母・優美の挑戦
アラスカ魚愛水産の塩鮭が〈さかなや恵比寿さん〉の各店頭に並んだ。
濃い赤色の切り身が売場いっぱいに並ぶと、なんとも華やかで、買わずにはいられない魅惑を振りまいていた。
設置されたDVD再生機器からはエンドレスで映像が流れていて、食い入るように見つめている幼稚園児くらいの子供がサーモンの卵を指差した。
そして、卵膜を破って出てきたサーモンの仔魚が泳ぎ出すと、「赤ちゃんが生まれた」と嬉しそうに笑った。
一方、別の幼子が水槽にへばりついていた。
「おしゃかなしゃん、ねんねしてる」
水槽の底でじっとしている魚を見つめていた。
「カレイよ」
「かりぇい?」
子供が水槽をトントンと叩いた。
「おひるでしゅよ。おきてくだしゃい」
すると、カレイの目が動いて、ゆっくり泳ぎ出した。
「かりぇいしゃん、おっきした」
子供がキャッキャと笑うと、「良かったね」と母親が微笑みかけた。
そんな親子の楽しそうな姿を飽きることなく見続けていると、差波木社長がにこやかな表情で口を開いた。
「もう一つ、やりたいことがあるんですよ。店の中に魚を食べられるコーナーを作りたいのです」
水槽とDVDと鮮魚売場に加えて、飲食コーナーを考えているのだという。
「見る、知る、買う、食べる、という体験が店舗内で完結できれば、魚に対する親近感が深まると思うんです。それを積み重ねていけば、もっと多くの人が魚料理に関心を持ってくれるんじゃないかなって思っているのですが、どうでしょうか?」
すると、さっきの親子たちがおいしそうに魚を食べている姿が頭に浮かんだ。
「わたしは大賛成です」
「そうですか、賛成していただけますか。ありがとうございます。もしそれができたら食べに来ていただけますか?」
「もちろんです。必ず家族を連れてきます」
彼は満面に笑みを浮かべて頷いた。
*
「私じゃ、ダメかな?」
家に帰って差波木社長とのことを母に話した途端、驚きの発言が飛び出した。
「差波木さんのお店の飲食コーナー、私ができないかな?」
突然のことに唖然として母を見た。
「そんな目で見ないでよ」
「だって……」
「驚くのはわかるけど」
「え~、本気なの?」
「冗談でこんなこと言えないでしょう」
絶句した。
本当にお店を持ちたいと考えているなんて思ってもみなかった。
今の今まで母の言うことを真に受けていなかったのだ。
食楽喜楽で楽しそうに働いているから、それで満足していると思っていた。
しかし、そうではなかった。
母は本気で自分の店を持つことを考えていた。
「差波木さんに訊いてくれない?」
母の表情は真剣そのものだった。
頷きを返すしかなかった。
*
3日後、取引先との商談が早く終わったので、その足で〈さかなや恵比寿さん〉へ向かい、飲食コーナーの具体的プラン、特にシェフについて尋ねた。
「いや、まだ誰とも決めていません」
彼は両手を広げて肩をすくめた。
飲食コーナーのスペースは決めているが、誰に任せるかは、これからだという。
「わたしの母ではだめでしょうか?」
恐る恐る訊いてみると、彼は〈えっ〉というふうに目を見開いた。
「差波木社長が飲食コーナーを計画していることを母に話したら、自分がやりたいと言い出したのです。突然だったので、わたしもびっくりしたのですが」
「そうですか。で、お母さんはご経験あるのですか?」
食楽喜楽でシェフのアシスタントをしていることを伝えると、「ほ~、食楽喜楽ですか。あそこはいいですね。旬のおいしい魚をリーズナブルな価格で食べられる、確か、一つ星ではなかったですか」と記憶を辿るような表情になった。
「そうです。グルメワールド誌の一つ星です」
「ですよね。私も時々食べに行くのですが、食材の良さを大事にする調理法にいつも感心しています。でも、本気なのですか、お母さんは」
間髪容れず頷くと、「それで、皿真出シェフはなんと」と探るような声が返ってきた。
「いえ、まだシェフには話をしていないと思います。ここでのお話が決まってからでないと……」
「そうですか、わかりました、では、お目にかかってお話を伺いたいと思います。お母さんをここにお連れ願いますか?」
「本当ですか。わ~、ありがとうございます。母が喜びます」
体を二つ折りにして謝意を表して店を辞した。
帰宅してそのことを母に告げると、飛び上がらんばかりに喜んでくれた。
善は急げとすぐに電話をかけた。
翌週の月曜日に訪問することになった。
*
「家庭で魚を食べる機会が減っています」
挨拶の時にはニコニコしていた差波木社長の表情が少し曇ったように見えた。
「共働きが多くなった影響でしょうか? それとも」
母の言葉に頷いた彼は、「確かに、それもあると思います。出来合いの総菜を買う機会が増えているようですが、その総菜の多くが肉料理なのです。しかし、それだけではなく」と言って顔をしかめた。「魚を捌ける女性が少なくなっているのです」
「そうですね。魚の内臓を取って、三枚に下ろすのを面倒がる女性が増えていると聞いたことがあります」
「そうなんです。母から娘へと引き継がれていった家庭の味が、特に魚料理が減っているのです。日本人の健康長寿の源は魚だと思うのですが、それを食べなくなったら大きな影響が出ると思います。というのも、EPA、DHAという健康に良い脂肪酸は人間の体内では合成できないからです。摂取するためには青魚をしっかり食べなければならないのですが、このまま魚離れが進んでいくと心臓病などの循環器疾患が増えるんじゃないかと心配しているんです」
悩ましげな表情を浮かべた彼だったが、ふっと我に返ったようになって、「あっ、すみません。せっかくお越しいただいたのに、愚痴のようになってしまって」と神妙な面持ちになった。
それでもすぐに柔らかな表情になって、「核家族化が進行して魚の捌き方を習う機会が減っているのは残念ですが、それを嘆いていても仕方がないのでなんとかしなければと思っています。だから飲食コーナーを設けて魚料理に接する機会を増やしたいのです」と自説を披露した。
すると母は〈承知しています〉というように笑みを浮かべて頷いてから、「一つご提案があります」と言って事前に考えていたアイディアを披露した。
「手の込んだ難しい料理ではなく、切り身魚の料理をお出しすることから始めてはどうでしょうか」
「切り身魚ですか」
「そうです。鮮魚売場で売っている切り身魚を調理してお出しするのです。そして、そのレシピを印刷したチラシをお渡しするのです。そうすれば」
「飲食コーナーで食べた料理を家でも再現できる」
彼が〈なるほど〉というように頷いた。
「焼き魚だと短時間でできますし、上手に塩を振るコツを掴めば、本当においしくいただけますから」
すると、〈確かに〉というふうに手を打った彼は、「20分から30分前に塩を振っておけば、臭みが消えて旨味が出てきますからね」と経験に基づいた言葉を返した。
その後も2人は夢中になってアイディアを出し合った。
身振り手振りが大きくなり、笑い声が何度も起り、2人以外は誰もいないかのように熱中していた。
それでも話が一段落すると、彼が真顔になって母と正対し、〈飲食コーナーをお願いしたい〉と切り出した。
すると母も真顔になり、「是非やらしてください。よろしくお願いいたします」と深く頭を下げた。




