アラスカ
翌週、幸夢は成田発シアトル経由アンカレッジ着のLCCに乗り込んだ。
役職者以外の海外出張はLCCと決められているからだ。
それでも苦痛だとは思わなかった。
出張慣れしているし、強力な助っ人がいるからだ。
「今回もよろしくね」と呟いて、軽量で遮音性の高いヘッドフォンを装着した。
スマホのアイコンをタップすると大好きな歌声が聴こえてきた。
安室だ。
その歌声に浸っていると、何故か父から聞いたことを思い出した。
昔は音楽を外出先で聴くのが大変で、カセットテープやCDを持ち歩かなければならず、専用の音楽再生機器にセットして聴いていたそうだ。
でも、今はスマホがあればいつでも何処でも音楽が聴ける。
良い時代に生まれてきたことに思わず感謝した。
*
3月のアンカレッジは寒い。
最高気温がマイナスになる日も多く、到着した日も凍えるような冷たい風が吹きつけていた。
それは多難な前途を予感させるような風で、これから始まる交渉の厳しさを教えられているようだった。
アラスカ湾北部の河口近くの海で行われるサーモン漁は5月解禁なので、その前に契約しておかなければならない。
しかし、限られた時間で成果を出すのは至難の業を超えているとしか思えなかった。
*
到着した翌日、アポイントを入れていた『アラスカ魚愛水産』へ直行した。
現地で最大規模の水産会社であり、過去にはかなりの取引があったが、最近はほとんどゼロに近い状態が続いている。
本来なら社長に直談判をしたいところだが、平社員の身分ではそうもいかない。担当者と話をするしかなかった。
「大日本魚食さんですか、久しぶりですね」
幸夢が名刺を渡して自己紹介すると、担当者が大げさに両手を広げた。
「ご無沙汰しております。ところで、今年のサーモンの漁獲量はどのくらいを予測されていますか」
彼はそれには答えず、自社の特徴を得意気に説明し始めた。
「ご存じだと思いますが、うちはサーモンの鮮度を保つために船上凍結をしています。更に、陸上でもマイナス35度以下になる急速凍結を15時間以上行っています。アニサキスなどの寄生虫対策のためです」
「承知しています。徹底されていて、素晴らしいと思っています」
事前に調べて知っていたので誉め言葉で返したが、「品質を重視しているので当然ですけどね」と抑揚のない声が返ってきた。
しかしそんなことは気にせず、「それで、漁獲量なんですけど」と再度話を振ると、「悪くないと思いますよ。自主規制の効果で資源量が増えていますから」と最新の状況に触れた。
「では、弊社に少しまわしていただくことは可能でしょうか?」
しかし、期待した返事は返ってこなかった。
「う~ん、どうですかね」と首を傾げてから、「日本の水産会社はノルウェーやチリにご執心だからね」と嫌味な口調になった。
それでもすぐに表情が戻って、「アラスカのサーモンは最高だと思いますよ。特にオススメはなんと言っても塩焼きですね。アラスカの海水塩を添加しているから焼いた時に身がふっくらして滅茶苦茶うまいんですよ。焼き上がりの香りがいいし、身離れがよくて甘みもあって絶品だと思いますよ」と自慢げに言った。
「そうだと思います。それで弊社としてもお取引を拡大させていただきたいと思いまして」
必死になって次のステップへ誘導しようとしたが、価格を聞いて、愕然とした。
与えられた予算を大きく超えていたのだ。
〈買い負け〉という言葉が脳裏を過り、唖然として担当者を見つめるしかなかった。
それでも関係を閉ざしてはいけないと思い、「上層部と相談して再度お願いに上がります」と含みを持たせることを忘れなかった。
すると、彼は意外なことを口にした。
「社長に挨拶だけでもしていきますか?」
突然のことに驚いて声が詰まったが、このチャンスを逃すわけにはいかなかった。〈是非に〉と頼み込んで社長室に連れて行ってもらった。
紳士だった。
真っ黒に日焼けした厳つい漁師のような顔を想像して室内に入ったが、柔らかな笑みをたたえた小柄な男性が出迎えてくれて、緊張が解けた。
それだけでなく、短い時間だったが、貴重な話を伺うことができた。
社長と担当者に何度も礼を言って会社をあとにした。
それで気持ちが前向きになったので、翌日、やる気満々で次の水産会社へ向かった。
しかし、交渉がまとまることはなかった。
価格がまったく合わないのだ。
それは他の会社でも同じだった。
5社に対してアポイントを取っていたが、どことも契約を交わすことは出来なかった。
4日間の出張は徒労に終わった。
*
なんの成果もないまま乗り込んだ帰りの飛行機で安室を聴く気にはなれなかった。
出張旅費に対する成果がゼロなのだ。
落ち込んだ気持ちを立て直すことができず、空港で買ったサンドイッチを手にする気もおこらなかった。
どうせ食べてもなんの味もしないことがわかっていたからだ。
することがなくなって目を瞑ったが、当然ながら眠ることはできなかった。
それならワインの力を借りようかと思ったが、悪酔いすることが容易に想像できたので止めた。
ため息を二度ほどついてもう一度目を瞑り、頭に思い描きながら数えだした。
羊が1匹、羊が2匹、3匹、4匹、5匹、6匹……、
99匹目で意識が遠のいた。