母味優
美久の父、守人は4年前に60歳を迎えて再雇用となり、給料が半分になっていた。
それでも働けるだけありがたいと思い、65歳まできっちり勤め上げるつもりだった。
しかし、今年の4月、新人の頃から可愛がっていた元部下が上司として異動してきた時、心境に変化が起こった。
もういいかな、と。
ただ、年金が満額出るまでに1年近くあるので、週2,3日勤務の所を探してソフトランディングすることを考えた。
しかし、そのことを妻に切り出せなかった。
あと1年辛抱して、と言われたら返す言葉がなかったからだ。
だから一日一日と先延ばしにしていたが、心の中のモヤモヤはどんどん増していた。
それは、元部下への対応の難しさから来ていた。
昔は「了解」と言っていたのが、今は「承知いたしました」と言わなければならないことに耐えられなくなっていた。
もう限界に達していた。
これ以上先延ばしにするのは無理だった。
思い切って妻に打ち明けることにした。
夕食後に心の内をすべて吐露すると、意外な返事が返ってきた。
「主夫になる気ある?」
「えっ、主夫?」
すると、妻は居住まいを正した。
「私、専業主婦を卒業したいの」
今年55歳になる優美と結婚したのは、彼女が26歳の時だった。
翌年に美久が生まれると、子育てに忙殺され、子供に手が離れてからも家事などに追われる日々が続いている。
「専業主婦を卒業して何やるの?」
恐る恐る訊くと、「将来、自分のお店を持ちたいの」と、またもや予想外の言葉が返ってきた。
食べ物屋さんをしたいのだという。
それに、店の名前も決めているという。
母親が子供の幸せを願う気持ち、おいしい料理や体に優しい料理を食べさせたいと願う気持ち、それらを込めて店名を考えたと言った。
その名は『母味優』
「でも、そんなに簡単に店って持てないんじゃないの」
単なる願望だけでは失敗すると釘をさすと、「もちろん、すぐにじゃないの。料理の腕を磨くだけじゃなくてお店のマネジメントも勉強しなくちゃいけないから、3年後、4年後になると思うの」と計画があることを仄めかした。
それでも、そう簡単には納得できなかった。
経験のない主婦を修行という形で迎え入れてくれる店が容易に見つかるはずはないからだ。
それを指摘すると、即座に具体的な店名を告げられた。
「あなたも知っている店。和食フレンチの食楽喜楽」
「えっ? あの一つ星レストランの?」
「そう。このまえ美久の誕生日に3人で行った時、ドアのところにスタッフ募集の紙が貼ってあったのを見つけたの。それでね、」
ふふふっと笑って、思い出すように言葉を継いだ。
「シェフにね、私でも調理アシスタントってできますか、って訊いたら、奥様だったら私の代わりができますよって、お上手を言うのよ」
「で?」
「冗談じゃなく本気で働きたいことを伝えたの」
「で?」
「『それでは店が休みの時に奥様の得意料理を作っていただけますか?』って言われたから、なめろうとさんが焼きをシェフの目の前で作ったの」
「で?」
「『トレビアン』だって。魚の捌き方、味噌の合わせ方、そして、叩き方、焼き方、すべてプロ級だって」
「ふ~ん」
「信じてないでしょ」
「そんなことないけど……」
とっさには弱い否定しかできなかったが、よく考えると、毎日食卓に出てくる手料理は殊の外おいしかった。
「確かに、君の料理は最高だよ」
帽子を脱ぐ真似をすると、ふふふっと笑って、言葉を継いだ。
「『いつでも来てください』って言われたんだけど、すぐには言い出せなくて。でも、あなたが会社を辞めるって言うから、今言わなきゃって思ったの」
「そうか……」
その後、妻と今後の生活のことを話し合った。
家のローンは払い終わっていたし、教育費が必要な子供もいないから大きな出費はない。
しかし、年金が満額出るまでにあと1年近くあるので、質素な生活を心がけなければならない。
「あなたのクリーニング代は、ほとんどいらなくなるわね」
背広やワイシャツのクリーニング代は毎月1万円を超えていた。
「そうだね。それと、髪を染めるのもパーマをかけるのも止めるよ。で、美容院をやめて千円カットに行けば毎月6,000円くらいは節約できると思う。それから、コンタクトレンズも止めてメガネにする。あとは……」
何があるかな、と考えていると、「お小遣い、1万円でいい?」と妻の直球が顔面を直撃した。
「1万円⁉」
思わず天井を仰いだ。
再雇用前の小遣いが6万円で、再雇用後は3万円。
そしてこれからは1万円にしてくれという。
「いくらなんでもそれではちょっと……」
すがるように手を合わせて拝んだが、厳しい代替案が返ってきただけだった。
「65歳になって年金が満額出るようになったら2万円に増額するから、それまで辛抱して」
「え~」
そんなんだったら我慢して今まで通り働き続けようかと一瞬、頭をよぎったが、元部下の顔が浮かんできた途端、跡形もなく消えた。
それでも素直には従えなかった。
本やCDが買えなくなるからだ。
リタイアしても趣味の読書と音楽鑑賞だけは今まで通り続けたかったから、かなりショックなことなのだ。
しかし、妻は妥協することはなく、「ごめんね。でも、図書館やレンタルショップを利用して欲しいの、ねっ」と逆に両手を合わせて拝まれた。
「う~ん」と唸るしかできなかったが、といって前言を翻すこともできず、どうにもならない状態のまま会話を打ち切った。
*
それから3日間考えた。
考えて考えて考え抜いた。
それでも結論は出なかったが、最後は〈主夫になるしか道はない〉と自分を追い込んで覚悟を決めた。
*
晴れて食楽喜楽で働き始めた妻の勤務時間は水曜日から日曜日の10時から16時までだった。
なので、月曜日と火曜日以外は一人で昼食を食べることになった。
しかし、それまで一切料理をしたことがなかったので、作れるものは数えるほどしかなかった。
そのため妻の出勤初日の昼食は〈卵かけ納豆ご飯〉だった。
翌日は〈納豆入りお茶漬け〉だった。
その次の日は〈目玉焼きと茹でソーセージ〉だった。
それを知った妻は呆れたようだったが、冷蔵庫の野菜室にあるもので作る簡単な野菜料理を教えてくれた。
さっそく次の日に〈キャベツの千切り〉に挑戦した。
その見た目はまったくの別物としか思えないレベルだったが、その千切りもどきをフライパンに入れて、その上に卵を落とし、鍋蓋をしてしばらく待つと、料理らしきものが出来上がった。
皿に移してポン酢をかけて口に運ぶと、満更でもなかった。
というより結構いけた。
一気に自信がついたので、その翌日はピーマン豚肉炒めに挑戦した。
ピーマンと豚肉を炒めて、最後に少量の醤油を垂らして味つけをするのだ。
これもなかなかの出来だった。
もちろん妻が作ったものと比べると月とスッポンだったが、といってまったく手が届かないとも思わなかった。
それは自惚れでしかなかったが、どんどん上達していく姿を思い浮かべると、なんだかワクワクしてきた。
「やってみるか」
思わず声が出ると、冷蔵庫の中の食材を一つ一つ手に取って、明日の献立を考え始めた。