専業主夫
「行ってきます」
妻と美久がいそいそと出ていった。
今夜は都心のレストランでディナーを楽しむらしい。
「予約席が2席しか取れなかったからごめんね」と美久は謝っていたが、「そんなことは気にせずに楽しんでおいで」と送り出した。
本音を言えばちょっと複雑な感情がなくはなかったが、それを表に出すわけにはいかない。一家の主としての沽券にかかわるからだ。
それに、主夫となった今、留守を預かるのも大きな役目であり、しっかり勤め上げなければならない。
だから、夕食代として妻から2,000円を渡されたが、千円札一枚しか受け取らなかった。〈質素、倹約、創意工夫〉は何を置いても最優先だからだ。
それを再度言い聞かせて、食品スーパーへ向かった。
*
店に入って棚を色々見ながら〈今夜は何にしようか〉と考えていると、豆腐に目がいった。
木綿豆腐が55円と表示されていた。
おまけに今日は10パーセント引きだという。
そのPOPを見た途端、献立が決まった。
湯豆腐。
となると、あとは白菜と長ネギと椎茸と豚肉が必要で、頭の中で計算しながら安いものを探した。
カゴをレジに持っていくと、税込み821円で予算内で納めることはできたが、そこでハッと気がついた。
ビールを買い忘れていた。
すぐに売場に戻って安いビールを探すと、残金で買えるビールが見つかった。
発泡酒のロング缶が税込み178円だった。
支払いを済ますと、ポケットに1円残った。
満足感は半端なかった。
しかし、スーパーを出て〈あること〉に気がついた。
春菊を買うのを忘れていた。
でも1円しか残っていないので、諦めるしかなかった。
後ろ髪を引かれながら家に向かった。
*
台所でレジ袋から食材を出し、鍋に水を入れて火にかけた。
といっても、電気のフラットコンロなので火は出ない。
火力を7にして次の準備にかかった。
乾物をしまってある棚を探すと、北海道産だし昆布があった。
〈湯豆腐などのだしに!〉と書いてある。
大きめのものと小さいものを各1枚鍋の中に入れて、次の作業に移った。
白菜をザクザクと切るのだ。
切り終わると、芯の方を先に入れて、その上に柔らかい部分を乗せた。
それから、長ネギと椎茸を切って鍋に入れた。
しばらくして沸騰したので、弱火にしてコトコトと煮て、テレビにお守をしてもらいながら時々チェックし、頃合いを見て火を止めた。
そして、余熱で温めている間にさっと風呂に入り、出たあとは、豆腐と豚肉を入れて再び火を入れ、豚肉の色が完全に変わるまでしっかり煮た。
次はテーブルの準備だ。
箸と取り皿と発泡酒とグラスを準備して、鍋敷きを置いてから、鍋を持ってきた。
しかし、まだ蓋は開けない。
発泡酒を注ぐ儀式があるのだ。
グラスの三分の二のところまで垂直に勢いよく注ぎ、一瞬間を置いてから、泡を壊さないようにグラスの淵に沿ってゆっくりと注ぎ、泡がこぼれないようにギリギリのところで止めた。
流儀というほどではないが、これがいつものやり方なので外すことはできない。
乾杯!
完璧な泡に仕上がったグラスを上げてぐいっと飲むと、「このために生きているようなもんだからな」と思わず呟いてしまった。
更に一口流し込んで、ゆっくりと鍋の蓋を上げると、湯気が立ち上がった。
誘われるように生唾が出てきた。
それをゴクンと飲み込んで、小さなしゃもじで豆腐をすくった。
取り皿の中で豆腐を四分の一に切った。
大きいまま一気に食べると口の中を火傷するからだ。
念のために、その上にポン酢をかけて冷やしておく。
そして、白菜とネギと椎茸をすくって、最後に豚肉を入れて、その上からポン酢をかける。
これで準備万端だ。
食べる順番も決めている。
豚肉を白菜の柔らかい部分で巻き、ゆっくりと口に運ぶ。
火傷しないように熱さを確かめながらゆっくりと噛む。
豚肉の肉汁が口の中に広がると、思わず頬が緩んだ。
豚肉と白菜とポン酢のコラボレーションが最高で、しばらく余韻に浸った。
それからネギと椎茸を食べ、最後に豆腐を食す。
これも白菜の柔らかい部分で巻いて食べる。
火傷しないように慎重に口に運ぶが、左手にはグラスを持って、いつでも発泡酒で口の中を冷やせるようにしておく。
大丈夫だ。
丁度良い熱さで言うことなし!
飲み込んだあと、ゆっくりと発泡酒を流し込むと、幸せすぎてまたまた頬が緩んだ。




