第七十話「大丈夫の顔」
〖前書き〗
前回まで:
龍地の宿の脇で、水路から水があふれた。
六人は水を無理に塞がず、新しい逃げ道を作る。
樹玄から教わった理は、六人の行動を通して宿の男へ、そして少年へと渡っていった。
今回は、その小さな流れのそばで、五風だけが気づいたものを描きます。
水路の流れが落ち着くと、宿の男は少年を連れて道具を片づけ始めた。
旅人たちも、ぬかるみを避けながら再び坂道を行き交っている。
「これでもう大丈夫だな」
三那兜が水路を覗き込み、満足そうに頷いた。
一鶴は新しく掘った溝の先へ目を向ける。
「今はな。雨が降った後は、また見た方がいい」
「それも少年に渡しておきましょう」
四糸乃がそう言うと、六嗣は巻いた紙を抱え直した。
その横で、二羽花だけが道の端にしゃがみ込んでいた。
水路からあふれた泥水の中に、片方の草鞋が落ちている。
先ほど慌ただしく宿を発った旅人のものらしい。
二羽花が草鞋を拾い上げた、その時だった。
「……っ」
指先が、わずかに震えた。
五風が振り返る。
「二羽花?」
「何でもないよ」
二羽花は泥を払うと、草鞋を宿の軒下へ置いた。
「落とした人が戻ってくるかもしれないから」
いつもの声だった。
いつもの顔だった。
けれど五風は、二羽花の手元を見ていた。
指先が強く握り込まれている。
「手、どうした」
「泥で冷えただけ」
「今、痛そうな顔した」
「してないよ」
二羽花は笑った。
「もう大丈夫」
五風の眉がわずかに寄る。
水路の水は澄み始めていた。
けれど、五風の目には、二羽花の指先へ何かが絡みついたように見えた。
水に残っていた、誰かの焦り。
旅立つ者の迷い。
足を取られた馬の驚き。
道を塞いだ水へ向けられた苛立ち。
形のないものが、二羽花の中へ流れ込んでいる。
「二羽花」
五風はもう一度呼んだ。
「本当に何でもないって」
二羽花は立ち上がった。
だが、一歩踏み出した途端、その身体が小さく傾く。
五風が腕を掴んだ。
「ほら」
「少し、立ちくらみしただけ」
「それを大丈夫とは言わない」
二羽花は困ったように笑った。
「水路は直ったよ。誰も困ってない」
「水路の話じゃない」
五風の声が、少しだけ低くなる。
二羽花の笑みが止まった。
少し離れた場所で、樹玄が二人を見ていた。
助けに入ることも、声をかけることもしない。
ただ、五風が何を見るのかを待っている。
五風は二羽花の手を取った。
冷たい。
泥水に触れたからだけではない。
「お前、何か拾っただろ」
二羽花は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「残っていたものを、そのままにしておけなかったの」
やがて、小さな声が落ちた。
「誰かがまた触ったら、苦しくなるかもしれないから」
「だからって、お前が持つのか」
「大丈夫。少し休めば消えるよ」
「また大丈夫って言った」
五風は二羽花の前へ回り込んだ。
逃げるように逸らされた目を、正面から覗き込む。
「五風、近い」
「見てる」
「何を?」
「お前の顔」
二羽花が目を瞬いた。
「顔を見たって、何も分からないよ」
「分からなくても見る」
五風は腕を離さなかった。
「お前が何も言わないなら、俺が気づくしかないだろ」
風が宿の軒を抜けた。
二羽花の髪が、頬へかかる。
その奥で、張りつめていた表情がほんの少しだけ緩んだ。
「……大げさだなあ」
「その顔で言っても信用しない」
「どんな顔?」
「大丈夫じゃないのに、大丈夫って言う顔」
二羽花は何かを言い返そうとして、やめた。
代わりに、小さく息を吐く。
「じゃあ、少しだけ休む」
「少しじゃ足りなかったら?」
「その時は、もう少し」
「最初からそう言え」
五風は二羽花を宿の軒下へ連れていく。
その背を見送りながら、樹玄が静かに目を細めた。
水は、低い方へ流れる。
人の痛みもまた、受け止める者のもとへ流れやすい。
だからこそ。
受ける者のそばには、見ている者が必要になる。
二羽花はまだ知らない。
この日から五風が、彼女の「大丈夫」をそのまま信じなくなったことを。
〖後書き〗
今回のまとめ:
・水路が直った後、二羽花が水に残った人々の感情を拾う
・二羽花は「大丈夫」と笑って隠そうとする
・五風だけが指先の震えと表情の違いに気づく
・五風は、二羽花が何も言わないなら自分が見続けると決める
作者ノート:
現世の二葉と五樹の関係につながる、小さな始まりです。
二羽花は人の痛みを放っておけず、五風はそんな二羽花の「大丈夫」を信用しません。
この時点では、まだ二人の間に明確な約束はありません。
けれど、五風が二羽花の顔を見るようになった最初の日として描いています。
キーワード:
龍地/二羽花/五風/森口樹玄/前世/受ける者/見ている者/大丈夫/魂の記憶/二葉と五樹




