二十年と五十年
ニ十年。
これは私が夢に向かった時間だった。
元々得意であったから好きになったものだ。
世界一になるなんて子供じみた夢を持ち続け、一般的に大人と呼ばれる姿になってからも公言こそしなかったけれど変わらなかった思いでもある。
振り返れば私はそれなりの人間になれたと思う。
一般人から見れば驚かれる。
業界人から見れば尊敬される。
……そして、一流から見れば二流と見られる。
その程度の『それなり』だ。
悔やむべくは二十年しか立ち向かえなかったこと。
幼い私には夢は真剣に挑んだものであったけれど、勉学にスポーツに恋に友情に……他にも挙げればキリがないほどに寄り道をしなければならなかった。
大人になればさらに仕事や家族までも加わる。
仕方のないことだ。
私はそれを受け入れている。
仕方のないことだ、と。
五十年。
これは私が行った好きでもない仕事の時間だ。
やりたい仕事ではなかった。
夢に向かうために金を稼がなければならないから始めた時間だった。
けれど五十年。
真剣というには程遠いけれど、適当というのにも程遠い。
少なくとも私は社会人である間は真面目に勤めていた。
その五十年。
五十年。
夢に向かった時間の倍以上だ。
「どうしたの?」
妻が問う。
私と同じくすっかり白髪まみれだ。
幼い頃からの付き合いだったのにな。
「考え事をしてた」
「ふーん」
妻はすぐに私の悩みを見抜いた。
ゆったりとした動作でコーヒーを淹れる。
二人して大人の真似事をして初めて口にした時間が懐かしい。
「『自伝』ちゃんと書けてるの?」
「自伝じゃない。最後の作品だよ」
「どうせ自伝でしょ?」
差し出されたコーヒーの苦味が少し染みる。
眠気が薄れ明瞭になる。
全てが。
「『二十年と五十年』というタイトルにしようと思う」
「夢を追った時間と仕事をした時間?」
「あっさり見抜くな」
「付き合いも長いし、それくらいすぐ見抜けるわよ」
くすりと笑う妻。
穏やかに見つめながら私は言った。
「文章を書くより仕事の方が上手くなってしまった……なんて思ったのさ」
「不満なの?」
「夢をもっと追うべきだったと思ってしまったんだよ」
「後の祭りね」
「そうだな」
妻が自分の飲んでいたコーヒーを差し出す。
「こっちにする?」
「飲みたくない」
「今更間接キスが恥ずかしいの?」
「違う。君のは甘すぎるから嫌なんだ」
「苦い思い出も薄れるわよ?」
「うるさいな」
もう一度苦いコーヒーを飲んで指を動かし始める。
退職をした今『自伝』を書く時間はあるけれど、人生のゴールが見えてきている年齢ではのんびりもしていられない。
人よりずっと早く動く私の指を見つめながら妻が呟いた。
「八十年以上。私と付き合ってくれてありがとうね」
「こちらこそだ」
穏やか時間。
コーヒーの匂いと妻の視線に包まれながら私は最後の作品を作り続けた。




