第五十七話「水守を置く」
〖前書き〗
前回まで:
龍地には「水を受けよ」の札が立てられた。
六嗣は、丸い輪と流れる三本の線を木札に刻む。
けれどその形は、完全ではなかった。
後の者が拾えるように。
奪う者には読ませぬように。
水を受ける紋は、少しだけ欠けた形で龍地に残された。
今回は、その紋を誰が守るのかが問われます。
水を受ける紋が刻まれた木札は、大屋敷のあたりに置かれた。
風が吹けば、土の線は消える。
けれど、木札には残った。
丸い輪。
流れる三本の線。
少しだけ欠けた、受け皿の形。
六嗣は、その木札を両手で抱えていた。
「この札は、どこへ置きますか」
誰もすぐには答えなかった。
荷場の方では、桶の音がしている。
馬の息。
人の声。
水を求める気配。
龍地は、もう静かな原野ではなくなり始めていた。
五風が荷場を見ながら言う。
「目立つところに置けばいいだろ。水の場所だって分かる」
「目立ちすぎれば、奪われます」
樹玄が答えた。
五風は眉を寄せる。
「じゃあ、隠すのか」
「隠しすぎれば、忘れられます」
三那兜が鼻を鳴らした。
「面倒だな」
「水も、役目も、面倒なものです」
樹玄は静かに言った。
信玄は、欠けた紋を見ていた。
「では、誰に預ける」
その問いに、空気が変わった。
誰が守るのか。
水を受ける場所。
水を分ける役目。
抱え込みすぎず、流しっぱなしにもせぬ者。
一鶴が低く言う。
「力の強い者では、奪う側に回るかもしれぬ」
四糸乃が筆を持ったまま続ける。
「名の大きい家では、役目より権利が残るかもしれません」
二羽花は、荷場の方を見ていた。
「声が乾いている人ほど、水を欲しがります。でも、水を欲しがりすぎる人には、預けられません」
勘助が地図を広げる。
「ならば、水を最後に飲める者だ」
五風が顔を上げた。
「最後?」
勘助は地図から目を離さない。
「自分が先に飲まぬ者。馬にも人にも順を譲れる者。水を抱え込まぬ者」
樹玄は頷いた。
「水を守る者は、水を欲しがりすぎてはならない」
その時、荷場の端で、小さな声がした。
「こちらを先に」
桶を抱えた若い女が、子ども連れの母親に水を譲っていた。
自分の桶は、まだ空に近い。
それでも、女は急がなかった。
馬を引く男が苛立った声を出しかけると、女は静かに言った。
「馬の水は、あちらです。人の水と混ぜぬように、と」
五風が目を細める。
「……あいつ、さっきから見てたな」
三那兜も頷く。
「桶を運ぶ道も、危ないところを避けてる」
二羽花が小さく言った。
「声が、濁っていません」
樹玄は、その女を見た。
華やかさはない。
強く人を従わせる声でもない。
けれど、水を前にしても、焦らない。
水を抱えても、奪わない。
人に渡しても、自分を空にしすぎない。
信玄が問う。
「名は」
女は驚いたように顔を上げ、桶を置いて頭を下げた。
「水守の里の澪、と申します」
その名に、誰もが息を止めた。
澪。
水の道筋。
水守。
水を受け、分け、行き場をなくさぬようにする者。
五風が低く呟く。
「名前まで、水の道かよ」
樹玄は、静かに首を振った。
「名が役目を呼んだのか、役目が名を見つけたのか。それは、今は分かりません」
「水守って呼び名が、先にあったのか」
五風が呟く。
樹玄は、静かに首を振った。
「里の名が役目を呼んだのか、役目がその名を見つけたのか。それは、今は分かりません」
信玄は、澪を見た。
「この水を守れるか」
澪はすぐには答えなかった。
荷場を見た。
桶を見た。
喉を押さえる者を見た。
馬を見た。
そして、大屋敷の土を見た。
「守る、というより」
澪は慎重に言葉を選んだ。
「余らせず、奪わせず、行き場をなくさぬようにすることなら」
樹玄の目が、わずかに和らいだ。
「それが、守るということです」
六嗣は木札を差し出した。
水を受ける紋。
欠けた丸。
流れる三本の線。
澪は両手で受け取った。
その瞬間、風が止まった。
二羽花が胸元を押さえる。
「声が、落ち着きました」
一鶴が頷く。
「責を受ける場所が、ひとつ増えた」
四糸乃は記録する。
水守。
水を受ける者。
水を分ける者。
水を守る者。
抱え込みすぎず、流しっぱなしにしない者。
信玄は静かに告げた。
「この地に、水守の役目を置く」
勘助が地図に小さな印を加えた。
大屋敷のあたり。
そこに、丸と三本の線が記された。
すべてを明かさぬ、小さな印として。
樹玄は、澪へ言った。
「この役目は、楽ではありません」
「はい」
「水が足りなければ恨まれます。水を分ければ、不公平だと疑われます。受けすぎれば濁り、流しすぎれば乾きます」
澪は木札を見た。
「それでも、行き場をなくした水を放ってはおけません」
樹玄は深く頷いた。
「ならば、預けます」
龍地は、まだ宿ではない。
けれど、水を受ける場所には、その役目を担う者が置かれた。
森口は道を作る。
水守は水を受ける。
そのふたつが並んだ時、龍地はまたひとつ、後の世へ残る形を覚えた。
けれど、この役目がいつか失われることを、この時の誰もまだ知らなかった。
〖後書き〗
今回のまとめ:
・水を受ける紋を、誰に預けるのかが問われる
・水を守る者は、水を欲しがりすぎてはならないと示される
・水を譲り、分け、混ぜず、行き場をなくさせない者として水守の名が出る
・水守の役目が、大屋敷あたりに置かれる
・森口は道を作り、水守は水を受けるという対の役目が形になる
作者ノート:
今回は、水守の役目が置かれる回です。
水を守るとは、ただ水を抱えることではありません。
余らせず、奪わせず、行き場をなくさせず、必要な場所へ渡すこと。
森口家が道を作るなら、水守家は水を受ける。
現代編で出てきた水守家へ、少しずつつながっていきます。
キーワード:
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