『リリエルが「怒らないでくれてありがとう」と言ってしまう回』
放課後の温室。
ガラス越しの陽光が柔らかく差し込む中、レディアナは一人、鉢植えの薔薇を観察していた。
(棘はあるが、無闇には刺さらない。……理想的ですわ)
そこへ、おずおずと声がかかる。
「あの……レディアナ様」
振り返る。
ヒロイン、リリエル。
緊張した面持ち。
(単独接触。高リスク。発言要注意)
「ごきげんよう」
「ご、ごきげんようです」
しばし沈黙。
温室の中は静かだ。
リリエルがぎゅっとスカートを握る。
「今日は、その……お礼を言いに来ました」
(お礼? 何に対して?)
レディアナの思考が回り始める。
「怒らないでくれて、ありがとうございます」
――停止。
思考、停止。
(……何に対する礼?)
リリエルは必死に続ける。
「殿下と一緒にいるところを見られても、ひどいこと言われなくて……」
「水もかけられなくて……」
「陰で悪口も広められてなくて……」
「わたし、ずっと覚悟してたんです」
深呼吸。
「でも、レディアナ様は何もなさらなかった」
真っ直ぐな目。
「それって……すごく優しいことだと思います」
完全に、想定外。
レディアナの脳内で警報が鳴る。
(違う。優しさではない。最適化だ)
(悪役令嬢として最善を――)
(だが結果的に彼女は救われている?)
分類不能。
リリエルは続ける。
「だから……ありがとう、ございます」
ぺこり、と頭を下げる。
温室に静寂が落ちる。
レディアナの指先が、わずかに動く。
(ここで否定する?)
(“誤解しないでくださる?”と線を引く?)
(あるいは冷笑?)
どれも選べない。
なぜなら――
どれも“正しい悪役令嬢ムーブ”ではないから。
「……わたくしは」
声がわずかに揺れる。
(揺れ? なぜ?)
「何もしておりませんわ」
「はい」
リリエルは微笑む。
「それが、ありがたいんです」
――直撃。
レディアナの思考が崩れる。
(何もしないことが、価値?)
(悪役令嬢の存在意義は、摩擦では?)
(摩擦を起こさぬなら、わたくしは何?)
沈黙。
リリエルは少し迷ってから、さらに言った。
「わたし……本当は、怖かったんです」
「殿下が優しくしてくださるほど、レディアナ様が傷つくんじゃないかって」
レディアナ、瞳がわずかに見開かれる。
「でもレディアナ様は、冷静で」
「強くて」
「だから、すごいなって」
微笑み。
悪意ゼロ。
計算ゼロ。
純粋な尊敬。
レディアナの内部で、何かが軋む。
(これは……敵意ではない)
(断罪フラグでもない)
(善意……?)
処理不能。
完全未定義。
長い沈黙の後。
レディアナはゆっくり口を開く。
「……怒るべき理由が、まだ確定しておりませんので」
それが精一杯だった。
リリエルは首を傾げる。
「理由が確定したら、怒るんですか?」
「理論上は」
「そっか」
にこり。
「その時は、ちゃんと受け止めますね」
柔らかい返答。
また、想定外。
レディアナの思考が空回りする。
(受け止める?)
(怒りを?)
(対立前提ではない?)
(それは……戦闘ではない?)
温室の扉が開く音。
そこに、偶然通りかかったアルベルト。
二人の穏やかな空気を見て、凍る。
「……何を話している」
リリエルが振り向く。
「あ、殿下。レディアナ様にお礼を」
「お礼!?」
アルベルト、混乱。
レディアナは静かに言う。
「誤解を招く表現は避けていただける?」
「は、はい!」
だが空気は柔らかいまま。
アルベルトは状況を読み取れない。
(なぜ平和なんだ……)
レディアナは一礼した。
「本日は情報量が過多ですので、これにて失礼いたします」
退場。
温室を出た瞬間、壁にそっと手をつく。
(何もしていないことに、感謝された)
(怒らないことが、価値?)
(わたくしは……)
思考がまとまらない。
その夜。
ノートに書かれた新項目。
「“怒らない悪役令嬢”の存在意義について」
ペンが止まる。
初めて、答えが出ない。
一方その頃。
温室に残されたアルベルトは呟く。
「……怒らせる難易度が、さらに上がった気がする」
リリエルは少し考えてから言った。
「もしかして、怒らせなくていいのでは?」
アルベルト、固まる。
その発想はなかった。
こうして――
物語はまたしても動きそうで動かず、
しかし確実に、何かだけが変わり始めていた。
それでも。
その日もやはり、
大事件は起きなかった。




