第五十一話「名を隠す者」
【前書き】
前回まで:
龍地では、荷を預けるには名を残す仕組みが生まれた。
守れ。
聞け。
預けよ。
名を残せ。
荷と名が結ばれたことで、龍地は宿として少しずつ形を持ち始める。
だが、名を残すことを望まない者もいた。
「名を残せ」の札が立ってから、荷場の前には小さな列ができるようになった。
丸三つ。
山形。
斜め線。
桶の印。
字を書けぬ者も、自分の荷だと分かる印を残す。
六嗣は木札を作り、四糸乃は紙に記した。
一鶴は荷を受け取り、同じ言葉を返す。
「預かった」
その声が、龍地の荷場に馴染み始めていた。
五風は少し離れた草の上に座り、頬杖をついている。
「人って、決まりができると、今度は抜け道を探すよな」
勘助が地図から顔を上げた。
「また何か見えたか」
「見えたというか、来る」
「誰が」
五風は顎で荷場の端を示した。
そこに、一人の男が立っていた。
旅人のような格好をしている。
背には小さな荷。
目深に笠をかぶり、周囲を見すぎないようにしている。
だが、見ない者ほど、見ている。
一鶴が男に声をかけた。
「荷を預けるなら、名を残す」
男は短く答えた。
「名はない」
荷場の空気が、わずかに止まった。
六嗣の筆が止まる。
四糸乃も紙から顔を上げた。
一鶴は表情を変えない。
「名がない者はいない」
「ここでは名乗れぬ」
男の声は低かった。
五風が立ち上がる。
「面倒なの来た」
勘助も男を見た。
「逃げ人か、密使か、盗人か」
「全部、面倒だな」
信玄は少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。
「一鶴」
「はい」
「聞け」
一鶴は頷いた。
男を荷場の外、責の札の前へ案内する。
守れ。
聞け。
預けよ。
名を残せ。
四枚の札が風に揺れていた。
一鶴は男に向き合う。
「名乗れぬ理由を言え」
男はしばらく黙っていた。
やがて、背の荷を下ろす。
「追われている」
五風の目が細くなる。
「誰に」
「前の村の者に。借りを返せと」
「借り?」
男は唇を噛んだ。
「米を借りた。返せなかった。逃げた」
周囲にいた者たちがざわつく。
一鶴は手を上げた。
「ここで裁かない。まず聞く」
声が静まる。
男は続けた。
「荷を置いて、水を飲みたいだけだ。名を残せば、追う者に知られる」
六嗣が木札を見つめる。
「名を残さなければ、荷は守れません」
男は顔を伏せた。
「なら、置けぬ」
その時、樹玄が男の荷を見た。
荷の中から、かすかに湿った土の匂いがする。
水ではない。
争いの声でもない。
誰かを置いてきた音がした。
「一人じゃないな」
男の肩が震えた。
信玄が問う。
「誰を置いてきた」
男は、観念したように目を閉じた。
「母を」
言葉が落ちた。
「病で動けぬ。米を借りたが、返せず、村を出た。薬を探しに行く。だが、名を残せば、追われる。荷を失えば、薬も買えぬ」
五風が小さく舌打ちした。
「やっぱり面倒だ」
一鶴は男を見た。
「名を隠せば、責も隠れる」
男は何も言わない。
「だが、名を晒せば潰れる者もいる」
その言葉に、六嗣が顔を上げた。
一鶴は信玄を見る。
「御屋形様。名の代わりに、証を残すことは許されますか」
信玄の目が動く。
「証とは」
一鶴は男の荷から、古びた紐を一本取った。
荷に結ばれていたものだ。
「本人しか分からぬ印。名ではないが、荷と人を結ぶもの」
六嗣がすぐに木札を取る。
「紐の結びを写します」
四糸乃も筆を取った。
「名、記さず。結び目を証とする」
男が顔を上げた。
「いいのか」
一鶴は答える。
「逃げるためではない。戻るための証だ」
信玄は静かに頷いた。
「よい」
六嗣は木札に、紐の結び目と同じ形を刻んだ。
四糸乃は記録に、名を書かなかった。
ただ、こう記した。
結び目一つ。
薬代の荷。
戻る者。
五風がそれを覗き込む。
「名じゃないのに、残るんだな」
六嗣は言った。
「残すものは、名だけではない」
一鶴は荷を受け取った。
「預かった」
男は深く頭を下げた。
その背中を見送りながら、勘助が低く言う。
「決まりは増えますな」
信玄は四枚の札を見た。
「人が増えれば、事情も増える」
五風がため息をつく。
「宿って、本当に面倒だな」
一鶴は静かに答えた。
「だから、聞く」
樹玄は耳を澄ませた。
水の音ではない。
荷の音でもない。
名を隠したまま、それでも戻るための音だった。
龍地はまたひとつ、人の流れを覚えた。
【後書き】
今回のまとめ:
・「名を残せ」の決まりに対し、名乗れない旅人が現れる
・一鶴は事情を聞き、名ではなく「証」を残す方法を提案する
・龍地では、名だけでなく、戻るための印も記録され始める
作者ノート:
今回は、「名を残す」仕組みの次に出てくる問題を書きました。
名を残すことは責を残すこと。
けれど、名を残すことで危うくなる人もいる。
守るための決まりが、人を追い詰めるものにならないように。
一鶴の役目が、さらに少し深くなります。
キーワード:
龍地/下宿/大屋敷跡/一鶴/五風/六嗣/四糸乃/武田信玄/名を隠す者/証




