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半ば寝ぼけたまま身支度を済ませたガンボールは、人々の密な往来をよしとしない、沈みかけた星明りの残光に濡れる街へと繰り出した。普段の生活からは考えられないほど早起きであり、よく挨拶を交わしたり何かと物を渡しつけてくる住人もまだ建物の中で息を潜めているらしかった。
たまにはこんな日があってもいいかと清々しさを覚えながら、ガンボールはあくび混じりに協会本部へと赴いた。
こんなに朝早くに出発するには理由がある。敵の油断を誘うためだ。兎角人は太陽と共に行動するよう仕組まれているらしく、夕方と早朝は最も気が緩む時間帯でもあるのだ。ゆえに、一時間や二時間の遅刻を平気でするガンボールもこうして指示された時間通りにやってきていた。
ガンボールが協会に着くと、寒冷地仕様の装備と荷物の準備を済ませたグレースが、受け付けの待ち合い席に座っていた。
「よお、眠そうだな」
「別にあんたほどじゃないわよ」
立ち上がってガンボールに合わせた目を細めるグレースは腕を組み、不機嫌そうにそう答えた。
「条件は達成したんだよな?」
「当たり前でしょ。でなきゃ来てないわよ」
「そりゃよかった。俺がアドバイスしたのにできませんでしたなんて、気になってつい早起きしちまった」
「私のおかげで遅刻せずに済んだなら、感謝してほしいくらいね」
いつにも増してツンケンとしたグレースは、自身の感情の置き所に困っていた。
リンデルとの話しが終わった後、魔術の修練場へ向かったガンボールは、グレースに一つだけ六章を乗り越えるコツを教えたのだ。本来であれば自力で乗り越えることが望ましく、助言をするにしても師事を受けている者から、かつ直接的なことは避けて伝えられることがほとんどだった。
また、半年間である。グレースは停滞し、その間にも周囲はどんどん先を行く。師への相談も自己の研鑽も怠ることはなく、挑み続けてなお足踏みしていたこの半年が、なんでもないただの同期の言葉で前進した。
比べるべくもなく優秀だった。師に対する自身の不甲斐なさが募っていった。素直に悔しかった。それ以上に、達成したことは嬉しかった。その他にも溜め込んでいた色々な感情がぐちゃぐちゃと混ざり合い、そこに初代ベロニカの歴史の追体験からくる疲労もまた、グレースの心を落ち着かせない要因となっていた。
「はいこれ、さっさと着替えて行くわよ」
グレースは隣の椅子に乗せていた荷物を放り投げた。中に入っているのはガンボール用の寒冷地仕様の装備である。その他の荷物は修練場で共有を受けたグレースがあらかじめ用意していた。
ローブを脱ぎ、制服の上からつなぎの防寒具に足と袖を通して、口元まで隠れるファスナーを締める。靴はふくらはぎの半分まで覆うブーツを履き、手袋と耳まですっぽり入る帽子を身に付け、額にゴーグルをかける。トントンとつま先で地面を小突き、何度か手の平の開閉をして感触の確認を行うと、「よし」小さく言ってガンボールは自身の荷物を背負った。
「そんじゃあ行くか」
椅子に座っていたグレースはガンボールの掛け声に応じて振り向き、立ち上がった瞬間、目線の先にぱっと男が現れた。目が合い、グレースに気が付いた男は「やあ」言って近寄ってきた。
「これから任務かい?」
「そうよ」
「こんな朝っぱらからなんて大変だねぇ」
「バングは夜間巡回?」
「そっ、暇でしょうがないよ」
へらへらと笑いながらあくびをする、バングと呼ばれた深緑の髪と眼をした優男は、グレースたちの同期の一人であった。絵に描いたように自由奔放に振る舞う彼は、常から単独行動が多く、任務で一緒になることはほとんどないため、グレースにとっては同期という接点があるだけの間柄だった。しかしまた——
「じゃ、僕は報告があるから」
バングは世間話もそこそこに歩き出した時、ガンボールの肩にわざとぶつかると、
「ああ、まだいたんだ、背信者」
冷めた目で一瞥し、そう言い残して去って行った。
——彼、バングノートは、ガンボールのことが世界で二番目に嫌いなのであった。
出発前に一悶着にも満たないやりとりはあったものの、ガンボールたちは任務地であるエリア四十九へと転移した。
「本当にこんなところに拠点なんてあるの?」
辺りを見回し、知識としては知っていても訪れたのは初めてなグレースの問いは、至極最もだ。
空は鈍重な雲に陽光が年中遮られ、生き物の気配は背後に林立する針葉樹林の木々以外に一つとしてなく、大地は雪と氷が遠く端まで続いている。風はなく、生も死も平等に時を止める永久凍土の未開拓領域。かつて第一次異界侵攻により世界のほとんどが異界の闇にのまれていく中、初代ベロニカたちが避難した時代の大陸の名残。それがこのエリア四十九という場所である。
グレースはそんな場所を拠点として人々が集まり、なんらかの活動をしているなどと、にわかには信じられなかった。
「それを調査すんだよ」
ガンボールは右の手のひらを上に向け、
「『フラムフラン ワンズワイス 地平をなぞって終の始まり』ビクティオール」
ガンボールが呪文を唱え、魔術を発動させた。
ガンボールを中心に球状に魔力が広がっていく。おおよそ半径百メートル弱の空間内にガンボールの魔力が薄く行き渡った。
「進路は東に真っ直ぐ、海岸まで。何もなければ北か南に行って往復を繰り返す。質問は?」
「大丈夫」
「戦闘は任せたからな」
「うん」
指示と確認を済ませたガンボールはゴーグルを装着し、人類の痕跡の一切が途絶えて見えない銀世界へと足を踏み出した。