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魚が笑えば皆嬉しい

 

 水産物調達を取り巻く状況は激変していた。

 経済成長著しい中国や巨大資本が牛耳るヨーロッパの輸入業者に買い負けすることが多くなると共に、苦労して購入した水産物であっても、バイイングパワーを強めるスーパーマーケットや回転寿司チェーンからは買い叩かれていた。

 だから利益の出ない商売が続いていた。

 それはどの水産会社も同じで、利益率が極端に低かった。

 ほとんどが2パーセント以下なのだ。

 どの会社も赤字を回避するのが精一杯だった。


 そんな厳しい状況を更に悪化させるように、魚の消費量が減少を続けていた。

 それに対して肉の消費量は増え、一人当たりの年間消費量は肉に逆転されていた。

 60歳以上の層では魚を食べる人はまだまだ多いが、40歳未満の層は魚離れが顕著だった。


 買い負け、バイイングパワー、魚離れ、と水産会社を取り巻く環境は厳しさを増していた。

 まるでドツボにはまっているような状態だった。

 なんとかしなくてはいけないのは明白だったが、どの会社も有効な手を打てないままレッドオーシャンでのたうち回っていた。


「同質競争から脱皮しないと、会社の存続そのものが危ぶまれます」


 カラカラになった喉から声を絞り出すと、「続けて」と促された。

 社長の顔が真剣そのものだったのでなんとか頷いたが、喉がカラカラで声が出なかった。

 秘書が出してくれたお茶を一口飲んで、大きく息をして気持ちを整えた。


「日本の水産業は大きな岐路に立っています」


 声が掠れた。

 もう一口お茶を飲んだ。


「我が社のような中堅規模の会社が大手と同じ土俵で争っても勝ち目はないと思います。入社してまだ6年の経験しかないわたしが偉そうなことを言うようですが、社内の若い社員は皆同じ気持ちだと思います」


 社長の視線が前から、部長の視線が横から突き刺さったように感じたが、それを振り払って声を絞り出した。


「今までのような薄利多売の商売はもう限界だと思います」


 言ってしまった。

 偉そうなことを社長に言ってしまった。

 膝に置いた手が震え始めた。


        *


「どうだった?」


 席に戻ると海野が心配そうな表情で迎えてくれた。


「うん……」


 気力を使い果たしていたのでそれ以上口を開くことができなかった。

 それで心配したのか、海野は席を立ち、温かいコーヒーを手にして戻ってきた。


「ありがとう」


 砂糖多めでおいしかった。

 一口飲むたびに体の隅々の細胞が生き返るのを感じた。

 それに、口を開くまで海野が黙って待ってくれたので、心を落ち着けることができた。

 大きく息を吐いてから海野に向き合うと、社長と対面した場面が蘇ってきた。


        *


「選択と集中、そして、付加価値」


 話にじっと耳を傾けていた社長が、頷きながら呟いた。


「付加価値のある物だけに絞り込む……」


 ぼそっと言った嘉門部長が思案気な表情を浮かべたが、それに構わずきっぱりと告げた。


「今の状態はこれからもずっと続きます。世界の人口は増加し、各国の国民所得が上がっていけば良質なたんぱく質である水産物の需要は増大していきます。しかし、」


 声を強めようとしたが、その先を言う前に社長に引き取られた。


「天然の漁業資源は減少し、養殖で補うとしても限界がある」


「その通りです。その結果、水産物の獲得競争は更に激化します。特にスーパーのチラシに載る価格帯の水産物は奪い合いになります」


 一刻の猶予(ゆうよ)も許されない状況なのだ。

 だから、焦る気持ちを抑えながら努めて冷静に「薄利多売は大手の水産会社に任せて、我が社は違う道へ行くべきではないでしょうか」と提案した。


 社長も部長も無言だった。

 それでも、ネガティヴな表情は浮かんでないように思えた。

 そこで、出張中最も印象に残った言葉を伝えることにした。

 それはアラスカ魚愛水産の社長、シュゴーシン・サルマンが発したものだった。


「サルマン社長はこう言われました。『魚は危機に瀕している。そのすべての原因は乱獲だ。それは、魚を商品としてしか見ない愚か者の仕業だ。嘆かわしい』と。そして、『魚は商品ではない。魚は資源だ』と。更に、『水産会社は魚の命を扱う会社なのだから、自然の恵みに感謝して、自然が育む命を尊ばなければならないのだ』と」


 社長がゆっくり大きく頷いた。


「この言葉の中に我が社の将来があるような気がします」


 声に力を込めて締めくくった。


「魚を主役として、漁業者と流通業者、そして、消費者が共に幸せになれる取組が必要です。今すぐ着手しなければならないと思います。それができれば、持続可能な幸福循環を創り上げることができます」


        *


 社長室でのやり取りをすべて話すと、海野は右手でメガネの位置をほんの少し動かしたあと、静かに声を発した。


「それで、社長はなんて言ったんだい?」


 わたしは社長の言葉を思い出しながら忠実に再現した。


「『我が社が生み出せる付加価値、そのキーワードが持続可能な幸福循環だとすれば、どうアプローチすればいいのか、具体的に提案して欲しい』って」


「そうだろうな。で、具体案はあるのかい?」


 頷きたかったが、それはできなかった。


漠然(ばくぜん)としたイメージだけなの。魚も漁師も流通業者も消費者も、みんな幸せにできたらいいのにって。魚が笑えば漁師も嬉しい、流通業者も消費者も嬉しい、そんな関係を創りたいなって」


「魚が笑えば皆嬉しい、か……」


 海野が遠くを見るような目をした。

 何かを考えているような目だった。

 その目がこちらに向けられると、小さく頷いてから唇が動いた。


「創ればいいんだよ。創ろうよ」


 確信に満ちた口調に思わず反応した。


「創りたい。本当に創りたいの。海野さん、力を貸して」



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