていなければ守り続けることはできません。
今回は「一つで守らない」という考えが、構造物から人や集落のつながりへ広がる回です。
キーワード:
甲斐盆地/武田信玄/山本勘助/森口樹玄/六人/村の境/土手/治水/共同管理/水の流れ/領国経営




