差波木良太
その翌日、海利社長から渡された名刺を持って、さかなや恵比寿さんの店舗を訪問した。
日本で一番住みたい街ナンバーワンに何度も輝いた吉祥寺のバイパス沿いにある大きな建物だった。
鮮魚店にしては余りにも大きいので目を見張った。
アポイントの時間まで少し間があったので店内を見て回ったが、よく行くGMSや食品スーパーの鮮魚コーナーとはまったく違う売場になっていた。
中でも、驚くほどの大きなものに釘付けになった。
「活きがいいでしょう」
いきなり声をかけられて振り向くと、「差波木です。こんにちは」と挨拶された。
「あっ、初めまして、幸夢です。今日はありがとうございます」
慌てて頭を下げてから名刺を差し出した。
すると、「素敵な名前ですね」と名刺を見ながら微笑んだ。
「ありがとうございます」
名前を褒められて緊張が解けたので、改めて尋ねた。
「ところで、この水槽は」
「凄いでしょう。大きいでしょう。いっぱい泳いでいるでしょう」
「はい。鮮魚店の中にある大水槽なんて、初めて見ました」
本当に驚いたことを伝えると、何度も頷きながら、「お客様に生きた魚を見ていただきたくて」と大きく手を広げた。
中には何十匹もの魚が泳いでいた。
「水族館以外では生きた魚を見る機会はないですよね。それに、水族館に行く機会がそんなにあるわけではないし」
「そうですね、確かに」
「大人も子供も死んだ魚しか見たことがないんですよ。その上、最近の魚売り場は切り身や刺身の盛り合わせばかりになっているから、魚がどんな形をしているかもわからなくなっているんです」
「本当ですね。言われてみれば、その通りだと思います」
「で、ね、泳いでいる魚を見てもらえば、魚をもっと身近なものに感じてもらえるかなって思ったんですよ」
頷いて水槽に目を戻そうとすると、小さな女の子が走ってくるのが見えた。
「ママ、いっぱい泳いでるよ」
赤ちゃんを抱っこした母親を手招きしてから、水槽に顔をくっつけんばかりに近づいた。その目はランランに輝いていた。
「お魚さん、こんにちは」
両手を水槽にぺたんとつけて、魚に話しかけた。
「わっ、おっきい!」
目の前を鯛が泳ぎ過ぎた。
「このお魚さん、お口がとんがってるよ」
カワハギの口に小さな指を向けた。
「このお魚さんのおヒゲ長いね~」
伊勢海老の長いヒゲが動くのに合わせて顔を上下させてキャッキャッと笑ったが、「そろそろ行きましょ」と促されると、ちょっと拗ねたような顔になった。
それでも母親に頭を撫でられると、こくんと頷いて、「お魚さん、バイバイ」と小さな手を振った。
そこで差波木が母親に声をかけた。
「水槽の魚は毎日少しずつ変わっていますので、また見に来てくださいね」
すると母親はニッコリ頷いて女の子の手を握り、切り身売場の方へ足を向けた。
その後姿をニコニコと見送っていた差波木だったが、視線が戻ると、真剣な眼差しになった。
「環境に優しい漁法で獲った魚を優先して扱うようにしています。海底のすべてのものを破壊する漁法や小さな魚まで一網打尽にする漁法で獲った魚ではなく、一本釣りや資源保護に配慮した漁法で獲った魚を最優先で仕入れているのです」
それは素晴らしい方針だったが、それだけでは魚を揃えることは難しいのではないかと疑問が湧いた。
それを質すと、大きな頷きが返ってきた。
「そうなんです。資源保護に配慮した漁法で獲れた天然ものだけでは品揃えができません。でも、環境に優しくない漁法の魚はできるだけ仕入れたくない。だから、養殖の魚で埋め合わせしています」
「そうでしょうね。全世界の養殖業生産量は天然の漁獲量を超えていますし、今後もその差は開いていくでしょうからね」
「そうなんですよ。養殖魚抜きの店頭は考えられなくなっています。でもね、養殖モノにはまだまだ問題点が多いんです」
「それは、海洋汚染とか」
「そうなんです。魚のフンとかエサの食べ残しなどによる自家汚染の心配が拭えないのです。ですので、海洋汚染対策を施している養殖業者に絞って仕入れているのです」
「なるほど。でも、それも結構大変ですね」
「はい、他の養殖業者よりも単価が高くなるので、仕入れ値といつも睨めっこしています。でも、それよりなにより心配しているのは幼魚の乱獲です」
「それって、産卵年齢に達する前の魚のことですか?」
「そうです。例えば太平洋クロマグロではその漁獲量の98パーセントが幼魚だと言われています。98パーセントですよ。資源が減っていくのは当たり前ですよね」
差波木が〈憤まんやるかたない〉というふうに口を尖らせたので、すぐさま同意の頷きを返した。
すると彼はキリっとした表情になり、話を未来へ向けた。
「だから完全養殖の技術の確立を待ち望んでいるのです」
「そうですよね。それなら天然資源にも影響しませんしね」
「そうなんです。日本でも『持続可能な水産養殖のための種苗認証制度』の運用が開始されたので、それに合致した養殖魚が増えていくことを期待しているのです。世界の人口増加と天然魚の資源量を考えると、おいしくて、かつ、安心して食べられる養殖魚が安定的に供給されることは重要だと思っているからです」
彼の話を聞きながら、日本の各施設で研究が進んでいる完全養殖への取り組みをもっと応援しなくてはならないと強く思ったが、意外な指摘をされてしまった。
「でもね、残念ながら養殖モノの味は同じなのです。年中同じ生け簀で同じ餌を食べているわけですから旬というものがないのです」
そう言われればその通りだった。
「でも、天然モノは違います。季節によっても泳いでいる場所によっても海流によっても食べる餌が変わります。だから獲れる時期や獲れる場所によって味が違うのです」
そして鮮魚コーナーに並ぶ魚を指差して、「脂が乗った旬の魚は本当においしいから、それを味わってもらったらもっと多くの人が魚を好きになってもらえると思うんですよ」と確固とした声を出した。
その通りだと思った。
それだけでなく、心の底から海を愛し、魚を愛している人だと思った。
「2年前に思い切ってこの場所へ店を出してから信じられないくらい多くのお客様に来ていただきました。その評判が広がり、多くの同業者が見学に来てくれました。その人たちと話していると、自分と同じ想いの人がいっぱいいることを知りました。そこで、思いついたのです」
何を?
「同じ想いの人達と一緒に仕事ができないかなって」
ん?
「来月、会社を立ち上げます」
えっ?
「さかなや恵比寿さんホールディングスです。将来はここと同じような店を首都圏に100か所作りたいと思っています」
凄い!
新たな鮮魚流通グループの誕生に興奮を隠せなくなった。
それだけでなく、ビジネスチャンスの匂いを強く感じたので思わず大きな声が出た。
「弊社も仲間に入れていただけませんか?」
「えっ、仲間って、御社をですか?」
「はい、そうです。環境に優しい漁法で獲った魚を仕入れるお手伝いをしたいのです」
しかし、言ってはみたものの、初対面でこんなことを聞き入れてもらえるはずもなく、一気に不安になった。
ドキドキしてきて顔をまともに見ることができなくなった。
しかし、彼の優しい声がそれを打ち消した。
「さすが海利社長の会社の人は違いますね。わかりました。正式なオファーをいただければ前向きに検討させていただきます」
*
慌てて会社に戻って、海利社長と嘉門部長に差波木社長との面談結果を報告した。
「天然モノを主体とした大規模鮮魚店が首都圏に100か所か……」
部長は一瞬驚いたような表情を見せたが、彼の営業脳が頭の中の計算機をフル回転させているようだった。
「それで?」
「仕入れに協力させていただきたいと申し込んだら、『前向きに検討したい』と快いお返事をいただきました」
「そうか」
「はい。海利社長の会社なら信頼できると言われていました。日本漁業の未来研究会でのご発言に感服されたようでした」
すると社長が少し照れたような笑みを浮かべて、「君たちのお陰だよ。私は君たちの提言をそのまま言っただけだからね」と謙遜した。
それを聞いて、手柄を社員に渡す社長が素敵だと思った。
この人のためなら頑張れるとも思った。
しかし、次の瞬間、社長の顔が引き締まり、「でも、これからが大変だな」と部長に話を振った。
「そうですね。天然モノの確保は簡単ではありませんから」
部長の顔からも笑みが消えたが、却ってそれで心が決まった。
会社に帰る道すがら考えていたことを口に出した。
「アラスカへ行かせてください」
「えっ⁉」
社長と部長が同時にのけ反った。




