ご期鯛下さい!
桜が満開になった。
それに合わせるように母味優が開店した。
春爛漫、新しいことを始めるにはぴったりの季節だった。
さかなや恵比寿さん吉祥寺店の切り身魚コーナーの横のスペースに10席という、こじんまりとした店構えだったが、優美にとっては念願の店であり、鼓動の高まりを押さえられないでいた。
もちろん、オーナーとしてではなく雇われ店長という立場ではあったが、母味優のブランド使用料と利益の一部を受け取る契約を結んでいたので、使用人という感覚はなかった。
当面の営業時間は11時~15時に設定することになった。
但し、仕込みや片づけ等があるので、実労働時間は8時~18時になることが予想された。
すると、この予測を知った差波木は母の負担が大きいと考え、鮮魚コーナーの女性社員を交代で派遣すると言ってくれた。
「女性社員にとっても勉強になりますから」
それはとてもありがたい配慮だったが、却って優美の緊張は増した。
夢が叶った喜びよりも責任の重さを強く感じるようになったからだ。
しかし、それに押しつぶされるわけにはいかなかった。
胸に秘めた二つの想いを口に出しては何度も確認し、自らを奮い立たせた。
「旬の魚を色々な調理法で味わっていただくこと。そして、切り身魚コーナーで買った魚を家で調理する時の参考にしていただくこと」
大きく深呼吸して、和紙に本日のメニューを書き込んだ。
そこには〈本日の旬魚《鰆〉とだけ書かれていた。
但し、塩焼き、味噌漬け焼き、ホイル焼き、から揚げ、味噌煮から好きな調理法を選べるようにしていた。
*
「いらっしゃいませ」
最初のお客様は、70代と思われる老夫婦だった。
「このお店、前からありました?」
「いえ、今日からです。そして、お客様が初めての方になります」
「まあ~」
奥様が顔を綻ばせた。
対してご主人は困惑しているような表情で、「メニューはこれだけですか?」と表裏を交互に見た。
しかし、それは予想されたことだったので、優美は落ち着いて対応することができた。
「そうなんです。旬のお魚を色々な調理法で楽しんでいただくために、魚を一種類に絞って、それを定食にしてお出ししております。今日は瀬戸内海で獲れた鰆です」
「ほう~」
「面白いわ。私は、そうね~、味噌漬け焼きって、西京焼きのことよね」
「そうです」
「じゃあ、それをお願いします」
「かしこまりました」
「私はシンプルに塩焼きを頼むことにしよう」
「承知いたしました。少々お待ちください」
鰆がプリントされたエプロンを翻して調理場へ向かった。
*
「おいしい。味噌の風味がいいわね。少し甘めで、でも甘すぎず,塩梅が丁度いいわ」
「こっちも塩加減がいいし、皮がパリパリで旨いよ。なんと言っても、身離れがよくて食べやすいから、年寄りには言うことないな」
店の隅で夫婦の会話を聞きながら、優美はホッと息を漏らした。
*
食べ終わって会計に立ったご夫婦から賞賛の言葉をかけてもらった優美は、「ありがとうございました。ささやかな御礼ですが、切り身魚の調理法をイラストにしてみました。よろしければお持ち帰りください」と頭を下げてから、もう一言つけ加えた。
「さかなや恵比寿さんでは海の環境に優しい漁法で獲った魚を取り揃えており、母味優はその魚を調理しております。今後ともよろしくお願い致します」
その後も客が途絶えることがなかった。
年配者だけでなく、子供連れの若い母親も数多く来店したので閉店まで賑やかだった。
それに、調理法を書いたチラシを受け取った客のほとんどが「家で試してみますね」と言ってくれたことが嬉しかった。
*
閉店の時間になった。
最後の客を見送ってから入口のポールにチェーンを張り、閉店と印刷された看板を立てると、安堵感と充実感が心の中に広がった。疲れはまったく感じなかった。
しかし、仕事が終わったわけではなかった。
片づけと翌日の仕込みがあるのだ。
それでも、それが楽しかった。
明日も笑顔を提供できると思うと、心が弾んだ。
ひとりでに笑みが浮かんできて、鼻歌交じりで作業を続けた。
店の灯りを落としたのは18時5分だった。
でも、することがまだ残っていた。
明日のメニューの告知だ。
母味優は閉店するが、〈さかなや恵比寿さん〉の営業は21時まで続くので、その間に来店した客に目を止めてもらいたいと考えたのだ。
看板の下に告知の紙をテープで留めた。
それを見ていると、明日も頑張ろうという気になった。
『明日の旬魚は〈鯛〉の予定です。ご期鯛下さい!』
メニュー告知が優美にエールを送っていた。




