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谷和原

 

「谷和原さん、現場を回ってきてください」


「えっ、現場って……」


 突然のことに戸惑っていると、〈漁の現場、市場の現場、流通の現場、水産物に関するすべての現場に行くように〉と大臣から具体的な指示を出されてしまった。


「と言われましても、何処へ行けばいいのか……」


 それで時間稼ぎをしてなんとか逃れようとしたが、「まず私が漁の現場に行きますから、ついてきてください」と有無を言わせない口調で反論を封じられた。

 谷和原は頷くしかなかった。


        *


「まさか本当に大臣に来ていただけるとは思いませんでした。ありがとうございます」


 駿河湾の漁師、粋締瞬が笑みをたたえて出迎えてくれた。そして、「事務次官までご一緒いただき、ありがとうござます」と頭を下げた。


「いや、私はたんにお供をしているだけですから……」


 慌てて手を横に振ったが、粋締の視線はすぐに横に移った。


「大臣、船酔いのご経験はありますか?」


「いえ、一度も」


「事務次官は?」


「フェリーで酔ったことはありません」


「フェリーですか。フェリーと漁船では揺れが違いますからね。念のために酔い止めの薬を飲んでおいてください」


 渡された薬を飲んだ谷和原は〈これからどうなることやら〉と憂鬱(ゆううつ)になったが、大臣は〈楽しみで仕方がない〉といった雰囲気で笑みを振りまいていた。

 それを見て、また気持ちが重くなった。

〈こっちを巻き込まないでよ〉と頭の中で愚痴を言った。


        *


 すべての準備を終えて出港した船に白い波が当たっては砕けた。


「こんなに波が高くて大丈夫ですか?」


 谷和原は気が気でなかったが、「8月に入って穏やかな日が続いていたのですが、生憎(あいにく)今日は低気圧が近づいてきているので。でも、この程度ならなんの心配もいりませんから」と粋締が笑い飛ばした。


「ところで、今日は何を狙っているのですか?」


 豪田が足を踏ん張りながら粋締の方を向いた。


「カツオです」


「カツオ?」


「そうです。カツオと言えば高知だと思っている人が多いと思いますが、実は静岡が漁獲量全国1位なのです」と胸を張った。


「そうなんですね」


 少し驚いたような表情になった豪田に、「今日は一本釣りで豪快に吊り上げますから」と粋締が右腕に力こぶを作った。


        *


 目指す漁場に近づいてきたのか、船内に緊張が漲り始めた。

 しかし、その空気が読めるわけもなく、「もう駄目です」と谷和原は弱音を吐いて、甲板にヘナヘナと腰を下ろした。


「横になって休んでください。大臣は大丈夫ですか?」


 気遣う粋締に向かって頷いた豪田だったが、顔色がいいとは言えなかった。

 それでも気丈な様子で海を見つめていた。

 その時だった。

「船長、魚群見つけた!」と声が響いた。

 最新式のソナーと魚群探知機がカツオの大きな群れを発見したのだ。

 それは水深40メートルに位置していたが、急激に海面方向へと上昇していた。

 イワシを追い込んでいるのだ。

 すぐに粋締が指示を出した。


「放水開始!」


 海面を泡立たせてイワシがいるように見せかけるのだという。

 豪田が納得して頷いた瞬間、粋締のひと際大きな叫び声が響き渡った。


「撒け~」


 声と同時に船員が一斉に生きたイワシを撒くと、カツオが物凄い勢いで食べ始めた。

 海面一帯が無数のカツオで波立った。


「行け~」


 声と共に竿がしなり、疑似餌をつけた針が海に投げ込まれた。

 とほぼ同時にしなった竿が引き戻され、カツオが弧を描くように宙を舞った。

 それが衝撃クッションに当たり、甲板に落ちてきた。


「わっ!」


 谷和原が悲鳴を上げて両手で頭を覆う中、甲板に落ちたカツオは氷が入った魚艙(ぎょそう)に吸い込まれていった。

 まるで自らの意志でそこに向かって泳いでいるように。


「凄い!」


 豪田が感嘆の声を上げると、粋締が更に漁師を煽った。


「行け! 行け! 行け~い!」


 奮い立った漁師たちは間髪容れず竿を投げ、引き戻し、カツオが宙を舞い続けた。

 圧巻の漁がいつまでも続いた。


        *


 港に戻り、水揚げが終わると、粋締が行きつけの海鮮酒場へ案内してくれた。

 大漁に気を良くしていた粋締は自分がご馳走すると言ったが、コンプライアンスに厳格な豪田は、飲食代は漁業水産省が支払うことを彼に念押しした。

 ルール的には自分達が食べた分を負担すれば違反にはならないが、僅かな疑念も抱かれないように細心の注意を払っているのだ。


 料理の注文が終わるや否や、泡が零れ落ちそうなほどのジョッキが3つ運ばれてきた。


「お疲れさまでした」


 粋締の発声に合わせて、豪田と谷和原がグラスを上げた。

 生ビールが喉を通る音に続いて、プハーという声がシンクロした。


「このために仕事をしているようなものですからね」


 粋締が口についた泡を手の甲で拭うと、豪田がその通りだというように大きく頷いた。


「でも、死ぬかと思いましたよ」


 口に泡をつけたままの谷和原が、漁の間、船酔いに耐え続けた気持ち悪さを思い出して顔をしかめた。


「あんなに揺れるなんて。あんな状態でよく釣りなんてできますね」


 信じられないというように粋締を見たが、「今日の揺れは全然たいしたことないですよ。あの程度で酔っていたら、このあたりの小学生に笑われますよ」と軽くあしらわれた。

 谷和原は肩をすくめるしかなかった。


「それにしても豪快でしたね。テレビで見るのとは大違いで迫力満点でした」


 豪田は宙を舞うカツオの姿を思い出しているようだった。

 しかし、すぐに頬を引き締めて、現場へ行くことの重要さを改めて感じたと言った。

 それが嬉しかったのか、「大臣が来ていただいた時に大漁をお見せできて良かったです」と粋締が上機嫌な声を出した。


 その後も漁の話で盛り上がり続けたが、ビールが日本酒に変わって、お銚子のお代わりを頼んだ時、幾分目元を赤くした粋締が谷和原の顔を覗き込んだ。


「谷和原さん、あなたは漁獲量規制に賛成なのですか? それとも、反対なのですか?」


「えっ、急にそんなこと言われても……」


 質問されるとは思っていなかったので動揺を隠すためにお猪口の日本酒をゆっくりと空けたが、黙っているわけにもいかず、「んん、どっちと訊かれましても、それは、なんというか……」と口を濁した。

 そして視線を外してお猪口に酒を注いだが、粋締は追及を止めなかった。

 彼の目から酔いは消えていた。


「今、漁獲規制をしないと大変なことになりますよ。乱獲の結果、値の張る大きな魚が減り、安値で取引される未成長の魚が増えました。だから獲っても獲っても金にならないんです。金にならないから更に未成長の魚を獲る。成長する前に獲ってしまうから大きな魚は更に減っていきます。この悪循環がいつまで経っても止まらない」


 厳しい目で睨まれた谷和原は上目がちに粋締を見て、〈どうしようもないでしょう〉と首を振ってから、ささやかに反論した。


「おっしゃることは理解できます。しかし、漁業連盟が規制に反対している以上、行政としても強硬に推し進めることはできません。それに」


「水産族議員の圧力ですか」


「いや、そんなことは……」


 歯切れの悪さに少し苛立ったようだったが、粋締は自制するように表情を戻して、「谷和原さん」と声を強めた。


「はい」


「本当のことを言ってください」


「本当のことって」


「谷和原さんの本音です」


「私の……本音……」


「あなたは事務次官まで上り詰めた人です。官僚のトップであるあなたが問題認識を持っていないはずがない、そう思いますが違いますか?」


 しかし谷和原は頷かなかった。

 いや、頷くことはできなかった。


「問題意識だけでは事務次官は務まりません。というより、問題意識が足を引っ張ることもあるのです」


 すると、それまで黙っていた豪田が口を開いた。


「前大臣とのことは知っています。谷和原さんが意見具申をするや否や『役人は黙っとれ!』と一喝されたことを」


「ご存知でしたか……」


 目を瞑って掌を額に置くと、当時のことが蘇ってきてたまらなくなり、それを抑えておくことができなくなった。


「『役人は調整と根回しだけしていればいいんだ』というのが前大臣の口癖でした。そして、『二度と政治家に意見具申をするな。わしの指示したことだけやればいいんだ。いいな、わかったな』と釘を刺されました。とてもきつい言い方でした」


「そんなことがあったんですか……」


 粋締が信じられないというように首を振ったので、きちんと理解してもらうために事務次官という立場に言及した。

「でも反論はしませんでした。私が嫌われたら漁業水産省全体に悪影響が及ぶからです。そんなことは絶対避けなければなりません。私が我慢すれば済むことですから」


 しかし、言った瞬間、当時の悔しさが胃液と共に逆流してきて、胸の内に収めることができなくなった。


「もちろん忸怩(じくじ)たる思いがなかったわけではありません。なんでこんな酷いことを言われなくてはいけないのかと思いましたし、冷たくあしらわれる日が続くと、自分の存在感に疑問を持つようになりました。そして、政治家と官僚という逆転できない力関係の中で、どうにもできないもどかしさにもがき苦しむようになりました。すると、政治家への転身が頭を(よぎ)るようになりました。前大臣の選挙区から出馬して、彼を蹴落としてやろうと思ったのです。でも、強固な地盤を持つ彼に勝てるわけはありません。(うら)(つら)みをぶつけて彼をこき下ろしても、誰もそんなことに関心は示さないでしょう。冷静になったら誰でもわかりますよね。それでも当時の私は正常な心理状態ではありませんでした。バカみたいなことを考えるくらい精神的に追い詰められていました」


 その時の無念さを思い出すといたたまれなくなって、お猪口を満たす酒を(あお)った。


「眠れない夜が続くようになりました。それだけでなく、毎晩のように夢を見るようになりました。前大臣に『クビだ!』と怒鳴られる夢を見るのです。そしてその度にうなされて目が覚めるのです。そんな日が続き、睡眠不足で気力がどんどん落ちていきました。そのうちどうでもよくなってきました。任期が終わるまで我慢すればいいのだと思うようになりました。そう思いだすと、自分でも嫌になるくらいどんどん卑屈になっていきました。日和見というか、保身に走るようになりました。そうしないと身も心も持たなかったのです」


 肩が小刻みに震えるのを見て取ったのか、豪田が思いやりに満ちた目で慰めの言葉をかけてきた。


「どれだけ辛い思いをされたか……。漁業水産省のエースとまで言われた谷和原さんがこんなひどい目に遭って、人柄が変わってしまうくらい追い詰められて、本当に言葉もありません」


 豪田は何度も首を振ったが、すぐに断ち切るような表情になって谷和原を見つめた。


「谷和原さん、もう一度やり直しませんか? 私が力になりますから、あの頃の谷和原さんに戻っていただけませんか? 谷和原さんが正しいことをしている限り、あなたを非難したり攻撃をする何者かが現れた時には必ず守る壁になりますから」


 豪田が手を取ってきっぱりと言い切った。

 それでも頷かなかった。

「そこまで言っていただいて、お気持ちはとても嬉しいのですが」と手を振り解いた。


「慣例からいえば、私の任期は残り半年を切っています。それに、そのあとのこともあります。力を持った政治家に嫌われると、退職金や退官後の人生に大きな影響が及んでくるのです」


 2人の息子はイギリスとアメリカの有名私立大学に留学していた。

 末娘は医学部進学を目指す高校3年生だった。

 子供たちの将来は安定した収入に掛かっていた。


「もう攻める気力は残っていません。守ることで精一杯なのです」


 豪田から視線を外し、お猪口に手を伸ばして、すするように酒を飲んだ。

 しかし、粋締の声がそれを止めた。


「谷和原さん、私にも家族がいます。守るべき家族がいます。そして、私も漁業連盟という組織の中にいます。腕一本で稼いでいる漁師といえども組織に嫌われたら大変なことになります。だから谷和原さんの気持ちはよくわかります。でもね、やらなきゃいけないことは例え抵抗を受けたとしてもやらなきゃいけないのです」


 そこで大きな声で名前を呼ばれた。


「谷和原さん、私だって所属している漁業連盟の支部からよく思われていません。というか反発を受けています。漁業のあるべき姿を訴えれば訴えるほど、その反発は強くなっています。いや、嫌がらせを受けているといっても言い過ぎではありません。でもね、何度も言うようですが、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけないのです。魚と海を守るためには言わなきゃいけないのです。それも危機に瀕している今こそ声を大にして言わなきゃいけないんです」


 すると、豪田が血走った目で話を引き取った。


「谷和原さん、私もプレッシャーを受けています。前大臣を始め水産族の重鎮から有形無形のプレッシャーを受けています。『豪田を首にしろ』と露骨に言う人までいます。どうしてだと思いますか? それは、私が女だからです。そのことが気に入らないのです。『男に命令するな』と言われたこともあります。国会の中でも男尊女卑は今だに残っているのです。でもね、私は負けませんよ。誰がなんと言おうと負けません。漁業水産大臣としての使命を果たすまでは負けるわけにはいかないのです。例え解任されても、その後、要職に付けなくなっても、そんなことは構いません。そんなことよりも自分の生き方に後悔したくないのです。あの時なぜもっと頑張らなかったのかと後悔したくないのです。年老いてから昔のことを思い出して胃液が逆流するような思いをしたくないのです」


 そこで豪田は盃を口にした。

 穏やかな表情になるための切っ掛けを作るように。


「私たちには使命があります。私には大臣としての使命が、そして、谷和原さんには事務次官としての使命があります。何が使命かはおわかりですよね。谷和原さん、自分に与えられた使命を果たしませんか。将来後悔しないためにも嘘偽りのない本音で仕事をしませんか。私と一緒にやりましょう、谷和原さん」


        *


「現場、現物、現実!」


 翌週、谷和原の大きな声が漁業水産省の会議室に響き渡った。


「庁舎の中でパソコンを覗いているのは仕事ではありません。漁の現場へ行き、漁師の生きざまに接すると共に、水産資源管理の一流研究者の研究成果に真摯に耳を傾け、水産資源がどうなっているのかを知ることが大事です。パソコンの中に現実はありません。肌で知ってこそ現実なのです」


 朝礼が終わって席に着いた職員たちの顔に驚きの表情が浮かんでいた。


「谷和原さん、どうしちゃったのですか?」


 今年入省したばかりの女性職員が目を丸くした。


「いや、これが本来の谷和原さんなんだよ」


 入省10年目の男性職員が強い眼差しを送った。


「漁業水産省のエース復活!」


 ベテラン職員が両手の拳を握りしめた。



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