嘉門部長
部長が連れて行ってくれたのは、ちょっと高級そうな板前割烹だった。
カウンターではなく半個室に通されたのだが、落ち着いた照明が店の品格を表しているように感じた。
出された料理も品格通りだった。
お通し、椀物、造りと順番に出てくる料理はどれも美味しいだけでなく、見た目も楽しませてくれる繊細な盛り付けだった。
部長は一切仕事の話をしなかった。
ひたすら料理を愛で、料理人の技を褒め、食材についての蘊蓄を傾けた。
その間、専ら頷き役を務めていたが、部長の箸と口が止まった時、それは突然弾けてしまった。というか、胸に納めていた疑問が口を衝いて出てしまった。
「なんで『アラスカへ飛べ!』って言われたのですか? 本気で契約できると思っていらっしゃったのですか?」
ビールが日本酒に変わって少し酔いが回っていた。
語気が強かったのを懸念してか、海野がブラウスの袖を引っ張った。
「だって……」
嘉門部長は何も言わずお猪口の酒を飲み干した。
酒を注ごうとすると、それを手で制して自分で酌をし、2人のお猪口にも酒を注いだ。
そして、「若い頃……」と言いかけてまた飲み干し、手酌で注いだ酒に視線を落としてから懐かしそうに話し始めた。
「若い頃、アラスカへ何度も行った。あの頃は良かった。中国の輸入業者なんて一人もいなかった。買い負けすることなんて一度もなかった。いくらでも買えた」
部長は、フッ、と笑った。
楽しそうな顔だった。
「日本が輸入するサーモンの半分以上がアラスカ産のベニザケだったってこと、知っているか?」
急に振られて焦ったが、よく知らないので首を振った。
「知らないよな、もう25年以上前のことだからな」
遠くを見つめるような目で話を続けた。
「まだノルウェーもチリもサーモンの養殖に手を出していなかった。養殖物がなかったからサーモンを生で食べることもなかった。それに回転寿司の数も多くなかったから、バイイングパワーも存在しなかった」
そしてまた酒を飲み干して、「いい時代だったよ」としみじみとした声を出した。
「本当にいい時代だった」
目元にうっすらと赤みがさしていた。
「そのあと養殖ものが輸入できるようになって、サーモンが寿司ネタとして当たり前に食べられるようになった。回転寿司がブームになり、更に需要が拡大した。水産会社同士の競争は激しくなったが、それでも日本企業だけの競争だった。しかし、」
幸せそうな表情が消えた。
「欧米で健康食ブームが起こって水産物の需要が拡大すると同時に中国や新興国の購買力が上がって競争が激しくなった。今度はワールドワイドの競争になった。徐々にサーモンを手に入れることが難しくなっていった。当然のことだが、大手の取引先が希望する数量要求に応えるのが難しくなった。すると、『大日本魚食さんができないというなら他の水産会社に注文を回すから』と厳しいことを言われるようになった」
そこで口を閉じると、苦いものを噛んだような表情になった。
「ノルウェーでもチリでも買い負けが続いて、俺は焦っていた。その時思ったんだ。もしかしたらアラスカがいけるかもしれないって」
「それで『アラスカへ飛べ!』って指示を出されたのですね」
部長は大きく頷いた。
「俺がアラスカへ行っていた頃とは状況がまったく違うのを承知の上で、君に指示を出した。一か八か、もしかしたらうまくいくかもしれないと、甘いことを考えていた」
自嘲気味に笑った。
「そんなことあり得ないのに、馬鹿だよな。申し訳なかった」
済まなさそうに頭を下げた。
「いえ、そんなこと、とんでもありません」
どうしていいかわからず、慌てて頭を下げ返した。
「バカな指示出したけど、君の報告書が」
部長が微かに笑った。
しかしすぐに真顔になり、「俺は競争することしか考えていなかった。どうやったらライバルに勝つか、それだけしか頭になかった。勝つか負けるか、それしか考えていなかった」と首を振った。
そして、「バカだよな。土俵を変えるなんてまったく思いつかなかった」と頭に手を当てた。
「『薄利多売は大手の水産会社に任せて、我が社は違う道へ行くべきではないでしょうか』という君の提案を読んで、頭をガツンと殴られたような気がしたよ。それに、水産物の保護とか海の生態系とか環境汚染とか、一度も考えたことなかったしな」
ゆらゆらと首を振って、お猪口に右手を伸ばした。
しかし口に運ぶことはなく、手に持ったまま沈んだ声を出した。
「ダメだよな。俺みたいな人間がいるから、魚が減り、海の生態系が壊れるんだよな」
目を瞑って、左手をおでこに置いた。
「愛がないんだよ、愛が」
手でおでこを何回も叩いた。
「海の恵みで商売させてもらっているのに、それなのに」
親指と人差し指を目頭に当て、そのまま何度も首を振ってから手を離し、顔を上げて、フッ、と笑った。
「海と魚に感謝の気持ちを持たなきゃな」




